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チャイルドリサーチネット
公開座談会
<学級崩壊はしつけでくいとめられるのか?>


 メール対論テーマ1「学級崩壊をめぐって」の関連企画として、公開座談会を行ないました。サイト上で対論をして頂いている荒木氏・宮台氏に加えて、尾木直樹氏、広田照幸氏をお招きし、活発に議論をしていただきました。

日 時 平成11年8月9日(月)10時〜12時半
場 所 (株)ベネッセコーポレーション大会議室
出席者 荒木 肇(生涯学習センター常任理事・川崎市立京町小学校教諭)
尾木直樹(教育評論家・臨床教育研究所「虹」所長)
広田照幸(東京大学大学院 教育学研究科助教授)
宮台真司(東京都立大学 人文学部社会学科助教授)
司 会 木下 真(編集者)

はじめに(司会より)
家庭のしつけはダメになっていない
異なる「常識」を持つ世代間での説教は有効ではない
「集団」が作れない低学年の学級崩壊
学級崩壊は「教師問題」なのか?
「学級崩壊」後の学校・社会イメージ


メール対論「学級崩壊をめぐって」
全体
●はじめに(司会より)
――本日の座談会は「学級崩壊はしつけでくいとめられるのか?」という大変刺激的なテーマです。まずはこのテーマを設定した理由を簡単に説明いたします。
 今、小学校低学年でも「学級崩壊」という現象が起こっていることから、「来るべきところまで来た」という危機感が持たれています。これについて学校現場からは「家庭の教育やしつけがなっていないからだ」と言われていますし、世間でも「学級崩壊を何とかしなくてはいけない」という議論が沸き上がっています。
 一方、現在文部省でも調査段階で、学級崩壊の実態に関する情報は共有化されていません。また一言で「しつけ」と言っても、非常に多様な意味があります。習慣的なものから倫理的なもの、あるいは無意識的な身体的しつけ、学力と関連するしつけもあると思われます。そこで本日は、「どんなしつけをして学級崩壊をくいとめたらいいのか?」という処方箋ではなく、「しつけとは何か?」「学級崩壊の実態とは?」という根本的な話をしたいと思っています。まずは、最近『日本人のしつけは衰退したか』という本も出された広田先生に、お話しいただきたいと思います。

広田照幸
広田照幸
●家庭のしつけはダメになっていない
広田 最初に「しつけとは何か」ということを簡単に整理しておきます。「しつけができている」と言った場合、最も狭い意味では「挨拶ができる」「片付けをする」などの「パーソナルな行動の仕方」を習得していることになります。もう少し広げると、集団・社会の一員として一斉に行動したり、人間関係を形成していくような「インターパーソナルなスキル」が含まれてきます。これらは言わば「訓育」です。さらに、将来に向けて知識や技術を身につけてきちんと行動できることも、広い意味でのしつけに含まれます。一方、誰も意図していないのに子どもが勝手に学んでしまうような人間形成もありますが、しつけと区別しておく必要があります。ここでは、しつけを「訓育」、つまり「基本的な生活習慣」と「集団行動・公共性」の二つとしたいと思います。
 要点は3つあります。第1に、「家庭のしつけがダメになってきている」というのはウソだということです。歴史的にたどると、家庭がきちんとしつけをしなくなっているのではなくて、「教育する家族」という家族イデオロギーが浸透してきて、子どもの教育に関する最終的な責任を家族が一身に引き受けざるを得なくなってきたということです。「昔は親のしつけが厳しかった」とよく言われますが、それは士族の家系や裕福な階層の話であって、高度成長期くらいまでの庶民層では、家業を継ぐための「労働のしつけ」を除いては、きちんとしつけをしようという発想を欠いていました。親が忙しかったり貧しかったり、あるいは伝統的に「子どもは放っておいても、そのうち分別がつく」という考え方があったからです。
 ところが、大正期頃の新中間層から「小さいうちからちゃんとしつける」という、教育的配慮に満ちた育て方が登場しました。戦後しばらくは、そういうしつけは「民主的しつけ」などと呼ばれていましたが、高度成長期頃を過ぎた70年代には地域や家庭による階層差が小さくなり、どの家族も、子どもを小さいときから教育的配慮の対象にしていく「教育家族」になった。ですから「今の親子関係が希薄になった」「親が子どもの教育に無関心で学校に預けっぱなしにしている」というのはウソだということになります。その意味では「教育力の低下」論は最初から重要な点が抜けています。現代の親は過剰なほど子どもに熱心なわけですから、「家庭のしつけを強化しろ」というのは余計に親を追い詰めてしまいかねない。ともすると変な親をたくさん作り出しかねないと考えます。
 第2の要点ですが、そうは言っても現実の家族は多様です。「家庭のしつけがダメになっている」と言われる理由は、いろいろな家族の中に「ダメな家族」があり、それが目立っているからです。つまり、イデオロギー的には均質化しているにもかかわらず、実際にはバリエーションがある。同じ階層の中でもしつけはまちまちになっています。その中にも両極端のケースがあり、子どもを丸ごと抱え込んで密着しすぎた親子関係もあれば、子どもを放りっぱなしの家族もある。密着し過ぎた親子関係では、パーフェクトな子育てを目指して、かえって逃げ場のないような状況になったりするわけです。逆に、しつけや教育に時間的・経済的に余裕がないケースや、家族間の不和でしつけどころの問題ではないケースもあります。ですが、そのような親でも子どものしつけに対して無知や無関心でなく、むしろ熱意はあっても余裕がない場合が多い。ですから、「ダメな家族」に「しつけをちゃんとしろ」とお説教しても無駄で、彼らの生活基盤を安定させるような社会保障や行政サービス面で対応する必要があると思います。
 第3には、家族の中の人間関係と学校での人間関係は別であるということです。ある国際比較調査では、日本の親は学校に「基本的なしつけ」を期待していないことが明らかになっています。その代わり「社会生活に必要なルールを身につける」ことを期待する割合は高くなっている。つまり、パーソナルな部分では親が面倒をみるが、集団の中でどう関係をとっていくかという、インターパーソナルな部分は、家族では教えられないと考えているようです。つまり、親にはしつけられない領域が存在しているわけです。
 そもそも学校が子どもたちをうまくコントロールできなくなったのは、親のしつけがダメになったからというよりも、学校の社会的意味が変化したために、学校が子どもにとって魅力的でなくなったからです。そのようなマクロな部分の変化が見えていないと、「親が悪い」という犯人探しをしてしまうことになる。青少年のある凶悪事件に対して、評論家が「それは家庭のしつけが原因だ。事実はよく知らないが」というコメントをしていました(笑)。つまり、「家庭のしつけ」という言葉は、事実に即して原因を明らかにするというよりは、思考を停止させるためのマジックワードになっています。しかも、しつけを強調するというのは、ある種の政治性をはらんでいるわけですから、子どもの問題に関して、何でもしつけに原因を求める安易な議論はやめるべきだと考えます。

●異なる「常識」を持つ世代間での説教は有効ではない
――広田先生の話を受けて各先生方から感想や質問を出していただければと思います。
荒木 肇
荒木 肇
荒木 うかがっていて実感とぴったりだと感じました。教員になって20年経ち、子どもたちが「変わった」と確かに感じますが、それ以上に子どもを育てることに耐えられない親が増えてきたと感じています。「教育に熱心でなければいけない」という「教育ブーム」の風潮があるために、「子育てに耐えられない人」が「子育てをがんばれ」と言われているんだなと感じます。また、「普通の家庭」と言われる家庭が多様化してしまいましたので、教員側も対応に困るわけです。大体クラスの半分くらいのご両親に対して「教育・子育てについて分かっていないな」と実感しますから。
 私自身が自分の子どもにしつこく言っているのは、「自分は世界にたった一人しかいない。それゆえに尊いのだ」ということです。そういう信念を持たせてやることが私たちのしつけの最低限のことではないかと思います。人間は多様でいいのだから、迷惑をかけることがあってもいい。せめて上手に迷惑をかけるとか、迷惑をかけても許してもらえるキャラクターになればいいと思います。つまり「子どもを一人の人間として扱う」「自分が尊いのならば、他人も尊いんだ」というのが最低限のしつけだと思うのです。
尾木 私も広田先生のお話に同感します。ここに文部省が血税を使って緊急に作り、4月から配布を始めた「家庭教育手帳」と「家庭教育ノート」があります。私は全国を講演や調査でまわる際に、この手帳がどう受け止められているのか質問するんですね。2000〜3000人の若い母親に聞きましたが「良かった」「指針になった」という人は1人もいません。逆に「嫌だった」「むかついた」という人は6〜7割。残りは「読んでいない」(笑)。何が嫌われているのかというと、広田先生のお話の通り、若いお母さん方は子どもの教育に熱心なんです。しかし、我々の世代から見ると「熱心でない」ように見えてしまう。そこへ文部省などが「安らぎのある楽しい家庭を作ると決めよう」とか「親がまず幸せになると決めよう」などと思いをぶつけてもまったく有効ではない。なぜ有効でないのかというと、かつての常識が通用しなくなってきているからで、そのことが問題なんですね。
宮台 社会学の立場から話しますと、我々がイメージする家族や学校は「近代」のものです。日本の学校教育は100年の歴史しかなく、「専業主婦が一般化した家族形態」という意味での「近代家族」に至っては昭和30年代以降の歴史しかないわけです。その意味では、「健全な家族」「健全な学校」というイメージは、限定されたある社会段階で、社会的必要に迫られて一定の機能を担うようにしてできたものだと言えます。従って社会が変われば、家族や学校への要求も変わるわけですから、それに適応して、近代家族も近代学校も変化しなければならないのは、当たり前のことであります。
 今春に発表された総務庁の調査で「子育てに自信がある」と回答したのは、60代以上の方で7割以上ですが、年齢が下がるほど「自信がある」割合が減りまして、30代前半になると2割を切ってしまう。この数字を見て「だから最近の若い親はダメなんだ」と言うのは間違いで、すでに50年前の研究では「日本の親は実はしっかりしていない」と言われています。例えば、親の説教に有効性があったのは親が世間を後ろ盾にしていたからです。酔って子どもを殴るような親の説教でも効果があったのは、隣のじいちゃんもばあちゃんも同じことを言うからなんです。ところが、近代化が進み社会が成熟化してくれば、父親は「会社世間」、母親は「カルチャーセンター世間」、子どもは「ストリート世間」などと、「世間」がバラバラになってきます。日本の伝統から言えば、違う「世間」に生きる人の言うことはまともに聞く必要がないわけですから、「世間」が解体・縮小することで子どもに説教が伝わらなくなるのは、実は日本の伝統にかなったことです。つまり、現象としては何も不思議なことは起きていないわけです。
 しかし、問題がまったくないわけではありません。例えば、世間の解体で、家庭も学校も子どもによってやり過ごされるために、一般的社会的な作法や、公共的なことを学ぶチャンスを失うなど、いろいろな問題が起こってきています。
広田 皆さん共感してくださったようですが、どうも違和感を感じてしまいました。私がお話ししたかったのは、「親は昔よりはるかに熱心になって、全体的にはずいぶん良い状況になっている。それでも相変わらずダメな親はいるが、それはしつけのやり方以前の問題だったりして、仕方がない部分がある。にも関わらず、どうしても解決しなくてはいけないのか?」ということなんです。現象的には大問題かもしれませんが、解決のためには行政の介入や学者の啓蒙などの権力が作動してくるわけで、そこまでして家庭のしつけを変更させなければならないほど、事態は深刻でないと思います。つまり、一方ではしつけどころではない問題を抱えた家族があるものの、大半の家庭のしつけは深刻な状況にはなくて、むしろその部分を「問題だ」と言うことで、事態を紛糾させているのではないかというのが私の立場で、そこが決定的に違うと思います。ただし、「しつけ批判を通して何かを実現したい」と考えると、現状では物足りないという議論は当然あり得ると思いますけれどね。
――「しつけ」についてのとらえ方は、皆さん共通の前提に立たれているとは思いますが、そこから現状を見た場合に立場が分かれるということですね。そのことを押さえた上で、学級崩壊に話題を移したいと思います。まずは尾木先生に学級崩壊の現状についてのお話をお願いいたします。

●「集団」が作れない低学年の学級崩壊
尾木直樹
尾木直樹
尾木 学級崩壊の問題は、文部省でも定義ができていない状況で、混乱している様相ですから、きちんと整理することが重要だと思います。私が初めて「学級崩壊」という言葉を聞いたのは1994年5月下旬、大阪のある都市でした。そこで小学校5・6年生の荒れている状況を先生が「こらぁもう学級崩壊ですわぁ!」と嘆かれたのです。その後、95年に入って静岡や関西地域などのメディアに登場し始めました。全国200か所近くを調査しましたところ、「学級崩壊」という現象は1994〜1995年頃に出始めて、とりわけ集中して出てきたのが97〜98年です。
 多くのマスコミは「大学も学級崩壊だ」「中学校も学級崩壊だ」と言いますが、大学では学級がないので学級崩壊のしようがありません。中学・高校は1つのクラスに9つの教科の先生がつく教科担任制ですし、学年指導体制をとりますから、崩壊したくてもできない構造なのです。対して小学校は一人担任制の学級王国システムを明治以来続けてきています。つまり、授業崩壊が学級崩壊に直結するのは、一人担任制の小学校だけなのです。私自身は学級崩壊の定義を「小学校における児童の自分勝手な行動によって学級全体の授業が成立しない状況」、もっとコンパクトに言えば「小学校における授業不成立現象」と言っています。
 県の教育委員会レベルでの学級崩壊の実態調査では、例えば千葉県では1万近い学級のうち15学級と言われ、全国的にも大体このくらいの割合です。ところが民間の調査で学級崩壊は学校全体の8%程度で、5〜6割の教師が「学級崩壊への危機感」を「感じている」とのことです。中学校の校内暴力などの数字はあれだけたくさん出てくるのに、学級崩壊の実態がきちんと浮かんでこないのは、教師が隠そうとしているからではなくて、その実態が「つかめない」ことが「一人担任制の学級王国」の特徴だと言えるでしょう。ですから、中学・高校の教師のノイローゼ状態と小学校教師のそれとは病状・深刻度が全然違うわけです。
――学級崩壊がどんどん低年齢化して、小学校1〜2年生の間でも起こっていることについてはいかがでしょうか?
尾木 小学校高学年の学級崩壊は20〜30年くらい前からあり、ある意味で要因が非常に読みやすいんですね。「教師への不満や怒り」「学習からの逃避」、「みんながやっているから自分もやってしまう」というピアプレッシャーの問題や「思春期ストレス」、さらには「私立中学受験による心情不安」という独特の学級形成の構図もできます。さらに、小学校5〜6年生の学級崩壊の9割以上は「担任教師いじめの構造」を持っています。最も身近な権威ある大人としての学級担任を集中的にいじめることで、クラスが仲良くなって団結し思い出を作ると。つまり、「中学校からの伝統的な荒れ」が雪崩現象的に小学校高学年を襲っているというわけです。
 ところが、小学校1〜2年生の学級崩壊の現象はまったく異質で、多くが「自己中心・衝動的パニック現象」として起きています。愛情不足、コミュニケーション不足のためにコントロール不全に陥ったり、暴力行為で表現してしまう。それから「崩壊」というより「集団の未形成状態」という点もあります。今までは、入学後6月くらいまでは規律を作るのに時間がかかることはあっても、11〜12月になっても集団が未形成という状況はあまり例がありませんでした。幼児期からの発達・成長の前進面、あるいは弱点の両面を備えている子どもたちを、小学校という入り口が上手に受け入れることができずに、大きな「段差」ができているという現象が指摘できるわけです。つまり小学校一年生の入り口の部分で、なぜ「崩壊」ではなく「未形成」なのかということに限定して考えると、私たち社会全体の問題である側面があると考えます。ただ、個人的には「学級崩壊反対」ではありません。素晴らしい側面も含まれていると思います。
 就学前の子どもたちの状況を見るにあたり、学童保育指導員に聞いた調査では、多くの項目で子どもにこの3〜5年で変化が見られるという回答が出ています。例えば「親の前では『良い子』に変身する」は95.7%もあります。親の前で子どもは「良い子」でなければ生き延びられなくなって、逆に学童指導員の前で自由な生活をしている、つまり「外弁慶」になっているという見方もできると思います。それから「何かあるとすぐに『パニック』状態になる子どもが増えた」「自己中心児が増えた」「小学1年生で児童が先生の指示に従わず、授業が進まなかったり統制がとれないこと(『授業崩壊』『学級崩壊』)が起きるのは当然だと思う」と答えた人も多くいます。
 そういう中で家庭のしつけにどういう問題が出てくるかと言いますと、私の行っている調査では、80〜85%の親が子どもに体罰をしているのです。しかも頻度もかなり高く、2〜3日に一回くらいです。我が子を虐待するように親を追い詰めている状況が蔓延しているのだと思います。母親たちに具体的に「何を支援してほしいか」と尋ねると「悩みを相談できる友だちがほしい」と言います。ですから、子育てに関してはピンチに陥っている若い層をどのようにして支援していくのかを一刻も早く考える必要があります。

●学級崩壊は「教師問題」なのか?
――実は、広田先生と荒木先生は、「学級崩壊」というテーマを取り上げること自体に違和感を持たれていました。その意味では各先生方にはご意見もおありかと思いますが。
広田 歴史学という、長いスパンでものを考える立場から言いますと、学級崩壊がなぜ教育の根幹を揺るがす重要な問題なのかが分からない。例えば日本全国の学校がダメになるという重大な帰結をもたらすのならば分かるのですが、実際にはそれほどの割合で起きているわけではなく、「起きる可能性がある」ということですよね。子ども自身は担任が変わったり中学校へ進学したりすると、コロッと「いい子」になることもあるように、「学級崩壊」を通過して最終的にはきちんと育っていく。要するにこれは「教師問題」なのではないかと。今後ごく少数の学校で続いて、数年経つとブームが去っていくような程度の問題ではないかと考えています。
――現場のお立場から、荒木先生はいかがですか?
荒木 「学級崩壊」という現象が出てきて、我々としては「何だこれ」というのが実感です。学級崩壊と似たような現象は20〜30年前からあって、我々の中では常識でした。一つの学校に20クラスあったら、大体1〜2クラスで学級崩壊が起こっています。教員が30人もいれば、1〜2人は不適格な人もいるんですね。子どもの集中力に対応して様々な方法で授業をやるとか、子どもがじゃれてきたら頭をなでてやるということができない人は確かにいるわけです。つまり、そういう教員を「危ないクラス」に配置させることが問題なのです。ですから、やはり学級崩壊や授業崩壊は教師の力量の問題でもあると考えます。
 さらに言えば、一般論の教育と学校教育を交ぜて議論されることがあります。そもそも日本では「学校がどういうところなのか?」という議論がされていないのではないかとも思います。先ほどから聞いていても、「学校に○○をしてほしい」という要求が多すぎるような気がします。「学校に何を頼んではいけないのか」「学校に何を任せてはいけないのか」という議論を、ぜひ市民の方々にしていただいて、「ここまでは学校にやってほしいけど、ここからは放っておいてくれよ」としていただきたい。現在の学校では、教師の考えている文化やしつけはある特定の価値観に沿った、一つの「部分」でしかないわけです。私たちから言わせてもらえば、そういうことはある限られた階層の人だけがやっていることで、私たちはその他の大多数の子どもをいかにして生き生きと誇りを持って暮らさせるかということに集中しているんです。
宮台 「学級崩壊現象」が絶対数としては少ないとしても、急激に増えているとすれば、その変化率の大きさは社会の大きな変化を表しています。社会科学は、絶対数よりも変化率の大きさに注目するのです。ちなみに私自身は学級崩壊と言われる現象をずっと待ち望んでいたんですね。なぜなら、軍隊と監獄をモデルとした近代学校教育が用済みになる成熟社会で、学級王国の維持はもともと無理だからです。「学級が維持できないから問題なのだ」と考える方には、「そんなことは問題ではない」と強調したいと思います。
 それから「先生の力量」に関して荒木先生からお話がありましたが、急激に先生の力量が落ちたということはないと私は思っています。教師や親の力量により負担がかかるようになった結果、「弱き輪の部分」から矛盾が噴出しているだけです。しかしその弱い部分に関して、教員の配置を換えるとか、質の悪い親を職業再教育のようにして補完することで、問題の本質が見失われる可能性があるということを私は強調しているんです。先ほどの荒木先生の発言からは、「現場にいる人しか教育の現状や問題が分からない」というニュアンスを感じ、少し引っかかりました。
荒木 大学では思想とか理念ばかり教えてこられるわけですよね。そして現場に出る。そこで思想と理念だけで、どこまで子どもに対応できるのかという問題です。私が言いたいのは「お前らは学校現場を知らないから口を出すな」ということではなく、どの場合にも必ず「損をする子ども」がいるということなんです。クラスの中には学級崩壊を先導する子どもについていけない子もいるわけです。なぜ我々が「学級崩壊させてはいけない」と言っているかというと、「生の世界」になってしまうからなんです。子どもは大人の知らない人間関係を持っていますから、どんな事件が起きるかわからない。第一、教室の中で不公平が起きてしまう。それを救わなければいけないのではないでしょうか。おそらくその意味で教師は、普通の人より善意だけは大きいのではないかと思います。
 また、私自身も、もはや1学級1担任制には無理があって、細かいテクニックだけでは対応できなくなっていると実感しています。TT(チームティーチング)や学年担当制など、いろいろなやり方がありますが、本校ではそれにとどまらず、学年・学級の壁を取り払って3・4年生が一緒に授業をするなどのプランを現在立てています。要するに、教員配置や指導システムそのものの問題点を見直し、変革していく必要があると思っています。
宮台 それに関連して言うと、教師の人材育成に関して、現在の教師のキャラクターは相当偏っていると思います。例えば教育学部の学生は他学部の学生と比べて、おしゃれでないし、街で遊んだり、ナンパしたり・されたりの経験も乏しい。他学部の学生もそう考えています。いい意味で偏っていればいいのですが、学校の外を知らない世間知らずが多いのです。では、どうすればいいのかと言うと、教員採用システムを変え、教員免許を持たない学校スタッフを他の先進国並みに増やしたり、他の社会経験を積んできた人間を優先的に入れるようなシステムにするなど、「学校の中に社会を入れる」具体的なシステムを模索するべきだと思います。
荒木 みんな学校に遠慮しすぎているのではないかと思うんです。もっと市民感覚でどんどんとものを言ってくれればいいんですね。今宮台先生から「教員採用のシステムを変えろ」という具体案が出てきたので安心したんですよ。つまり、「型を変えていくんだ」という提言を学校外からどんどんしていって、行政がそれをきちんと入れればいいと。ついでに言うと、私のいる市では、教育学部出身の教員はそんなに多くありません。とすると、問題なのは学校に入ってからの研修システムではないでしょうか。いくら社会経験を積んでいても、現場に入ると「堅い」学校文化を背負ってしまいますから。

●「学級崩壊」後の学校・社会イメージ
宮台真司
宮台真司
宮台 ただ、一般的に学級が崩壊しているかどうかは別として、キーワードは「共同性」なんです。「共同性の欠落」があらゆる場面で起こっていることは間違いない。例えば、私は昔、クラスの仲間を先導して集団で授業を欠席させたりしていました。この場合、「共同性」は崩壊していないんです。崩壊していないからこそ、それを使ってとんでもない反学校的なことをやっていたわけです。しかし今では、どの教育段階でもそういうことは絶対に起こりません。では、我々は「共同性」的なものを失って自立したのかと言えばまったくそうではなく、従来は頼れていた「共同性」が衰弱していく中で不安になっていく、社会学で言うところの「アノミー」という現象が起きているのです。
 では、「集団行動ができない」「共同性の衰弱」という問題をどう考えるかというと、例えば先進国の中で幼児教育において「協調性」を第一価値としているのは日本だけです。日本以外の先進国が重要視するのは第一に「自立」で、第二に「相互扶助」「相互貢献」です。これら二つを軸にして幼児教育を組み立てているわけです。ところが日本ではそうではないからこそ、「共同性」的なものが衰弱していかざるを得ない。私が言いたいのは、そのような「共同性」よりも「自立した人間」としての「共生」を重視しろということです。
 もっと具体的に言えば、人間観を根本的に変える必要があります。近代の「人間の尊厳とは何か」ということについては、2つの立場があります。一つは、「大いなるもの」「崇高なもの」と一体化することが尊厳だという立場。もう一方は、「自己責任による試行錯誤の結果に培われた自信」が人間の尊厳だとするものです。どちらがいいのかはそれぞれの価値観によると思いますが、これまでの日本では明らかに「一体化」「協調性」が重要なことだと考えられてきました。しかし成熟社会では共同性重視という観点からの教育が困難になったことは確かです。その時に重要なのは、「共同性を復活しなくてはいけない」ということではなく、様々な変化の予兆をとらえて、教育学的に前提とされてきた「協調性重視」という考え方を全面的に否定していくことだと考えます。
――今のご指摘は学級崩壊の問題だけでなく、日本の教育のあり方自身の問題につながると思いますが、その点はいかがでしょうか?
尾木 海外と比較すると、日本の学校改革は15〜20年くらい遅れていると言われます。今の親たちによっては、強制的な枠内での親の参加ではなく、自発的なチャータースクール的なものをイメージしているんです。ただ、やはり子どもたちに参画させない限り、子どもの自己決定能力や自己責任能力はついていかないと思います。1989年の「子どもの権利条約」をきっかけにして、すでに国際的に教育改革はそのような方向で動いています。そういう点では、日本の教育行政は国際的な流れと遮断されているんですね。ですから、組織やシステムをどのようにして市民参加型のものにしていくのか、つまり「スクール・デモクラシー」ということが問題なんです。そこを突きつけているのが、小学校の学級崩壊の問題だと思うので、私は学級崩壊に大賛成なんです。
宮台 「スクール・デモクラシー」を日本で投入すると、現状ではかえって難しいことになるでしょう。学校を開くプロセスで、地域や親に開くとかえって難しくなると思いますので、むしろ親の悪い影響力をブロックして「上からの改革」をしていく必要があるのではないでしょうか。これに関しては、文部省がいい/悪いという議論がされますが、そんな単純な問題ではありません。文部省に限らず役人は世の中の流れに従順なのです。現在の文部省の路線は1984年の臨教審の路線によって敷かれた方向をたどっていて、方向性としては、教育の自由化・複線化、学級王国のようなシステムのみという一律さを排除していくものです。ですから、文部省の教育改革をときには温かく見ていく必要があるのではないかと思います。
広田 確かにここ10年で流れが大きく変わり、文部省も「自立を支援する教育」や「家庭と地域と学校の連携」を言っています。ですが、私が言いたいのは、共同性に代わるものがいろいろ出てきているけれど、今の学校や家庭のシステムを捨ててまで新しいものに移行しなければならないほどに、我々は近代の新しいステージに入っているのかという疑問なのです。もし社会全体で「もはや近代が終わった」、つまり「共同性の時代が終わった」としても、自立していない人間を自立させるようなテクノロジーを我々は持っていないので、とりあえずは「協調主義」的なことを教えていくしかないと思います。要するに、子どもの欲求に合わせていく社会や学校がいいのか、それとも退屈で時代遅れだが、それなりに役割を果たす学校がいいのかが問われている。私は、退屈で押し付け的だけれども、家庭で学べないものを学ばせてくれる学校でいいのではないかと思います。
宮台 それが今あるものですよ。で、それだけで何も問題ないんですか?
広田 学校の先生は大変だし、子どもも生きていくのは大変だし、いろいろと問題はあるんですよ。でも、非行統計などを見ていくと、そういう中で何だかんだとつまずいたりしながら、最終的には20歳くらいで、みんなまともになっていっています。
宮台 それは「年齢効果」ではなくて「世代効果」だと思います。今学級崩壊を起こしているような、共同性が縮小し、しかも共生の作法も知らない低学年の子どもたちが20歳になったときに、今の20歳と同じであるとは予想しづらいわけです。要するに今の20歳の人たちが小学生だったときの学級環境と、今の学級環境はまったく違う状況であるわけです。
尾木 今の子どもたちは、学校や家庭で教えてもらう以前にいろいろなことを知っていますよね。そういう時代の子どもたちと、我々大人がどのようにしてパートナーシップを築くのかが問われているのではないでしょうか。今までは「子どもと大人の関係性をどのようにして作っていくのか」ということは、ほとんど議論されてきていませんでしたからね。
宮台 短期的な戦略としては、教師も親も今の人材でやっていくしかありません。人材に負担をかけず、なおかつ子どもたちの試行錯誤の承認が支援されるようなシステムを作る必要があると思います。長期的には、人材養成を考える必要があるでしょう。人材に負担をかけないシステムを通じての子どもたちの学びそれ自身が、人材養成に役立つということがあるわけです。その意味で教育改革は20〜30年のタイムスパンで考えるべきものです。今の一律の体制を前提とすれば、荒木先生がおっしゃったように、学級崩壊すれば損をする人間がいます。しかし、学級が成り立つことを前提としないシステムにすれば、子どもたちが損をしない受け皿を作ることも可能であります。具体的にはそのあたりがプランニングの方向性になるでしょう。
――「学級崩壊はしつけでくいとめられるか」というテーマからは離れてしまいましたが、学校の問題について、「やはり学校というシステムが根本的に考え直される時期に来ている」という点においては一致したのではないでしょうか。ですが、どの方向に行くべきなのかということで議論が分かれたのではないかと思います。
 本日は本当にありがとうございました。
(1999年8月9日)


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