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テーマ論考3

少子化時代における子育ての価値

 「少子化」問題は、女性の社会進出による未婚化・晩婚化、子どもを産みたくとも産めない社会経済環境に問題の焦点を当てられてきました。したがって、対策としては、出産による女性の負担を軽くするという観点から、固定的な男女の役割分担意識の変革や、それにともなう雇用慣行の是正、また保健所の拡充や児童福祉手当の充実などの支援策がとられてきました。
 豊かな社会においては、そもそも女性が子どもを産み育てる意欲を持つという前提が成り立たなくなってきたのではないか。近代社会は、子どもを産み育てることの価値、社会集団にとっての子どもの価値を見失っているのではないのか。そうであるならば、いわば社会全体が子どもに対する価値意識、子どもとふれあう生活感覚、子どもへの関心のありようを考え直す必要を求められているのではないでしょうか。
 今回は、「働く母親の子育て支援」から発展させて、少子化をテーマとして、さらに踏み込んだ、議論を進めていきたいと思います。このコーナーは「期間限定フォーラム」と連動しております。掲載される論考を参考にしていただき、みなさまから活発な意見をいただきたいと思います。

9月1日 「生活者」としての子育て(天野正子)
7月7日 「公的」な存在としての子どもを考える(池本美香)
6月16日 少子化を通して見えてくる現代社会(汐見稔幸)


9月1日  天野正子 (お茶の水女子大学大学院人間文化研究科教授)
 「生活者」としての子育て

Q:現在の子育てをめぐる報道をご覧になってどんな感想をお持ちですか。
 私自身が子育てをしたのは70年代でずっと昔になってしまいましたが、今の子育てをめぐる報道を見ると、「子育てについての語られ方が変わっていない」という印象を持ちます。
 子どもがおかしくなっているとか健全に育っていないとか、子どもや育児に関して「社会的危機」の文脈で語る。17歳をめぐる一連の事件報道を見てもそうですよね。
 70年代は「子殺し」「子捨て」「登校拒否」といった言葉が新聞紙上に登場しはじめ、そこで「母原病」に代表されるような母性主義の強調がなされ、誰が悪いのかという犯人探しをしていった。そして少なからぬ人が「母親の責任」を指摘しました。母親の子育てにどこか間違いがあったから子どもが健全に育たなかったという論理です。育児や子どもの教育をめぐる母親の「無限責任」を追及する。何が起きてもすべて母親の結果責任、無限の責任が母親に負わされたわけです。
 そして母親が力不足であるから母親だけには任せられない、それを補うために父親も育児や子どもの教育に参加すべきだという論理で、父親の存在がより高い位置で正当化される。「父親の生活態度や姿勢が変わらないまま、ただ参加しさえすればいいのか」「仕事埋没型のまま、企業の論理を背負ったままで育児に参加しさえすればいいのか」という問題は問われない。「子育ては父親自身の人間的な自己成長にとって大きなメリットになる」という語られ方もあまりされない。70年代からかなり時間はたっていますが、基本的な構図はまったく変わらないですね。

Q:現在の男女共同参画社会づくりは望ましい方向に進んでいると思われますか。
 とってもかたく、発音しにくい名称ですが、男女共同参画社会基本法というのは、「21世紀の日本社会を女と男が一緒につくっていくことが大事なんだよ」という社会理念を打ち出した点で、一歩前進と思います。とりわけ、子育てや介護を含めて、家族をつくる男女の責任を法律ではっきり決めたのは、大きな進歩ですよね。男も家庭づくりの責任から逃れられない、一緒につくっていこうよ、と。だから、この法律はパートナー法とも言われますね。
 ただ、基本法ができたからといって、何かががらっと変わるものではない。それに、この基本法は、それを具体化し、実際に動かしていく際の理念になりえるか、という点で見ると、いくつか疑問があります。
 何よりも、この基本法のなかでは、ふたつの理念が分裂しています。一方で、男女の個人としての人権が大切だよと言い、もう一方で「経済社会的な緊要性」に応えていこうと言っています。後者は、はっきり言うなら、21世紀の少子高齢化社会における労働力不足を見込んでの、女性の労働力への期待ですよね。この法律の制定理由としての、「人権」と「経済社会的な緊要性」というふたつが、私のなかでうまく結びつかない。そこに、年金をはじめとする社会的負担の担い手として、女性を効率的に働かせようという政策的意図を感じてしまうのです。
 経済社会に一生懸命に対応していくだけが能ではないと思う。こんな働き方をしてて、本当に女も男も幸せなんだろうか。ほどほどの所有で満足して、もっと自由で豊かな時間のなかで、人と人との関係づくりを育みたい。そうしたことに価値を置く生き方へのシフトを打ち出さない限り、子育てに夢なんて持てないですよね。

Q:人間らしい生活に目を向けようということから、働く女性の支援に対抗して、「主婦の復権」を唱える人もいますが。
 でも働いていないからといって、経済優先の市場経済の流れに加担していないとはいえないのですよね。というよりも、専業主婦は、夫への経済的依存と、全面的な家事負担によって夫たちを仕事中心の生活に追い込み、むしろ市場経済を積極的に担う存在になっているわけですから、本人が働いているのかいないのかの二分法で論じるのは、問題の立て方がすごくおかしいと思います。問題は家族の働き方や生活の仕方のはずです。
 それに密室育児で自分の子どもだけに熱いまなざしを向けていると、広い視野に立つということが難しくなります。我が子を勲章にし、さらに我が子に熱い期待をかける。せっかくそうではなくなりつつあるのに、専業主婦が礼賛されるとまたそういう方向へ行ってしまう。密室育児の持つ問題性がさらに顕在化していくような気がしてしょうがないですね。
 母親自身が広い人間関係のなかに自分を置かないと、自分の子どもを相対化できずに、子どもと一体化してしまう。私自身の子育て経験からすると、子どもから離れるひとときは絶対に必要です。働きたいという欲求をすごく持っている人が、専業の母親になると、本当にイライラして母親自身が精神的安定に欠けることになります。働きたい女性に「専業主婦になれ」というのは、それこそ非人間的な言説だと思います。

Q:天野先生は、専業主婦か、働く母親かということが問題ではなく、脱消費者、つまり生活者であることが重要だと著書で述べられていますが、天野先生にとって「生活者」とはどんな人々をさすのでしょうか。
 非常に抽象的な言い方になりますけど、トータルな意味での「生活者」とは、人間が生きていく上で避けて通れない暮らしのなかのさまざまな問題――生産・流通・消費・リサイクル・廃棄というプロセスを人任せにしない、できる限りの範囲で自分の手に取り戻そうとする人たちだと思います。もちろん今のような社会の仕組みではそれをすべて担うのは不可能ですから、全部が全部というわけではありませんが。暮らしの自治領域を少しでも広げていこうと考える。つまり市場経済の論理、効率性とか生産力主義ではなく、生きている人間の道理に立つ人たちということです。
 そういう生活者というのは、生活のあり方とか働き方を何よりも重視する、そして生産・消費・廃棄のサイクルのなかに受け身的に自分を置かない。例えば生産者に対して、自分たちはこんなものやこんなサービスがほしいというはっきりした対案を持つ。生産したものが、どう使われて、どういう廃棄の仕方で環境に影響するかということまで見届けるような企業の論理を要求していく。消費に関しては、いま自分たちが食べているものとか、使っているサービスの質を問題にする。疑問を感じたら異議申し立てしていく。自分たちが納得できるものを自分たちの手に入れようとして協同組合活動をする。まあそこまでいくと地域政治に自分たちの代弁者を送ろうという運動にまでなっていくわけですが、労働・余暇・政治なども含めて人任せにしないということだと思います。
 脱消費者、つまり商品を受動的に買わず、生活のあり方を問題としてそこから自分たちの必要とするものをみきわめる、つまり欲望と必要をきちんとみきわめる人たち。自分の暮らしに本当に必要なものと過剰な欲望の範囲のものをみきわめる。限度を自分で決める。欲望と必要の境界線をはっきりと引ける人々でしょうね。また、ひとりで生活者になるということは不可能で、人と人との新しい関係づくりのなかで、生活者となっていくわけですから、手間暇かけても対話を重視する人々ということにもなるでしょうね。

Q:生活者の活動の場として地域の大切さについても触れられていますが。
 地域というものは、人間が生きていく上で何が大切なのかが、とてもよく見えてくる生活空間なのです。家族というのはあまりにも囲い込まれて、私事化されてしまって物事が見えてこない。企業とか行政はシステムであって匿名性の通用する世界ですから顔の見える関係ではない。そこでその中間にある地域というものが、私は21世紀における重要な生活空間になると思います。休む・食べる・排泄する・学ぶ・付き合う・働くといった具体的な営みが展開されているところですから、人間が生きていく上での受け皿になる。
 また、私は職住近接というのがとても大事になると思います。いま生産・消費・余暇というのは全部市場で行われていますよね。そして家庭に残されたのが家事・育児なのです。家庭というのは消費機能だけを担うようになったわけだから、そこでは生活のない子育てが行われている。だから子育ての場に生活を取り戻すためには、できる限り職住近接が望ましい。職住近接が実現されれば仕事と育児の両立も可能だし、バランスもとれると思うのです。
 男性勤労者は、雇用の場には生活を引きずってきてはいけないという、まるで生活も何もない、家族も子どももいないような働き方をして初めて評価される。それではやはりまずいわけです。「生活者」として働いているのだという、そういう発想が企業に受け入れられなければ、育児休業制度を男性が取るということもないだろうし、家族の病気などの理由で有給休暇を取ることもできないでしょう。

Q:しかし、どのようなスタイルの社会であっても自然発生的な共同体に比べると人と人とのつながりは弱いのでは。
 かつての共同体のようなものを私たちが復権することははっきり言ってもうできないと思うのです。それに、かつての共同体が必ずしも居心地がよかったとは思いません。そこは個人の自由を許さない相互監視型、「ベタベタ」型の社会だったわけです。
 一方、都市型社会は血の通っていない「バサバサ」型ですよね。高齢者が亡くなって1か月してようやく発見されるような。干渉・介入しないことを生活規範としてずっと貫いてきた結果がこうなったのだと思います。
 そうなると、かつての共同体でもないし、「バサバサ」型の都市型社会でもない、できる限り個人の自由は尊重する形でいざというときに支え合う関係、それを意識的につくっていくよりほかない。「ベタベタ」型でもない、「バサバサ」型でもない、「サラサラフカフカ」型の人間関係。サラサラとしていていざという時にはフカフカとなる。
 これは聞こえはいいですが、つくるのは大変だと思います。でも、もう意識的にそういう社会をつくらざるをえない、そういう時代に私たちは生きているということを自覚しなければいけない思うのです。
 地域を単位とするのだけれど、地縁などではなく、ある価値・趣味・目標を共有できる人たちが小さなネットワークをあちこちにつくっていく。大体自転車で10分か15分くらいで行ける範囲の生活圏で、みんなが一斉に何かをするというのではなくて、そのなかでさらに選択的な――上野千鶴子さんはそれを「選択縁」と呼んでいますが――かつての地縁・血縁でもなく、もちろん社縁(会社縁)でもない選択縁をつくる。自分たちの価値・趣味・目標で結びついた、しかもものすごく緊密に一体化するのではなく、サラサラとしていて、粘着的なものではない、そしてもし違えば解散してまた新しいものをつくるわけです。そういうことをしていかないと「バサバサ」型の都市型人間関係というのが終わりにならない。それこそ密室保育というのがこのまま続くことになると思います。

Q:生活者として子育てを考えていくときに一番大切なのは何でしょうか。
 今の子育ての中心的な担い手は30代、Hanako族といわれた人たちですよね。豊かな社会の中で、ファッショナブルに自分の感性を磨き、グルメを楽しんだ世代ですよね。彼女たちの発言をみていると、楽なほどよいという、暮らしの快適さ志向、快適さや安楽さへの全体主義を感じます。
 子育て中でもきれいにして母親には見えないようにする−もちろんすべての人ではなく、マスコミに登場する一部の人たちがそうなのでしょうが−私は彼女たちに対して違和感があります。生き方や生活態度が消費主義に汚染されてしまっている。過剰な消費主義と清潔志向がある。
 子育てというのはそれこそ最も自然に近い行為だから、汚くて猥雑になって当たり前。それを見えないところに全部囲い込んでいくといった社会心理が、意識の根っこの部分に浸透していると思います。子育ての現場をもっとリアルな目で見れば、子どもも自分も決してそんなにファッショナブルではありえないのに。
 そういう風潮のなかで、マスコミ報道や特に若い母親たちが語るなかにひとつも出てこないのは、生命の連続性というものを自分のなかで感じ取る力量とか力といったことですね。そういうものを実感できなくなっているのか、そういう言葉がひとつも出てこない。日本社会のために国家のために産まなきゃいけないというのはチャンチャラおかしくて話にならないけど、それとはまったく違う次元での生命の連続性を自分のなかに感じること、自分がこうして生きているのは他者が産み落としてくれて、他人の助けによって今こうして生きているのだということですね。
 不思議な生命の連鎖を感じるという瞬間が子育てをしているとあると思うのです。何もできなかった子どもが突然ハイハイをして、ヨチヨチ歩きをしてといったプロセスをみていくと、何か生命の不思議を感じるじゃないですか。そういう感覚がとても大切だと思うのです。
 経済原則の論理、効率とか利害得失の判断などについてはすごく取り上げられるのだけれど、そういう言説はなかなか出てこない。もともと生活という言葉の根底にあるのはそういう生命の維持とか連続性というものです。生命の維持というのは自分自身の力だけではなく背中合わせになった他者の生命の助けによってなされる。だから自分が生かされている生命の連鎖のなかに子育てもある。つまり子育てというのは人類の長い歴史の持つ生命の連鎖のなかにあると位置づけられる。そして子育ては、私事とか個人的営みという側面ももちろんありますが、同時にやはり公的な営みであると思うのです。
 子どもが自分の思い通りにならなくてどんなにイライラしても、例えば寝顔を見ているときとか、何かの瞬間にある不可思議さとか謙虚さといったものを感じると思う。生まれてすぐ我が子を見た瞬間に感じる不思議だなあという気持ち。自分の力だけではない、何か大きな力、そういうものを感じる瞬間を私は自分のなかに見失いたくないと思うのです。
 だからやはり特定の親子関係を超えた社会的なひろがりのなかで、子どもの自己成長力を伸ばす。子育てというのは子どもが自分で育とうとする力を助け、そのことで親も育てられていくことです。生活者の論理を子育てのなかに位置づけると、生命の連鎖や連続性を自分で感じ取っていくこと、それ以外にないと思います。

天野正子(あまの・まさこ)
お茶の水女子大学大学院人間文化研究科教授。1938年広島生まれ。東京教育大学大学院文学研究科修了。千葉大学文学部教授を経て現職。著書に、『「生活者」とはだれか』(中公新書)、『フェミニズムのイズムを超えて』『老いの近代』(ともに岩波書店)など。
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7月7日  池本 美香 (さくら総合研究所)
 「公的」な存在としての子どもを考える

1.少子化対策に対する違和感
 日本の合計特殊出生率(女性が生涯に産む子どもの数の平均)は、1998年1.38と調査開始以来最低の水準を記録している。94年にはエンゼルプラン(「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について」)が策定され、97年には人口問題審議会が『少子化に関する基本的考え方』と題する報告書を発表、98年の『厚生白書』も少子社会をテーマに取り上げた。その後も「少子化を考える有識者会議」「少子化の対応を推進する国民会議」など、政府レベルでの少子化対策の取組みが活発化している。
 このように少子化が社会の注目を集め、子どもを育てやすい環境が整備されていくことは好ましいことだと思う。しかし、その議論の方向については、少子化をもたらしている当事者世代として、どうも違和感が拭えない。現在の少子化対策は、時間延長保育、乳児保育など保育サービスの充実によって、仕事と子育ての両立支援に重点が置かれている。この背景には、今後労働力人口が減るので、経済成長を維持するためには女性に労働力として貢献してもらう必要があるという考えがある。少子化対策は、女性に労働力として働いてもらうと同時に、将来の労働力も産んでほしいと期待する政府と、「女性の働く権利」を主張する人とが意気投合し、保育サービスの充実が正当化される。その一方で、「働いていない」専業主婦の子育て支援については及び腰のように見える。
 しかし、いつでも預けられる保育サービスがあれば、子どもは本当に増えるのだろうか。

2.子どもを自分で育てることの困難
 なぜなら、私の周りには保育所に預けてもっと働きたいという人より、自分で子どもを育てたい人が多いからだ。男性で育児休暇を取りたいという人もいる。そういう人に「保育所があるから子どもが産めるはず」というメッセージはあまり意味がない。
 現在の少子化対策では、「働いている人の子育て」は支援するけれど、「働いていない人の子育て」については関心があまり払われていない。保育所への補助金は、保育所を利用しなければ恩恵はない。働きつづける人は育児休業給付があるが、仕事をやめて子どもの面倒をみると給付はない。働いている人は税金を納めているので、子育て支援をすることも正当化されるが、働いていない人の場合は支援する理由が見つからない。このため、「子どもを自分で育てる」という選択肢は、経済的に不利になり、また肩身の狭いものとなる。
 選択の自由が保障されているように見えて、実際は経済成長に貢献するような選択を強いるような圧力が働いているのだという指摘がある(シュムークラー『選択という幻想 市場経済の呪縛』青土社)。現在の少子化対策の流れも、親は労働力として経済成長に貢献し、子どもも将来労働力として経済成長に貢献できるように保育所や学校で効率的な教育を受ける、といった選択が実際には有利になっていて、親が家で非効率な子育てをするという選択は困難な状況がある。少子化対策の背景には、「日本が一流の経済大国であり続けるために」という前提があり、その前提が「自分で子育てすること」を困難にしている。
 社会学者のリッツアによる『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部)という本も、ファストフードに見られる効率性、予測可能性、計算可能性を重視する傾向が、子育ても含めたあらゆる分野に広がりつつあることに警鐘を鳴らしている。なぜ人々が効率的で予測可能なものを選択する傾向にあるかといえば、そのことが収益の増加をもたらすからだという。企業はもちろん、医療や教育の分野にもマクドナルド化が広がり、家庭でも、非効率で予測不可能である出産や子育てが敬遠されたり、専門家に預けて安全に効率的に教育してもらうことを選択する傾向が強まっている。女性の育児の機会費用(育児の代わりに仕事をした場合に得られる収入)を考えた場合、保育所に預けた方が家庭として収入が増えるという理論である。
 日本の少子化対策は、このマクドナルド化を徹底的に進めることで、子どもが増えることを期待しているようにも見えるのだが、一方で人間関係が希薄化するというマイナス面や、人々の行動が一部の人にコントロールされやすくなるという危険性もはらんでいる。

3.諸外国の「子育ての権利」を支える施策
 諸外国でも、わが国同様保育所を整備し、女性の労働力化が進みつつあるが、一方でそれとは逆の方向、すなわち親が子どもに関わることを支援していく動きも注目される。
 例えばノルウェーでは、保育所に子どもを預けずに親が自分で面倒をみる場合には、保育所に対して出ている補助金を、親に直接現金で給付するという制度が、1998年に導入された。これは1、2歳児が対象で、保育所を利用しない場合は、月額3万円程度になっている。この現金給付制度導入に当っては、女性の働く権利の保障に逆行するものという強い批判があり、実際94年にスウェーデンで導入されたときには半年で廃止されてしまったが、ノルウェーでは「親にもっと子どもと過ごす時間を」という方向が支持されたという。
 ニュージーランドには、プレイセンターという親たちが運営する幼児教育施設がある。50年以上の歴史があり、教育省から幼稚園、保育所と同じように認可を受け、補助金も得ている。幼稚園や保育所との違いは、専門家に子どもを預けるのではなく、素人である親たちが当番制で子どもの面倒をみる点である。そして、子どもの面倒をみたり、施設を運営していくための技術を身に付ける目的で、親の学習会もセットになっている。ニュージーランドでも、保育所への補助金を増やしたことで保育所利用者が急増し、親が関わるプレイセンターの利用者数は減少傾向にある。しかし、Families growing together(家族が一緒に成長する)というプレイセンターの理念は、今もなお親たちの支持を受けており、政府もそれを支援しつづけている。
 アメリカでは、子どもを学校に行かせるのではなく、親が自分で教育をするというホームスクールの動きが注目を集めている。ホームスクールは、公立学校の個人学習コースに登録したり、資格をもった親が家庭で教えたり、子どもを生徒にして私立学校を設立したことにする方法などがあり、アメリカではほとんどの州で合法化されている。
 親が子どもの教育に関わるというこれらの動きの背景には、親の高学歴化がある。高学歴の親ほど、仕事時間が多く、家事時間が少ないが、育児時間は多いという調査結果もある。労働市場における仕事だけでなく、子どもの教育というかたちで自分の能力を生かしたいという人も増えており、それを政策的に支援する動きが出てきているのである。

4.「個」ではなく「共」を支える
 少子化の議論においては、親も子も個人として自立し、市場競争で優位に立てるように自分の人生を選択していくことで、生産性が高まり、生活が豊かになるという方向がイメージされている。親は企業で効率的に働き、子どもも専門家の効率的な教育を受ける。しかし、そのことは同時に親子までもばらばらにしていくという側面がある。
 先に挙げた親子が共にいることを支える政策は、労働力を増やすわけでも、税収を増やすわけでもなく、また素人の親が教育することは効率的でないかもしれない。しかし、そこには計量化できない楽しみや創造性があり、非効率であるがゆえに強い人と人との絆が結ばれ、そこから安心や自由が得られる。哲学者のメイヤロフは『ケアの本質』(ゆみる出版)という本の中で、「他から必要とされていないと感じているために自由だと感じているのではなく、むしろ、もし他から必要とされたり、他に身をゆだねるような何かがあるときに、その方こそ自由だと感じる」のだと言っている。
 少子化対策においては、個人の選択の自由を掲げつつ、実際には経済成長に貢献するような親の労働力化や育児の専門化が進み、非効率で、予測も計量化もできない親子の関係から安心や自由を得たいという願いは、ますます贅沢なものとなっている。しかし、むしろそうした願いが叶えられない環境こそが、少子化をもたらしているのだとすれば、保育所の整備よりも、親子が共に過ごす時間や空間を保障するような施策こそ必要であろう。
 効率性や予測可能性の追求とともに個々人が孤立化、孤独化していく社会を前提に、少子化対策を経済政策として議論するのではなく、最も非効率で予測不可能ともいえる子どもという存在を社会が受け入れ、そのことで人々がつながり、安心を得ていく社会をつくっていくという方向での議論が期待される。子どもとは、将来の労働力という意味だけでなく、非効率で予測不可能な存在ゆえに人々の絆を強め、また将来の社会に対する夢を担う存在という意味で、「公的」な存在なのである。

池本美香(いけもと・みか)
さくら総合研究所 環境・高齢社会研究センター主任研究員。1966年生まれ。日本女子大学文学部英文科卒。少子化、保育・教育、ライフスタイルなどの調査研究を担当。共著に『市場重視の教育改革』(日本経済新聞社)など。
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6月16日  汐見稔幸(東京大学教育学部助教授)
 少子化を通して見えてくる現代社会

1.少子化対策への根本的疑問
 少子化に対する対策がようやく本格化し始めている。国会では「少子化対策基本法」の制定も検討され始めているという。
 政府はこの10年ほど、少子化への懸念を訴えてはいたが、施策的に本腰を入れ始めたのは、総理大臣のもとに置かれた「少子化への対応を考える有識者会議」が、1998(平成10)年12月に提言を行ってからである。翌99年6月にはこの提言を実施に移すために「少子化への対応を推進する国民会議」が置かれ、施策の推進が始まった。文部省もその一環としてこのテーマに取り組み始め、中央教育審議会が2000(平成12)年4月に「少子化と教育について」という報告を急遽まとめた。各省庁も具体化を始めていて、今急速に国をあげての「少子化」との対決が始まろうとしている。
 「少子化への対応を考える有識者会議」の提言(以下、有識者提言)は、「結婚や出産はあくまでも個人の自由の問題であって、社会が押しつけてならないこと」、しかし「少子化は社会に様々な困難をもたらすだろうこと」、そして「女性が社会に出て働くということは必然的な傾向で、『女性よ家庭に戻れ』的な発想はまちがっていること」、この三つを慎重に断った上で、少子化の要因を取り除くために、かなり細かに環境整備のための方向性を示している。たとえば、「男女の固定的な役割分担論を克服すること」「職場優先の企業風土を是正すること」「職場における育児支援環境を整えること」「出産育児のために退職しても再就職を不利にしないこと」「男性がもっと育児に参加すること」「地域での子育て支援を当然とする世論をつくること」「学校で男女共同参画の視点や意味を学ぶこと」等々で、理念にとどまらず、それに沿った諸政策もある程度具体的に提案している。
 少子化問題の議論が政府関係の機関で始まったのは、すでに10年以上前であった。そのときから、少子化の原因は、子どもを持つ個々の親の出生子ども数の減少のためではなく、結婚しない女性や高齢で結婚する女性が増えたこと、要するに晩婚化、非婚化にあると言われてきた。しかし、それを克服するためにとられた措置は、エンゼルプランに見られるように、保育所の開所時間の延長や乳児保育の拡大など保育所の機能拡大と、児童館の設置など地域の育児支援システムの拡充が基本であった。
 こうした施策が、働く女性の機会を拡大したり、働き方のフレキシビリティを高めたこと、あるいは親の育児困難の解消に貢献をしたことは事実であろう。しかし少子化対策という点からみたとき、これらの施策の効果は全くといってよい程あがらなかったのも、また事実なのである。それは、こうした努力にもかかわらず、この10年間合計特殊出生率は一貫して低下し続けたことに表れている。皮肉なことだが、少子化克服のための施策を実施する過程で、人々はさらなる少子化への道を選択するようになったのである。失敗の主な理由は、少子化の原因が産もうとしない女性の増大にあるのに、施策の基本は既に産んでしまった女性向けであったからだが、より根本的な問題に施策が食い込んでいないからだと私は考えている。
 このエンゼルプランに比べると、今回の有識者提言は、より包括的でより本質に向かっているという印象を与える。これまでのように保育所の開所時間を延長したり、乳児保育を拡大せよというようなことに重点を置いていないだけではなく、企業への要請項目を今までの行政文書よりも大幅に増やしているし、地域社会の育児支援システムづくりを当然と考えることや婚外子出産への偏見の克服など、考え方の大幅な転換の必要性も提案されている。全般的に従来とかなり異なる行政理念や新しい企業倫理の必要性を呼びかけていて、産み育てることがもっと楽にできるように社会のインフラを全面的に整えなければならないという決意と方向が示されている重要な文書だと考えてよいと思う。
 しかし、にもかかわらず、私は、この有識者提言とそれに基づく施策だけでは、少子化は依然克服されないように思う。たしかに、こうした施策が実行に移されれば、出生率の低下のスピードをダウンさせたり出生率を少しは向上さたりすることはできるだろう。しかし、少子化傾向そのものをストップさせ、出生率を大きく回復させることにはつながるかどうかは根本的に疑問である。そこには、少子化を導いた文明的な要因への配慮とその転換という視点が欠けているからである。

2.「豊かさ」が消失させた出産の生活的動機づけ
 人間が他の動物と異なるのは、子どもを産むか産まないかを意志的に決定できるところにある。元来本能に基づく行動であった出産・育児を、文化や文明が生み出す欲望による行為に発展させてきたのが、人間の行動パターンの特殊性である。
 生産能力が低い社会では、子どもは共同体の生産性を上げるための労働力として不可欠であり、その限りで出産は意志的というよりも生活の必要に迫られた行動であった。しかし、今日のように「豊かな社会」と言われ、食べるだけであれば子どもの力を借りる必要が全くなくなってしまった社会では、そうした出産理由は消滅する。しかも女性の地位の向上が進み、高学歴化や有職化も進展したことが、出産・育児を女性の天職と考えるような発想を相対化させてきた。今や女性は「子どもを産むことが私の天職」と考えることはほとんどなくなってきている。
 つまり、人類は、ある段階までは自らの必要によって子どもを多く産むが、それを越すと子どもが自らの生存にとって絶対に必要ではなくなる段階に入るため、子どもを産み育てることを動機づける、これまでとは別の理由と意味づけが必要になる、ということである。これは必然的な歴史の流れであり、人類史の中で、子どもを産むことは条件が整わないと選択しない、条件的選択行為へと必ずどこかで変わっていくのである。
 いわゆる先進国といわれる国々は、今がそうした過渡期、転換期にあたっている。これらの国々では例外なく合計特殊率が2を割っており、やがて深刻な人口減が待ちかまえている。その理由は、今述べたように、これらの国々は共通に、社会が自らの生命維持のためにこそ子どもを産むという段階を突き抜け、大変な労苦を伴う出産育児という人生を選択しない女性が増えてきたためである。この事情は、女性に出産・育児を期待するには、その動機づけを促すような、これまでとは異なった、社会の新たな生命哲学が必要になっていることを示している。
 しかし、現状では、少子化問題を論じている論者の中にさえ、この転換に自覚的でない発想がまだ残っている。これまで疑われることのなかった発想、すなわち「女性が子どもを産むのは社会にとって必要で、それは当たり前のことだ」という発想が、どこかに無意識にこびりついたままの少子化議論があちこちで顔をのぞかせている。
 私たちは、この無意識の前提を一度きっちり取り除かねばならないと思う。出産・育児は本能的な行為であるという発想や、社会のために女性は条件さえ整えば必ず子どもを産むものだというような発想、これらを取り除いた上で、あらためてなぜ少子化が?という文脈をつくりなおして議論しなければいけないと思う。そうしないと、少子化克服への膨大な努力もかなりが水泡に帰してしまうであろう。

3.近代社会が抱え込むニヒリズム
 女性はたんに働く際の条件が整わないから産まないわけではない。自分の自己実現と出産・育児を天秤に掛けると自分の自己実現の方を選ぶという人が増えてくるのは、女性が歴史的に差別されてきたことを考えるとある意味では当然といえるだろう。その感覚が男性に理解できるかどうかが問われているのだが、それだけでなく、現在の日本の社会的風潮として「人間関係を気楽にかつ豊かにつくることこそが人間の幸せなのだ」ということを実感しにくくさせる何かが背後にあることが問題だろう。その何かを女性は出産という一大選択をするときに無意識に感じ取っている可能性がある。子どもを育てるのは親子という人間関係だけでなく、夫婦や近隣の人との温かい人間関係の中でかろうじて成功裏に行われる営みであるが、人間関係に苦労する文明がある限り、子どもを産もうとする人が増えるはずがない。
 また、生命の生産と維持をめぐる遺伝子技術などの発達で、人間の生命がどんどん操作可能な対象になってきているが、このことが次第に人類が触れてはならないものに触れていっているという不安をも醸成して、生命を産み育てるということへの深層の不安とニヒリズムを生み出している可能性もある。生命が喜びではなく、どす黒い何かとセットにイメージされるような世の中になれば、人々は新たな生命を産もうとする選択を次第にしなくなるのも当然であろう。
 しかし考えてみれば、こうした人間関係を疎ましく思う傾向や生命を操作対象にしてしまうような傾向が現出しているのは、近代社会がめざしてきたことそのもの、あるいはその必然的な帰結といえるのではなかろうか。
 人間の世俗的欲求の拡大と合理的な実現を人間の幸せと同一視し、それを懸命にめざしてきたのが近代社会だとすると、それは今述べたような傾向を必然的に生み出す。これまでのように「大きな物語」を標榜してきた時代はまだいい。個々の生命の生産と再生産を意味づける超越的―普遍的な視点がそこから得られる可能性があったからだ。しかし、ボストモダン状況は、そうした意味視点を浮遊させ、結果として消費的主体の絶対化を導くような風潮をつくりだした。その結果、生命に対する両義的な感情――自己と他者の生命を支配できるし、したいという感情と、それが実は何かへの深い冒涜ではないかという感情――が肥大化し、人々は、それを統一する視点が得られないために絶えずさいなまれることになっていく。それは次第に新たなニヒリズムを蔓延させていく可能性をはらんでいる。現代は、このニヒリズムをうち消すために刹那的な刺激をどんどん拡大し、17歳の青年の犯す事件さえ、その刺激の一環として観劇するような風潮を拡大しているように思える。こうした状況下で、喜びを持って子ども産み育てようとする女性が増えるはずがないのではないか。
 今や、生命やそのつながりを意味化する生きた生命哲学や現代にふさわしいスピリチュアリズムをみんなで紡ぎ出し、それを日常の生活哲学としていかない限り、そしてまた、支えあうことこそが喜びだとする新たな社会風潮を創出しない限り、このニヒリズムは克服できないことはもはや明らかなように思う。少子化の克服は、こうした文明の転換という視点を伴っていない限り難しい。

4.ニヒリズムの克服に向けて
 実は日本は、この新たに醸成されてきたニヒリズムにもっとも自覚的でなかった国の一つであったように思う。たとえば、最近の学級崩壊現象を調べてみると、当事者になる子どもは、<失敗はいけない><人に負けるのはダメ>というような価値観を過剰にもっていることがわかっている。その上に自分のダメな部分を出したときにそれに共感してもらったことがない、ということがつけ加わる。いつもがんばっていないといけないと強迫されているのである。考えてみるとわかるが、これは「競争こそが活力」という追いつき追い越せ型の近代化を支えてきた哲学の、子どもに表れた表現形に他ならない。こうした価値観のもとで育ってきた世代が、いま親になり、わが子に同じことを過剰に要求し出していて、それが学級崩壊という形で現象してきている。競争的価値観こそが、子どもと親の双方に激しいストレスを与えているのである。こうしたストレス状況が続く限り、「子どもをもっと産もう」とは絶対にならないだろう。
 「競争こそが活力」という発想は経済社会には都合がいいのかも知れないが、日常生活を崩壊させる哲学になりうる。日常生活では「困ったときはお互い様」という支え合いの哲学こそが必要になる。人生は競争などではなくて、自分らしさをじっくり自分のペースで探す旅、というのが庶民の求めている生活哲学なのである。
 ところがこの競争哲学は形を変え、今日横行する市場主義の中にも持ち込まれようとしている。この哲学が温存されたままで、行政や企業が少子化対策を講じても、理念と施策がそっぽを向き合ったままになるだろう。大事なことは、共存・共生しあうこと、要するに困っていたら支え合うこと、そこにこそ人間の真実があり人々が誇るべき価値があるという価値観が企業や行政の中に浸潤していくことだと思う。それのみが、広がり始めたニヒリズムから人々を解放していくはずである。
 少子化は、政策問題である以上に文明問題ではないのか。そう問う視点だけが、この問題に光明を与えるように思う。(このことについて詳しくは拙著『親子ストレス』平凡社新書)

汐見稔幸(しおみ・としゆき) 東京大学教育学部助教授。1947年生まれ。東京大学教育学部、同大学院卒業。著書に『幼児教育産業と子育て』(岩波書店)、『ほめない子育てー自分が大好きといえる子に』(栄光教育研究所)、『シリーズ 学校の再生をめざして』(共著、東京大学出版会)など多数。
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