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岐路に立つ日本の教育(5)
個別学習 ─ 一斉授業と学級

 1980年代の臨教審以来、「個性」が教育改革のキーワードになり、「個性を尊重した教育」を実現するために、教育の個別化・多様化に向けての改革が進められている。例えば第15期中教審答申(1996年7月)は、個性を生かした教育を進めるために、ティーム・ティーチングやグループ学習、個別学習などの導入・拡大、中学段階での履修選択幅の拡大、高校段階での単位制や選択科目の拡大などを提言した。それを引き継いだ第16期中教審は今年5月の「審議のまとめ(その2)」で、その基本路線を確認したうえで学校段階間の接続関係を取り上げ、公立の中・高一貫校の導入、17歳での大学への「飛び入学」、入試制度の改革などを提言している(6月末の答申も同様の内容)。

 一般論としては、「個性の尊重」が教育の基本であること、制度の弾力化やグループ学習・個別学習の積極的活用などが好ましいことはいうまでもない。しかし、昨今の改革動向には二つの点で危惧されるものがある。一つは、制度の弾力化や選択幅の拡大が教育の個別化・複線化の方向で制度化されようとしていること、もう一つは、その前提として、個別学習やグループ学習、さらにはマルチメディアを利用した教育などが時代にふさわしい先進的で優れた方法であり、一斉授業は画一的で知識優先型の古い教育方法だという対比が広まり始めていることである。そして、その背後で、〈学級=クラス〉という集団単位の意義が軽視ないし否定され、その枠組みの変更がなし崩し的に進められようとしている。

 学級というものをどこまで維持すべきかは議論の分かれるところであろうし、また、時代とともに変化すべきものかもしれない。しかし、これまで日本の学校は、欧米の学校に比べて、学級というものをはるかに重視してきた。そして、この事実のなかに、日本の学校の卓越性の重要な基盤があった。

 学級は、学校における生活・活動の基本的な集団単位であり、ほとんどの活動が行われるホームグラウンドである。それは単なる生徒の集まりではなくて、一年にわたって生活と学習を共にし、共に成長していく〈共生・共成〉の基盤である。教師と生徒が一緒につくりあげ、共に成長していくコミュニティーである。

 それは、授業のあり方や教師の力量にも関係している。日本ではしばしば授業をドラマのメタファー(隠喩・暗喩)でとらえ、授業を一つのドラマとしていかに優れたものにするかというとらえ方をする。それは、授業研究でも教員研修でも強調され、教案作成の枠組みにさえなっている。さらに言えば、グループ学習や個別学習が用いられる場合も、発見学習や問題解決学習が採用される場合も、クラスの枠組みのなかで種々の工夫が凝らされる。その意味で学級は単なる活動単位ではなくて、学校における協同・共生・共成の基盤であり、授業改善の仕掛けであり、教師の力量形成の基盤でもある。

 それに対して、英米の学校で見られるように教育の個別化が進めば進むほど、そうした学級の機能は縮小することになり、教師に問われる授業改善の工夫や力量の質も変化することになる。極論すれば、個別学習の場合、教師に必要なことは、授業の工夫や学級づくりということよりも、子どもの興味・関心や学力を把握し、適切な指導・助言をすること、適切な教材を選択・用意することである。

 むろん、英米の学校でも学級がまったく形骸化してしまっているということではない。共生・共成の基盤としての学級を重視している学校や教師も少なくない。しかし傾向としては、日本よりはるかに個人主義的であり、学習の個別化や学力別・コース別編成が自明視されている。

 筆者は日本のあり方が無条件に優れているというつもりはない。しかし、以上のような学級の意義と機能をなし崩し的に軽視していくことには疑問を感じる。〈共生・共成〉基盤としての学級の意義を踏まえつつ、個性の尊重、個の尊厳を重視する教育のあり方を探っていくことこそ、日本の教育が今、問われている重要な課題なのではなかろうか。そのためにも、学級規模の縮小などの条件整備が重要だと言えよう。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第220号 1997年(平成9年)8月1日 掲載



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