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シリーズ(2)
未来への責任
教育にできることと
できないこと

 先日、同僚の広田照幸さんと話をしていたら、こんなことを言われた。「教育の研究をしていて、何年先のことまで考えていますか。今10歳の子どもが80歳まで生きるとしたら、2070年までですよ。そこまで考えて教育の研究をしていますか?」と言うのである。ドキッとした。私も、2020年くらいまでのことは、自分の研究の責任の範囲と考えていた。なるほど、今の子どもたちの行く先を考えたら、教育にかかわる仕事は、自分たちの人生をはるかに超えた時間を相手にしている。そのことに単純明快な問いをもって気づかされたのである。教育の歴史研究で優れた成果を上げてきた広田さんならではの、時間軸を縦横に飛び回る感性が、この卓抜な問いを発しているのだろう。

 私たちは、どうしても目の前の問題にかかわりがちである。「今、ここ」にいる生徒の問題を解決することが、当面の仕事だと受け取りやすい。そうした日常を生きている私たちには、なかなか時間軸を自由に行き来して、「今、ここ」の問題が未来にどのようにつながっているのかを想像するだけの余裕も視点も欠けている。

 だが、「今、ここ」の問題解決が、教育という仕事にとってどうしても不可欠であるのかどうかは、一度疑ってみる必要がある。「今、ここ」で、子どもたちを幸せにすることは、その子どもたちのこれから何十年間の生活のなかで、どのような意味を持つのか。「今、ここ」での「楽しい学校生活」を保証することが、何十年後かに、その子どもたちが大人となった時に、どのような社会を生み出すことにつながるのか。目の前の一人ひとりの子どもを大切にすることと、そうした子どもたちが大人になってどんな社会をつくり出すのかということとの間には、実はいくつもの論理の飛躍があるはずだ。幸せな子ども時代を送ること、「楽しい学校生活」を送ることが、2070年にどんな社会を生み出すことにつながるのか。最近の教育の議論では、通常このような時間を超えた問いはなかなか出てこない。

 「豊かな社会」を猛烈なスピードでつくり出した日本人にとって、近年、教育問題といえば「今、ここ」で、個々の子どもの幸福を実現することだと考えられている。いじめの問題も、不登校の問題も、基本的には、個々の子どもを大切にし、「今の学校生活」を豊かにしようという発想のうえに築かれている。それらが重要ではないと言いたいのではない。だが、そうした問題を重視するあまり、教育という営みが社会のなかで果たすべき最も基本的な課題、すなわち「未来社会の建設」という意識が後退してしまったのではないか。

 私たちは、子どもたちにどのような社会をつくる担い手になってほしいのか。2070年とはいわないまでも、2030〜40年頃に、この国と地球とがどんな課題を抱えているかは、ほんの少し情報を集めただけでも想像がつく。国内でいえば、極度の高齢化と少子化が進んだ社会の活力の問題、地球規模でいえば南北間での貧富差の拡大や人口問題、環境問題など、これらの難題を先取りして、解決する力を子どもたちにつけておくことが、未来に責任を持つ「豊かな社会」の教育の仕事には含まれているはずだ。

 戦前なら「近代国家の建設」や「富国強兵」、戦後では「民主社会の建設」や「高度経済成長」といった、未来社会のデザインをもとに教育の理想が語られた。それに比べ私たちの未来は、解決すべき課題の重さに、理想社会のイメージを紡ぎ出すことさえ難しくなっている。問題の解決が十分できなければ人類の存続にかかわるまでの難問を抱えた私たちの時代に、教育にできることは何か、できないことは何か。

 現実的な未来予測をもとに、教育の責任を考えていくことで、楽観的な机上の空論とは違う教育の理想も見えてくるのではないか。教育という営みが時間軸のなかで成立していることを、改めて考えてみたい。

【かりや・たけひこ】教育社会学者、ノースウェスタン大学大学院修了。著書『学校って何だろう』(講談社)他。



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株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第242号 1999年(平成11年)6月1日 掲載



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