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シリーズ(6)
多義語的な言葉に
出合ったら…
「禁止語」のすすめ

 先日、ある雑誌の企画で「学力低下」問題についての座談会をした。その際、中教審委員を務めている出席者から、審議会でもきちんと「学力」の定義をすべきだという意見が出されたと聞いた。「学力低下」と言われるが、それをどう問題にすべきかは、「学力」の定義によって異なってくるというのである。

 確かに、日本語の「学力」にはいろいろな意味が込められている。「自ら学び、自ら考える力」や「生きる力」も、学力の一面と考えられている。その一方で、数学の2次方程式が解けることも、学力と見なされる。「学力低下」と言う場合、後者のような学力のみを指している、だから「生きる力」の新しい学力観に照らせば、必ずしも学力低下とは言えない、という意見も耳にする。だからこそ、「学力」をちゃんと定義しようという提案も出るのだろう。

 定義の必要がないとは思わない。だが、「学力」を定義する前に、日本の教育界では、さまざまな言葉が多義的に用いられている事態そのものを問題にしたい。

 例えば、最近の中教審答申では、「個性」や「ゆとり」といった言葉が多用される。ところがそれぞれの言葉は、使われる文脈によって、微妙にその意味・内容を変えている。個性の場合、ある箇所では、一人ひとりの性格を示すかと思えば、別の箇所では、特定の知的能力を示している。このように多義的に使われる結果、読み手は、それぞれに別の意味を与えて、いわば勝手に解釈してしまうことになる。

 こういう場合、私は「禁止語のすすめ」を提唱している。あいまいで多義的なキーワードに出合ったら、その言葉を使わず別の表現に言い換えてみるのである。「個性」や「ゆとり」に出合うたびに、それをどのような言葉で置き換えたらいいかを考える。そうしたちょっとした努力だけでも、「なんとなくわかったつもり」にさせる言葉の魔力から逃れられる。自分がその言葉を使う時にも、別の言葉で言い換えてみる。こうやって、多義的であいまいな教育用語を、次々と言い換えていくと、普段私たちが教育を語る際に、どれだけ「わかったつもり」の議論をしているかが明白になる。

 「学力」問題も同様だ。私の場合、「学力」という言葉は、たいていは英語の「アカデミック・アチーブメント」に置き換え可能である。英語の意味に従えば、カリキュラム(日本では学習指導要領)に含まれる、学習上の目標がどれだけ達成されているかが、その評価基準となる。数学の2次方程式も、学習指導要領に含まれる以上、どれだけできているかをみることは、議論の余地がないほど重要なはずだ。そして、その到達度が低下していれば、カリキュラムに問題があるか、教え方や学習方法に問題があるか、というように議論が進む。この流れにも議論の余地はない。

 ところが、「学力」といった言葉でこうした問題を論じようとしたとたん、「そこで言う学力とはどういう意味か」とか、「古い学力観に基づいてないか」とか、「それは『見える学力』の問題であって、『見えない学力(生きる力?)』がちゃんとついていれば問題ない」といった主張が向けられる。カリキュラムについての社会的合意がないのならば、こういう意見もわからないではない。だが、学習指導要領にうたわれた学習内容がどれだけ達成できているかを論じているはずなのに、そこに、多義的な「学力」という言葉を差しはさむことで、こういう主張も「なんとなくわかったつもり」で受け入れられるのである。

 こういう時こそ、「学力」という言葉を使わずに議論をすれば、論点がはっきりする。「学力」という言葉に、どのような意味を与えようとしているのか。ある特定の意味を与えようとするのは、どのような前提のうえに立ってのことなのか。定義づけを急ぐ前に、わかったつもりにさせる言葉の魔力自体に自覚的であることが大切である。必要なのは、厳密な定義ではない。厳密な定義も言葉の魔力を生むだけに終わることもあるからだ。求められているのは言葉の魔力に依存せず、教育を論じる現実感覚である。

【かりや・たけひこ】教育社会学者、ノースウェスタン大学大学院修了。著書『学校って何だろう』(講談社)他。



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株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第246号 1999年(平成11年)10月1日 掲載



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