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島内 行夫(しまうち ゆきお)

べネッセ教育研究所


日本における子どもとマルチメディア

〈情報時代のカオス的状況〉

 日本における科学技術の進歩と、社会の発展との関係をみると、まさに急速に進む情報技術と社会とがからみ合うカオス的状況ともいうべき時代に入っていると思う。 つまり、科学技術の分野では、自動車、電気製品といった工業製品は、デザインや機能の改善といったテーマを除くと、ほぼ進化の最終地点までたどりついた感があるが、コンピュータ技術を中心とするメディアの発展は、いまだその途上にあり、かつそれらが一斉に、かつ急速に押し寄せて、我々の社会を大きく飲み込もうとしている。

 問題は、それがあまり急激なために、メディアについていえば、印刷メディアからインターネット、携帯電話、モーバイル通信まで、様々なメディアが重層的にかつ複雑に我々の周りに存在することにある。

 このことは、一面では多様で豊かなメディア社会に我々は生きているということだが、別の角度からいえば無秩序でアナーキーな状況にあるということだ。

 例えば、最近、日本の電車の中でよく見かける風景だが、携帯電話を使って、外とのコミュニケーションを享受している人もいれば、そのすぐ隣で本を読み、携帯電話をうるさく、またマナーに反した行為として苦々しく思っている人もいる。この電車の中の状況は、今日の日本の縮図といえよう。

 こうしたメディアの多様性とその受容の仕方の多様性は、今や日本人のそれぞれのライフスタイルのあり方や、世代間の差異を形づくるものになっている。一世代前では、例えば、個人が戦争など、歴史的、社会的な状況にどう関わり、生きてきたかが、世代間のアイデンティティや差異を形づくるものであったが、今日では子ども時代から青年期にかけて、どんなメディアを体験したかとか、どんなテレビ番組や音楽を聴いたことがあるかが、それぞれの世代のアイデンティティを示すもものになりつつある。現代の日本はこうしたメディアの進歩に対する価値観や考え方、対応の仕方が極めて多様かつ混乱しており、そのことがメディアに対する評価を複雑なものにしているように思われる。

 こうした新しいメディアに対する人々の受け止め方について、最大のギャップが存在するのが、大人と子どもの受け止め方の違いであり、また、そのことが具体的に問題となって現われるのが、家庭におけるしつけや、学校における教育においてである。



〈新しいメディアに適応する子どもたちと、それに不安な大人たち〉

 ベネッセ教育研究所では、東京学芸大学の田村毅助教授らの協力を得て、関東地方(東京、神奈川、埼玉、千葉)の小学5,6年生の子どもたち2,514名に「子どもたちのメディア体験」に関する質問紙によるアンケート調査を1997年の3月に実施した。そこでのデータの一部を報告したいと思う。

 図1は子どもたちが、どのようなメディア機器を所有しているか聞いた結果を、グラフにしたものである。

 これでも明らかなように、子どもたちの約半数は自分のテレビゲームを所有しており、少なくとも自分の家にあると答えた数を合せると、90%以上身近に持っている。また、パソコンも、約36%が自分の家にあると答えている。

 図2はテレビゲームををしているとき、親から言われることをグラフに示したものだが、約72%がテレビゲームをしていると、親から「目が悪くなるよ」と言われており、約60%が「勉強しなさい」、50%が「(テレビゲームをするよりも)外で遊びなさい」と言われている。

 つまり、日本の子どもたちの間では、「テレビゲーム」などの新しいメディア機器はほぼ100%近く普及しているが、一方、親たちは子どもたちがそれらに熱中していると不安を感じ、いつも不平や小言を子どもたちに向かって言っているということになる。むろん、不平を言うくらいなら親が子どもに買い与えなければよいのだか、日本の親たちは、そうしつけの方針を決めて、子どもたちには断固テレビゲームをさせないという信念を持っているわけでもない。このようにして多くの日本の一般的な家庭では、テレビゲームに代表される新しいメディア機器について、親子で毎日のように小さな闘争が繰りひろげられている。

 図3は学校でパソコンで学習ソフトを使っている子どもの頻度と、「楽しい」「やってみたい」との関係を見た図だが、学校でパソコンをよく使っている子どもは「楽しい」と答えている。

 このように多くの子どもたちは、学校でのパソコンを使う学習を「楽しい」と思っているが、日本の大多数の小学校は、パソコンを使って授業をする環境はまだ十分ではない。パソコンのハードは揃っていても、十分に活用されず、ほこりをかぶっていることも多くある。

 その大きな理由として、主に次のことがあげられる。日本においては、テストや学校での評価は子どもたちも親にとっても重大な関心事だが、それらのテストや評価の大部分は、普通、印刷メディアで行われることが多い。そのためパソコンで学習して楽しいと感じることと、学校での成績とが必ずしも一致しないという大きな問題が存在する。

 また多くの教師も、また多くの教師は、コンピュータやコンピュータを使った学習効果については、疑問ないしアレルギーをもっている。

 以上みてきたように、家庭でも、学校でも、学習においても、遊びにおいても、新しいメディアへの子どもたちの順応性と大人の順応性とは大きなギャップがある。



〈大切なメディアのバランスと自己コントロール〉

 日本における様々な新しいメディアに対する、大人と子どもとの順応性の差について、似たような例はいくつもある。現在若者に普及しているポケットベルや携帯電話などがいい例だ。最近の日本の企業で好調な分野が、子ども向けのゲームソフトの業界であることも象徴的である。

 子どもたちは、確かに新しいメディアに対する順応性があり、革新性がある。しかし一方でそのことは本当によいことかどうか、意義があるかどうかはこれからもよく考える必要がある。なぜなら、そうした新しいメディアは結局大人たち、即ちメーカーが子どもたちが喜ぶようにプログラムしてあるし、使用後の子どもたちへの影響を十分に考慮することなく、子どもたちに売れればよいという市場原理のみで作られていることも多いからだ。また、そうした新しいメディアが子どもに将来どのような影響を与えるのかは、まだ十分に解明されていない。

 映像やコンピュータを用いた学習やシュミレーションにしても、人の思考力はやはり抽象的に考える力やシンボル(言語)を操る力に負うところが多くあり、映像や疑似体験でそれらが培われるかどうか疑問とする意見もある。

 私のこの小論の結論を言えば、車が発達した結果、車ばかり乗っていると人間の足が弱くなるように、便利なメディアは、人間の思考のある部分を弱くすると経験的に考える。例えば、コンピュータや電子手帳などに、自分のスケジュール管理をさせていると、それが何らかの事故で消失した時、その人はパニック状態に陥るだろう。

 現代社会に生きる人間にとって、便利で快適な車に乗るばかりでなく、歩くことや走ることが必要である(そのため先進国ではわざわざジョギングしたりする)。メディアについても、同じことで、様々なメディアを状況と必要に合わせて使うことが重要である。

 そうしたメディアの利用についてのバランスと自己コントロールを獲得することが、21世紀における教育の目的の一つと考える。

APPENDIX
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