●HOME●
●図書館へ戻る●
●一覧へ戻る●

岐路に立つ日本の教育(4)
学校スリム化論の怪

 学校週5日制が始って以来、学校のスリム化が課題として論じられるようになったが、奇妙なことにそのことに対する異論がほとんど聞かれない。特に最近では、行政改革、財政再建、規制緩和が時流になり、西暦2003年からの週5日制完全実施が決まったこともあって、学校のスリム化は当然のことと考えられている。

 「教育を改善するためには学校のスリム化が不可欠だ」という奇妙な考えが自明視されるようになった理由には、次の3つがあるようだ。

 第一の理由は、いうまでもなく学校週5日制の実施である。当初、週5日制には批判的意見の方が多かったが、同時に、実施するからには教育内容の精選・授業時数の削減が不可欠だという付帯意見も多かった。やがて、この付帯意見が反転して、教育内容を精選し、週5日制拡大の障害を取り除き、教育の改善を図るべきだという考え方にすり変わっていった。

 しかし、そうすることで本当に教育がよくなるのだろうか。論理的に考えるなら、授業時数の削減は、すでに起こっているように学校行事・特別活動の時間を切り詰めることになるか、教科の学習の水準を下げること(教育内容の精選)になるか、あるいは、それを避けるために過密化を促進するかである。「内容を精選して、自発的な学習を奨励し、生きる力を育てる教育を行う」といった美辞麗句に惑わされるわけにはいかない。むろん例外は少なくないだろうが、ゆとりも学力水準も時間の関数である。総時間を減らして、ゆとりを生み出し、基礎・基本を重視し(=学力水準を維持し)、しかも「生きる力」を育成するといった魔法のようなことが可能だと何を根拠にいえるのか、まったく不可解なことである。

 第二の理由は、日本の学校は多様な役割を抱え込みすぎている、この学校過剰の状態を変えないかぎり、学校も教育もよくならないという考え方である。この考え方は、1980年代半ば以降広まってきたものだが、1995年4月に経済同友会が提言した「学校から「合校」へ」にその典型を見ることができる。それは、(1)学校をスリム化する、(2)教育に多様な人が参加する、(3)子どもたちが多様な集団のなかで成長できるようにする、の3点を考え方の基本にして、(1)国民共通の基礎・基本(言語能力・論理的思考力、日本人としてのアイデンティティ)を教える「学校」、(2)科学の発展学習や情操教育の場としての「自由教室」、(3)子どもたちが自然や他人とぶつかる場としての「体験教室」、の3つの緩やかなネットワークとしての「合校」という「新しい学校のコンセプト」を提案した。

 この案によれば、例えば地域社会は遠足や運動会や部活動を指導する「「体験教室」づくりを通じてその教育機能を復活させるとともに、低下した家庭の教育力、特に生活指導力を補うことができる」ということである。ここには、戦後復興の活力が漲っていた1950年代の地域社会へのノスタルジーがあると感じるのは、筆者だけではあるまい。ともあれ、この提言だけでなく、臨教審や中教審の答申でも、学校・家庭・地域の連携の重要性が繰り返し強調されるが、家庭や地域の教育力が低下したからこそ、学校の役割が荷重になってきたのである。その歴史的事実としての因果関係を、願望や目的論で逆転させようとしているのが、第二のタイプの議論である。

 第三の理由は、「スリム化」や「制度疲労」といった言葉が生み出す幻想である。「スリム」という言葉は、こんにち「肥満・肥大=活力低下・機能低下」という対極イメージを想起させ、身体であれ、組織であれ、スリムになって活動力を高めることはいいことだと思い込ませる力をもっている。「制度疲労」も同様で、実質的な点検を省略して、とにかく新しいものに取り替える・置き換えることを正当化する力をもっている。そうした言葉の魔力に蹂躪されているのが、近年の教育改革動向である。

 肥大した部分を外科的に切り落とせばよくなるというのが「学校スリム化」論の実体のようだが、本当のスリム化は自ら努力することなしには達成されない。学校・先生方の努力を期待したい。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版]  第219号 1997年(平成9年)7月1日 掲載


Copyright (c) 1996-, Child Research Net, All right reserved