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岐路に立つ日本の教育(11)
学校選択自由化の是非

 文部省は昨年の1月、全国の都道府県教委に「通学区域制度の弾力的運用に関する通知」を出し、事情によっては区域外の学校に通学できることを改めて確認した。そこで想定されている“事情”とは、いじめや不登校への対応、身体的理由、通学距離などが主なものと考えられているが、東京などでは、子どもに〈より良い教育〉を受けさせたいという保護者の関心や好みによる学校選択を、事実上認める区も出始めている。通学指定校変更希望の本音としては、学校規模の大小や学校の評判、幼稚園や小学校時代の友だちと同じ学校に行かせたい、指定校が統廃合されるらしい…といったものが多いようだが、こうした動向は、学校選択自由化の始まりともいうことができる。

 先の文部省通知は、1996年12月の行政改革委員会の「規制緩和の推進に関する意見(第2次)」の提言を受けたものだが、こうした動向は、その提言の趣旨に沿うものではある。また、進歩的な評論家や識者の間には、こうした動向を好ましいと見る意見が少なくない。しかしこれは、社会的な選択として本当に望ましいものかどうか、誠実にきちんと考えるべき問題である。

 通学指定校の変更を望む主な理由としては、(1)いじめ対策などの避難的理由、(2)通学距離のように区割りがはらむ部分的非合理に対する不満、(3)幼稚園・小学校時代の仲間と同じ学校に行きたいという仲間志向、(4)指定校が荒れているらしいとか、統廃合されるらしいといった特殊事情、(5)評判の良い学校や好みに合う学校に行きたい・行かせたいという〈良い学校〉志向などがある。

 このうち(1)と(2)は、従来の弾力的運用が認めてきた事情である。しかし(3)〜(5)の理由はいずれも、特別の事情がないかぎり認めないほうがよい。(3)は、特定の子どもとは別の学校に行きたいという差別・排除の論理を潜在させている。(4)は、当事者の不安と願いは正当なものであり得るだけに、特別の事情として認めざるを得ない場合もあろうが、多数の生徒にこれを認めざるを得ないとしたら、その場合は、むしろ忌避される当の学校を早急に改善すべきであろう。

 問題は(5)である。これを支持する議論としては、(a)個人(保護者や子ども)の好みや関心の追求を抑制すべきでないという議論、(b)選択権の保障や選択幅の拡大を善とする議論、(c)自己決定・自己責任こそ活力の源泉でありこれからの社会のあり方であるべきだという議論、(d)競争原理による学校活性化論などがある。

 いずれも教育や学校を一般の商品と同じと見るなら、それなりに根拠のある議論だが、次の点で問題がある。第1に、“学校・教育”という商品は、購入時点で商品価値が確定している一般の商品とは異なり、学校・教師と入学した生徒が一緒になって生産し完成させていくものである。学校選択の自由化は、この生産過程に差別と排除の論理を持ち込もうとするものである。学校を選択できるということは、学校が生徒を選別するということであり、入学者が非入学者を差別し排除するということである。第2に、入試競争や学歴主義の問題を考えれば明らかなように、制度としての学校教育は、だれかの利益や機会便益の増大がほかのだれかの不利益をもたらすという構造的特質を持っている。第3に、学校を選択するということは学校間に質的差異(優劣の差)があることを認め、学校を序列づけることになる。しかし、小・中学校段階の教育の基本は、市民教育・基礎教育としての共通性にあるのではなかろうか。第4に、一般に幼稚園児や小学生が〈良い学校〉を判断できるとは考えにくいから、保護者の好みや関心が学校選択を左右し、文化的・社会的な格差や差別が反映することになる。これは、子どもたちのなかで早くから学校差意識や差別意識が育まれることになりかねない。第5に、通学に時間がかかる、など種々の問題がある。

 大多数の保護者は、わが子が地元の学校で安全にのびのびと過ごせるならそれに越したことはないと考えているのではなかろうか。その期待に応え得るような学校づくりをすること、そのための条件整備をすることこそ重要なのではないかと思われる。


ふじた・ひでのり 1944年生まれ。住友銀行、名古屋大学助手・助教授、
東京大学助教授を経て現職に。専門は、教育社会学。
主な著書は、「子ども・学校・社会」(東京大学出版会)ほか。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第227号 1998年(平成10年)3月1日 掲載



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