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岐路に立つ日本の教育(7)
英語教育の在り方

 文部省は去る7月、第15期中教審の第1次答申の提言に沿って「『総合的な学習の時間』(仮称)について」(案)と「小学校における外国語教育の扱いについて」(案)を教育課程審議会に資料として提示した。この外国語教育というのは、実際には英語教育であるが、その内容は国際理解教育の一環として、英会話に触れたり、外国の生活や文化に慣れ親しんだりする活動を、小学校3年時から、学校の創意工夫と児童・生徒の興味・関心を重視した教科横断的な「総合的な学習の時間」において行う、というものである。

 従来から英語教育の在り方をめぐっては種々の議論があり、改善の努力が進められてきた。その基調は、「いかにして日本人の英会話能力を高めるか」ということと「英語嫌いを減らすか」ということの2点にあった。というのも中学・高校と6年間も英語を習っているのに「日本人の英語下手は国際的に有名だ」と言われるからであり、また、中学・高校と学年が上がるにつれて英語嫌いが多くなるからである。そして、その元凶は、「読み・書き」中心、文法中心の受験英語にあると言われてきた。

 こうした状況のなかで、中学・高校で「聞く・話す」学習が以前よりも重視されるようになり、大学入試でもリスニングを課す大学が増えてきた。また、文部省はTOEFL(米国の大学入学に必要な英語力のテスト)やTOEIC(国際コミュニケーション英語力テスト)といった英語力テストを、英検と同様に大学の単位に換算できるようにするとの方針を打ち出している。小学校から英語教育を始めるという方針も、そうした英語教育改革の一環をなすものである。

 この一連の改革は、検討中のものも含めて、一応は納得できるものである。しかし、そこでの議論には少なからず疑問がある。第1に、「読み・書き」中心だから英語嫌いが多いのであって、「聞く・話す」中心にしたら英語嫌いが減るといった議論が横行しているが、それは妥当な議論ではない。というのも、経験レベルで言えば、かなり前から「聞く・話す」学習が導入されているのに英語嫌いが減ったわけではないからである。また理論的には、学校教育が程度の差はあれ、強いられ枠づけられた活動であり、かつ、学校差が拡大する活動であるかぎり、英語に限らず、どの教科でも学年が上がるにつれて「嫌い」の割合が多くなるのは、ほとんど避けがたいことだからである。

 第2に、日本人の英語下手は「読み・書き」中心の受験英語のせいで、会話中心のものにすれば克服されるといった議論が横行している。しかし「日本人の英語下手」を問題にしなければならないとしたら、それはビジネスマンであれ、研究者であれ、国際的に活動する人たちの場合である。この場合、重要なことは、日常会話が少々できるかどうかといったことよりも、英語の基礎学力・語彙力と、話し、理解すべき実質的内容にどれだけ精通しているか、その場面で当人がどれだけ重要な存在であるかということである。

 第3に、「読み・書き」中心の英語力よりも「コミュニケーションの道具」としての英語が重要だと言われ、そのためにもリスニングの能力が重要だと言われる。しかし、言葉の学習もコミュニケーションも、現代社会では極めて総合的なものである。活字文化が発達していない時代ならいざしらず、現代社会では「読み・書き」能力を伴わない高度の外国語能力が必要とされるケースは稀である。そうだとすれば、学校での外国語教育もまた総合的なものでなければならない。国際化が進んだとはいえ、日本で普通の生活をしている人が、高度の英会話能力を必要とするわけではない。国際的に活動をする人はともかく、そうでない人の場合、たとえ商取り引きで英語が必要であっても、重要な取り引きは自分でするより、プロの通訳や翻訳家に頼むほうが賢明である。また、インターネットが普及し、国際的交信が増えれば増えるほど、「読み・書き」能力の重要性が高まる。

 学校週5日制完全実施に向けて授業時数が削減されようとしているなかで、楽しさや自己表現などを重視するあまり、学習・教育の内容が薄められ、安易に流れることのないように期待したい。

ふじた・ひでのり 1944年生まれ。住友銀行、名古屋大学助手・助教授、
東京大学助教授を経て現職に。専門は、教育社会学。
主な著書は、「子ども・学校・社会」(東京大学出版会)ほか。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第222号 1997年(平成9年)10月1日 掲載



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