●HOME●
●図書館へ戻る●
●一覧へ戻る●

岐路に立つ日本の教育(9)
スイスのアプレンティスシップ

 前回説明したように、スイスの子どもたちは中等学校進学時点(12歳)で、3タイプの3年制中学校(初級、中級、上級)と6年制のギムナジウムに振り分けられるが、この振り分けは子どもの希望と学業成績に基づく教師の指導によって行われる。特にギムナジウムについては、進学者の大多数は推薦で進学するが、推薦が得られない場合は公的試験を受けて進学する。

 こうした仕組みが機能しているのは、ギムナジウムと伝統的な大学の教育が就学率で同年齢層の2割以下という低い水準に抑えられており、研究・教育職や特定の専門職に就く場合以外はあまり重視されていないからであり、いま一つにはアプレンティスシップ(徒弟制)=職業高校、技術カレッジ、就職という進路選択・キャリア形成のメカニズムが労働市場の広い範囲で有効なメイン・ルートとして維持されているからである。

 そこで問題となるのは、アプレンティスシップと職業高校の在り方である。日本の研究者や評論家のなかには、教育改善の戦略としてアプレンティスシップの導入を説く人もいるが、それは言われるほど簡単なことではない。

 スイスの子どもは、中学卒業時点(15歳)でアプレンティスとして受け入れてくれる企業・職場を探す。アプレンティス情報を収集し、公営のアプレンティス紹介所の紹介や知人・親戚のつてで希望の企業・職場に願書を提出し、試験や面接を経て採用される。そして、アプレンティスとしての採用が決まった者だけが希望の職業高校に入学を認められる。

 アプレンティスシップは、個々の業界(trade)が管理しており、業界ごとに最低給与水準が定められている。アプレンティスの採用は、個々の企業・職場と業界と経済省の契約によって行われる。つまり、アプレンティスシップは、ギルド制の歴史と伝統を背景にして、一方で、青少年の教育に対する産業界の役割規範と責任感に支えられ、もう一方で、参加企業と業界と政府の共同事業として維持されているのである。

 しかし近年、こうしたアプレンティスシップが揺らぎ始めている。アプレンティスシップが機能するには、何よりも十分なアプレンティス・ポスト(需要)がなければならないが、そのポスト数が1980年代後半以降の景気後退で急減したことが、その直接のきっかけである。しかし、より深刻なのは、消費資本主義の浸透にともなって青少年の職業志向に変化が表れ始めたこと、もう一つには、それを実質的に支えてきた業界のなかに、このシステムを維持することへの消極的な姿勢が広まり始めていることである。特に、スイス最大の産業である金融業でその傾向が目立ち始めたことが、このシステムの揺らぎの最大の背景になっている。

 今後スイスのアプレンティスシップがどうなるかは定かではないが、以上の説明からも明らかなように、それは日本で考えられているような単なる教育システムではなくて、青少年の職業訓練と人間形成と職業選択を、学校と企業・職場が共同で行うシステムであり、長い歴史的伝統と、人材育成・人間形成に対する産業界の信念と責任感、さらには、教育と職業生活に対する人びとの意識(満足と信頼)に支えられたシステムである。

 歴史的伝統は、慣性の法則で現状を維持する傾向にある。しかし消費資本主義と情報資本主義の進展にともなって、このシステムを支える規範と信念・信頼に部分的ながら揺らぎが見え始めている。それがスイスの現状のようである。そして、その揺らぎは、生活スタイルや職業志向が多様化すればするほど、教育機会・職業機会に対する平等意識が強まれば強まるほど、深刻なものとなる。というのも、他の西欧諸国と同様、スイスのシステムも、その構造において伝統的な階級差や性差別を前提にしてきたからである。

 ひるがえって日本の教育システムは、早くから機会均等を中軸原則として拡大してきた。学歴主義と受験競争の激化はその副産物と見ることもできるのだが、それを克服する道があるとしたら、それはスイスのシステムに学ぶこともさることながら、それ以上に、そうした副産物を克服するだけの文化的な豊かさを実現できるかどうかにかかっている。

ふじた・ひでのり 1944年生まれ。住友銀行、名古屋大学助手・助教授、
東京大学助教授を経て現職に。専門は、教育社会学。
主な著書は、「子ども・学校・社会」(東京大学出版会)ほか。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第224号 1997年(平成9年)12月1日 掲載



Copyright (c) 1996-, Child Research Net, All right reserved