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「インターネット時代の地球認識と
新たな科学教育の可能性」


東北芸術工科大学助教授
竹村 真一
(文化人類学/メディア環境論)


#インターネット時代の地球認識

 コンピューター画面上にひろがる深い青の空間に、振動する銀色の地球像がぽっかりと浮かぶ。よく見ると、地球上のさまざまな場所にボコボコと泡のようなものが絶え間なく発生し、地球全体が呼吸しているように見える。文字通り“ブリージングアース”=「呼吸する地球」と名づけられた、私たちのウェブサイト「センソリウム」の一部だ(http://www.sensorium.org/breathingearth)

 これは世界中で日々発生している地震の動きをモニターしたもので、最近(正確にはそのホームページを見ている時から遡って過去二週間分)の地球の胎動の様子を、全体像として十数秒のCGアニメーションに圧縮して見せている。

 とはいえ、これが単なるイメージ的な作り物ではなく、インターネット経由で日々入手される世界中の地震計の観測データに基づいた“本物の”地球の自画像であるところが重要なのだ。

 世界中に散在する地震計は、いわば地球の胎動を刻々感知する無数のセンサーにほかならない。その各地点での微細な地殻変動のデータが、インターネットを基盤とした情報ネットワークを通じて逐次集積され、日々更新される地球規模の生きた地震データベースをインターネット(WWW)上に形成している。同じような地球のリアルタイムなデータ・センシングとそのデータベース化は、気温・海面温度・風向・海流などさまざまな側面から行なわれ、それらが「エルニーニョ現象」など従来は不可能だった全地球的なスケールでの気候変動や地殻活動の把握を可能にしつつある。

 その意味で、私たち人類はいまや生きて呼吸する地球という有機体の日々の“体調”や“気分”の変動をトータルにモニタリングする「地球大の神経系」を手に入れつつあるとも言えるのだ。

 ただ残念なことに、そうした情報リソースは、地震学者など一部の専門家が利用するだけの無味乾燥な数値データの羅列にとどまり、多くの人々はその存在すら知らない。地球人類の大半は、日々の生活のなかでこうした「地球大の神経系」の存在を実感することもなく、それを通じて地球という生命体の躍動を感じとることもない。

 そこで私たちは、この情報公共財としての地震データベースをもとに、通常は専門家にしか意味をなさないその数値データを、一般の人々や子供たちでも直観的にわかるような可視的で動的な表現に変換するプログラムを作成してみたわけだ。

 それは、いわば“地球的感性のプラットフォームづくり”であり、一人一人が「地球大の神経系」を潜在的に持っているのだということを実感するために、個人端末(パソコン)に地球をのぞく「窓」をうがつ試みだった。

 それによって、地球は一つの「全体」としてつねに生きて呼吸していること、地震がたまにしか起こらない異常事態では決してなく、むしろ日々世界中で無数に生じている健康な地球の“常態”であること、また日本で私たちが体験する地震もここで見ると決して孤立した単発のものではなく、インドネシアやフィリピンでの数日前の地震と連動(リンク)した“大地のネットワーク上の出来事”であること等がよくわかる。


#新たな世界経験のデザイン
――メディアの"HOW"と"WHAT"


 これはまだ“センソリウム”プロジェクトの初歩的な実験段階の一部に過ぎないが、それでもインターネットやマルチメディアがもたらす新たな地球認識と科学教育の可能性の萌芽を、そこに垣間見ることはできるだろう。

 私たちが目指したことは、何よりも“インターネットがもたらす新たな世界経験”の探求であり、“WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)という新たなメディア構造を使ってしか出来ないような何か”を模索することだった。

 紙の教科書やTV映像など旧来のメディアで行なわれていたものを電子媒体に移し変えたり、博物館や美術館の所蔵品を単純にデジタル化してサイバースペースに移植するだけでなく、このようにウェブ環境固有の構造を活用して、生きた世界を新たなかたちでホロニックに経験する仕組みを実現することも可能なのだ。

 このウェブ環境ならではの経験のデザインという点では、「センソリウム」の他の2つのコンテンツ "Cell Meter" と "Star Place" も良い参考事例だろう。

 前者はページにアクセスしている人の身体の細胞が、前回アクセス時から現在までに量的にどのくらい(何%)入れ替わったかを人型のグラフィックに図示するもの(私たちの細胞は毎日数千億の単位で交替していると言われる)。

 後者は、自分(のいる地球)がつねに太陽系の宇宙空間をとんでもない速度で飛行=移動しているというリアリティを、そのページを開いた瞬間からカウンターの数字が飛躍的に増えていくそのスピード感(秒速30kmゆえに数十秒で軽く千キロを超えてしまう)で体感させるライブ・システムである。

 いずれも、個々人が別々の時点で自ら能動的にページにアクセスすることで成立する本質的に「インタラクティヴ」(=マス・カスタマイジング)なこのメディアの特性を活かして、不変・不動と錯覚している自分の存在が実はこんなにもダイナミックに移動・変化し続けているという「ライブ」で「アップデイト」な自己認識に至らしめる、ウェブ環境ならではの「経験」のデザインである。

 “教育のマルチメディア化/インターネット化”とは、単に道具としてコンピューターやネットワークを導入すればよいという問題ではない。既存の知識をより効果的に伝えるための「手段的」(HOW)レベルでのデジタル技術の活用という発想を超えて、さらにいかなる新たな「経験」(WHAT)を子供たちのあいだに創出しうるかという次元で考えられるべきだろう。

 それによって真の意味での「知性」と「感性」の統合も可能になるはずだ。


#「ジグソーパズル」型のメディア構造

 こうした意味では、“ブリージングアース”にしても、表向きは「地震」や生きている「地球」の可視化をテーマとしたコンテンツではあるが、同時に(間接的に)インターネットというものの本質を浮かび上がらせ、それがもたらす新たな情報環境を生きるホロニックな「感性」を隠れた主題としたものでもあったと言える。

 というのも、世界中の地震計のデータをリアルタイムに近いかたちで刻々と集計し、それを誰もがアクセスしうる画面上でトータルに可視化するといった“離れ業”は、まさにインターネットという情報環境の生成を通じて初めて可能になったものだ。思えばこれは実に驚くべきことであり、このような経験の可能性そのものへの驚異と感謝の感覚を、私たちは多くの人々と共有していきたかったのだ。(“センソリウム”というサイト名は、こうした新たな経験環境と時代情況に対する「コモンセンス」の共有という思いが込められている。)

 この新たな経験の構造は、次のようなイメージで捉えることができるだろう。

 たとえば宇宙飛行士ラッセル・シュワイカートは、地球の外から一つの「全体」として地球を見るという経験が、人類と地球の新たな関係を生みだしてゆく決定的な契機となったと言う。それを象徴的に表現するのが“飛び上がったノミ”という比喩だ。

 象の背中に居るノミは、象があまりに巨大なためにそれを生き物とは思わず、どこまでも続く大地のようにしか認識していない。ところが、あるとき思いっきり上空に飛び上がって下を見たとき初めて、ノミはそれが無限の大地ではなく、自分と同じ有限で脆弱な一個の生物にすぎないことに気づく。これがちょうど宇宙から地球を眺める特権的な視点をえた二〇世紀の人類の新たな段階・・一個の生命体(ガイア)として地球を捉え、資源の有限性や環境保全を真剣に考え始めた現在の私たちの情況をよく表していることは確かだろう。

 だが、インターネットを通じて地球の生態をモニターしてみようとした私たちの実験は、“地球”という象を一つの「全体」として認識するもう一つの方法がある、ということを指し示している。

 すなわち、“飛び上がったノミ”のそれが上空からの「トップダウン」の全体像であるとすれば、この地震の地球センシングは、いわば巨大な象の身体中にへばりついた無数のノミが大地の微細な揺れを触感しているようなものであり、その多様な感触がリアルタイムに集積/編集されて出来た「ボトムアップ」な全体像なのだ。

 へばりついたノミ達が感じている地球の認識はみなローカルでバラバラなもの・・その限りにおいては“群盲象をなでる”のことわざ通り、このノミ達は“群盲”にすぎない。だが、それらがネットワークでつながり、お互いのもつ小さな「感触」のデータを集めて共有し始める時、そこにはまるで「ジグソーパズル」のように思わぬ全体“象”が立ち現れてくる。いわば“ネットワークする群盲”の世界像だ。

 これはインターネット時代固有の認識形態であり、新たな世界経験のモードの誕生にほかならない。

 それは一元的な「鳥瞰図」でもなく、バラバラのローカルな「虫瞰図」でもない。小さな個人の認識(センサー)から出発したものでありながら、電話や手紙のように「パーソナル」でも、TVや出版のような「マス」でもない、第三の構造をもつ。

 それが従来とは異質な“全体像”の創出と共有化を可能にし、「個」と「全体」の関係をこれまでになかったような形で組みかえてゆく。


#メディアの脱ブラックボックス化

 もとより、これはインターネット自体がもつ構造的特質の反映にほかならない。

 インターネットは“ネットワークのネットワーク”とよく言われるように、もともと多元的で小さなローカル・ネットワークが互いに手を伸ばしてつながり合って、次第に地球規模の複雑なネットワークに成長してきた。インターネットはそのハード・インフラとしての構造自体が一種ボランタリー(自発的)な「ジグゾーパズル」のような成り立ちをもっているのだ。

 そして必然的に、そのうえに載る情報(ソフト)の構造も、同様にさまざまな小さなピースがボランタリーに連鎖/集積をくり返して、ジグソーパズル的な「全体」をさまざまな分野で創出している。

 わかりやすい例が、アートやミュージアムのコンテンツだろう。いまでは世界中のかなりの数の美術館や博物館が、その収蔵作品をデジタル化して掲載(公開)したホームページを立ち上げているが、そうしたページ・アドレスの一覧を見ながら世界中のアート空間を次々と散策してゆくと、まるで“地球大のミュージアム”のなかを歩いているような錯覚に陥る。つまり、各ミュージアムの「コレクション」がインターネット上で「コネクション」(連結)されることによって、誰がデザインしたわけでもないのに、私たち利用者にとっては地球規模のコレクションをもつサイバーミュージアムが誕生したようなものなのだ。

 いかに巨大なコレクションをもつミュージアムであっても、世界全体のコレクションのなかでは、ほんの小さなピース=断片に過ぎない。しかし、それを個々の美術館/博物館の空間に囲い込み独占・秘匿しているのでなく、インターネット(WWW)という電子の「コモンズ」(公共広場)に公開し、互いのリソースを「共有」しあうことで、ジグソーパズル的に壮大なアート・コレクションがボトムアップで形成され、人類のもつ芸術的リソースの全体「象」が思いがけず浮上してきたのだ。

 これは単に世界中の文化財や美術品が一望できるという量的な爆発にとどまらない、人類の情報体験の質的な飛躍と言える。個々のコンテンツとしては、リアル空間(紙や布)に物財化した情報をサイバースペースに移設したものではあるが、そのシナジェティックな経験様式においては、インターネット時代ならではの特性を持ち始めている。

 とはいえ、インターネットのこうしたボトムアップ型の成り立ちは、なかなか子供たちに直観的に理解しうるようにはなっていない。

 ホームページを観る時も、結局一枚一枚のページを本のようにめくっている感じで、世界中のサーバーを旅して回っている感覚も、世界中のコンテンツがジグソーパズルのように「コネクション」しているというリアリティもほとんどない。彼らにとっては図鑑やCD−ROMを見る経験と本質的にかわらないのだ。

 さらに現行のメディア教育は、ともすれば得られる知識量だけで教育的効果を計り、コンピューター導入に関してもその道具的・手段的習熟に重点を置くあまり、Eメールの受発信やホームページ/データベースの利用といったメディア技術の成果(結果物)には注意を向けても、それを可能にしている仕組みやプロセスについては(他のメディアと同様に)ほとんど関心が払われていないように思われる。

 そこで、そうした「ブラックボックス化」しがちなインターネットの構造的な本質とその面白さに子供たちの注意を喚起するような実験的な仕掛けを、私たちは二つの対照的な方法でデザインしてみた。


#「サイバー」と「リアル」の統合
電子空間に身体性をいかに導入するか?


 一つは「センソリウム」のコンテンツ「ウェブホッパー」("Web Hopper")の応用例で、オーストリアのリンツの電子アート・ミュージアム「アルス・エレクトロニカ・センター」(その来訪者のかなりの部分は子供)に構築したシステムである。

 もともと「ウェブホッパー」は、世界中のホームページをネットサーフィンしてゆく複数の人々のヴァーチャルな「旅」の軌跡を、ウェブ(センソリウム)上の世界地図にリアルタイムで映し出すメタ・ウェブ・コンテンツである。たとえばネット上のあるゲートウェイから世界のホームページを次々に見に行く人がいると、そこを流れる情報パケットから(TCPdumpというツールを用いて)その起点と行き先のサーバーのIPアドレス情報を入手することができる。それを地理(位置)情報に変換して地図上にリアルタイムに表示すると、たとえば日本(東京)を出てロンドン、さらにはニューヨークのページといった具合に各人のネットサーフィンの移動プロセスがダイナミックに図示されてゆく。

 私たちはこの仕組みを基本にして、リンツのミュージアムの一室に画面の色の異なる複数のインターネット端末と巨大な世界地図モニターを設置し、そこで子供たちが例えば赤い端末で東京やロンドンのページをブラウジング(閲覧)すると、即時的に世界地図上に自分の「赤い」軌跡が(リンツ〜東京〜ロンドンという具合に)描かれていくというシステムを構築した。これにより、子供たちがネットワークを使って実際にどのように世界中を旅しているのかを直観的に理解できるようにしたわけだ。

 さらにそこでは自分のグローバルな移動とともに、その隣の緑や青の端末でネットサーフィンしている友人たちの「緑」や「青」の軌跡も同じモニター上に可視化される。それによって、自分が複数の他者と一つのサイバースペースを共有しつつ、こうした一人一人の情報のやりとりの集積が“インターネット”というものの内実を形成しているのだという感覚をリアルに把握することが可能になる。

 もう一つ、昨年NTTと共同で行なった子供(親子)対象のマルチメディア・ワークショップでは、対照的に最も「アナログ的」な方法でインターネットを体感的に理解してもらうための実験的な試みを行なった。

 なかでも子供たち自身が「糸電話」で教室中に“インターネット”を模擬的に作り、その網の目状のボトムアップ・ネットワーク構造を眼にみえる形で把握してみるという実験は予想以上の成果を生んだ。

 まず10人づつ位のグループで、“そこはアメリカ、君達は日本ね”といった具合にローカル・ネットを形成し、それが互いに結合して「ジグソーパズル的」に地球大のネットワークに拡張してゆくプロセスを体験。また、皆でほどよく糸を張り合っていないとうまく声が伝わらないという糸電話の特性とのアナロジーが、小さな部分の支え合いで成り立っているボトムアップ型ネットワークの体感的理解に役立った。

 さらには、どこかが切断しても他の回線を経由してメッセージが届くということがリアルなかたちで体験されたことによって、分散型ネットワーク特有の強さ・面白さに関しても、(“核戦争時代のリスク分散の必要から生まれた”といった「大人」の論理よりもはるかに直観的なレベルで)子供たちの理解が得られたようだ。

 こうしたリアルな創造体験を経ることで、"Web Hopper"のようなネットサーフィンの可視化も、さらに具体的な距離感をもって理解されることになろう。


#メディアの「透明性」とは何か?

 総括するなら、こうした試みは冒頭の"Breathing Earth" のような「生きた世界経験のデザイン」という課題と相補的な関係をもつ、二つの重要な問題意識に支えられた実験であったと言える。

 第一は、前述のように「ブラックボックス」としてのメディアそのもの、あるいはそこでの情報交換や移動の営み自体に焦点を当てることによって、インターネットという地球大の情報ネットワーク環境の本質に関する直観的な洞察・理解と、その新たな環境に生きるホロニックな「感性」の育成に眼目をおいたこと。

 テレビも電子メールもホームページも、総じて現代のメディアは「ブラックボックス的」で仕組みやプロセスが見えにくい。技術的な成果(結果)だけが与えられるだけでは、使い手側のメディアに対する感性をトータルな意味で育てているとは必ずしも言えないのではないか?

 ただ使いやすい(結果を得やすい)だけの「透明」なメディアは、ある意味ではユーザーにとってますます「不透明」なメディアともなりうるのだ。

 第二に、「リアル」空間での体験と「サイバー」スペースの架橋という課題。糸電話インターネットも"Web Hopper"も、抽象化されたメディア(そこでの営みや情報交換のプロセス)にタンジブルな身体性や距離感を導入する試みであった。

 他ならぬこの視点こそ、私たちの「センソリウム」全体の基本コンセプトでもある。冒頭の"Breathing Earth" のような例でも、たとえば今朝自分が体験した地震をネット上でホロニックに再定位して見ることができるといった意味で、最もフィジカルでリアルな体験が電子空間での経験に媒介されて拡張されるという双方向的なダイナミズムが見られる。このコンテンツを時々のぞくようになってから、実際の大地の揺れや気象現象などにも敏感になったという人も多い。

 また、たとえばセンソリウムの聴覚系コンテンツ"Net Sound" は、インターネットに一種の「聴診器」を当て、ネットワーク上を流れるパケットの動きを音に変換して聴くことで、やはりサイバースペース上で/その向こうのリアル空間で活動する「他者」の存在――その気配や営みを体感する仕組みとして作られたものだ。実際、リンツの電子アート・ミュージアムなどにこの聴診器システムを当てれば、子供たちが沢山来て端末を利用している時間には騒がしく、夜間には静かになるといった具合なのだ。 いわば「サイバー」ネットワークを介して、その向こうに「リアル」な人々の営みが確かに存在すること、自分が見知らぬ他者と“つながっている”ことを触知するための仕組み――。これは、ネットワーク・メディアとしての「透明性」を考える上で、もう一つの公準となりうるものではないだろうか?

 ともあれ、私たちの(特に子供の)メディア経験を「サイバースペース」に自己完結させない発想は、単に電脳空間への没入を危険視する観点からだけでなく、よりトータルなメディアへの感性(センス)を醸成し、マルチメディア/インターネットの可能性を真に拡張してゆく上で、今後最も重要なポイントになってくると思われるのだ。


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