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●コロラド便り〜行動遺伝学研究所留学記〜 Part1
(2003年10月31日)

安藤寿康
(コロラド大学ボウルダー校行動遺伝学研究所訪問教授・慶應義塾大学教授


今年は「日本子ども学会」発足の年で、発起人の一人としてお役に立たねばならなかったはずなのですが、幸か不幸か、大学から1年間の研究休暇を与えられ、いまアメリカはコロラド州、ボウルダーBoulderにある行動遺伝学研究所Institute for Behavioral Genetics(IBG)に留学しております。そのため発起人会などの仕事をすべてさぼることになったわけですが、そのかわり、ということで「コロラド便り」を寄稿させていただくことになりました。

コロラドというと、きっと小林登先生くらいの世代の方々には、「コロラドの月」という懐メロが思い出されるのかもしれませんが、今の人には、有森祐子さんや高橋尚子さんらマラソン選手たちが、高地トレーニングをする地として有名でしょう。この町より東側は地平線まで続く平地のため、その高さが全く感じられませんが、町の標高は1600メートルもあり、西にはロッキーの美しい山々が迫っています。そのため空気が薄く、心肺機能の強化に適しているわけです。町はコロラド大学ボウルダー校を中心としたきれいな大学街で、治安もよく生活もしやすいので、アメリカ人の住みたい町の一位に選ばれたこともあるそうです。(写真)

私の滞在している行動遺伝学研究所は、世界で初めて「行動遺伝学」の名を冠して設立された研究所で、設立の年は1967年です。この1967年という年には、いろいろな意味があります。

人間を含む動物の行動を遺伝学的な視点から研究しようというのが行動遺伝学で、その歴史は19世紀の終わりにイギリスで活躍したフランシス・ゴールトン(Francis Galton)にさかのぼります。彼は進化論で有名なチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)の祖母違いのいとこにあたり、ダーウィンの影響も強く受けて、人間の能力や性格が遺伝することを科学的に実証しようとしました。残念ながら当時はメンデルの遺伝の法則も世に知られておらず、人間の遺伝研究に不可欠な双生児の生物学的な特徴についても知られていませんでしたので、彼の用いた方法は今の視点で見れば科学的に不正確なものでした。しかしその後、20世紀に入って、双生児や養子を用いた、科学的にもしっかりした人間の遺伝研究が数多くなされるようになり、知能や精神病理など、人間の心理的な形質にも遺伝の影響が見られることが徐々にわかってきました。そしてそうした研究の積み重ねによって、一つの学問体系として「行動遺伝学」というものをうち立てる時機が熟したのが、ちょうど1960年代の終わりだったのです。実際、この年の3年後、1970年に、行動遺伝学会が設立されました。

ところが行動遺伝学の確立は、同時に受難の始まりでもありました。行動遺伝学研究所設立の2年後、1969年に、知能の行動遺伝的研究をまとめたアーサー・ジェンセンの論文が、黒人と白人の知能指数の差に遺伝的な影響があると示唆したため、行動遺伝学は人種差別の学問として、世間から糾弾を受けることになったからです。このジェンセンの論文の中で、知能の人種差を説明するのに引用されたのが、行動遺伝学研究所の設立に尽力し、長い間その所長を務めたジョン・ディフリース(John C. DeFries) 博士のコメントでした。

いま私は、このディフリース博士の研究室のちょうど隣に研究室をいただいて、研究をしています。博士はとても親切で心配りのきく穏やかな紳士で、よく私の部屋をたずねてくれては、世間話や、時には食事に誘ってくださったりもします。秋になってロッキーのポプラが色づき始めたときには、近くにお持ちの山荘までドライヴに誘ってもいただき、たいへんお世話になっている先生です(写真)。その授業は明快で一点の曇りもなく、彼と盟友であり数年前になくなったフルカー(David
W. Fulker) 博士の二人で築き上げたDF極値分析という統計手法の説明の時は、それを二人で着想したときのこぼれ話なども交えて、私がそれまでよく理解できなかった疑問点がすっきり解消されました。

そのディフリース博士に、こちらに来てまもなくの頃、ずっと気になっていたジェンセンの論文の中でのコメントについて直接たずねてみました。

「あの問題の部分に、先生のコメントが引用されているのがずっと気になっていたのですが」        すると、少し顔をしかめながらこう話されました。                                「確かに彼からあのとき、集団内の遺伝率と集団間の遺伝率の関係について質問を受け、説明をした。そのとき、そこには直接の関係はないということを述べたはずだ。しかし彼はそう受け取らず、逆に集団内にある程度の遺伝率があれば、集団間の差にも遺伝規定性があり得るという文脈に私のコメントを当てはめてしまったのだ」

行動遺伝学が主として研究しているのは、博士のいう「集団内の遺伝率」、つまり例えば白人の中で、あるいは日本人の中で、ある形質の個人差に遺伝的な差がどの程度の割合で反映されているかという問題です。しかしもし仮に白人の集団の中で知能の個人差の80%が遺伝によって説明できたとしても、白人と黒人という全く異なる集団の間の知能の差も遺伝によって説明できるとは限りません。ひょっとしたらその差は社会環境によるものかも知れません。ディフリース博士はキャビネットから一つ古い論文の抜き刷りを取り出して「だからそのあとで、私の言いたいことをちゃんと述べるために、こんな論文を書いたんだ」と私に渡してくれました。

人種差別の学問として糾弾を受けることになった行動遺伝学も、その後行動遺伝学者たち自身による慎重かつ量的にも質的にも充実した研究の数々の積み重ねによって、今では基本的に多くの人々からその成果が認められ、人間存在の本質を考えるときに避けることのできない知見を与えるものとして重要視されるようになってきました。しかしながら行動遺伝学者の中には、ノーベル賞を受賞したり、輝かしい理論をぶち挙げて一躍時の人になるような、華やかな研究者はいないように思われます。私の知る行動遺伝学者はほとんどすべて、ディフリース博士のように地味で誠実な研究者ばかりです。

それはおそらく、この学問が何か全く新しい科学的法則や理論の発見に寄与しているからではなく、ただ単純に、人間の心理や行動も、これまでに見いだされた遺伝の法則に同じように従っているということを、当たり前に証明しているからにすぎないからだと思います。しかし「心は遺伝の法則を超える」と信じたい多くの人々にこのことを科学的に説得力のあるやり方で証明することが難しく、さらに難しいのはその知見のもつ社会的・政治的・哲学的意義を的確に読み解き、適切な遺伝観を描くことのできるような研究をしてゆくことなのです。

ひょっとしたら、ジェンセンが述べた黒人と白人に知能指数の遺伝差があるという知見は正しいのかも知れません。しかしアメリカ社会に、自由と平等といいながら職種にも収入にも住む地域にも子どもの受ける教育にも厳然とした人種差がある現状で、ただ「正しいのだから言ってしまえばいい」だけではすまされない多くの問題があります。

特に遺伝に関する科学的知見を人間社会に直接当てはめようとするとき、そこには思索し検討されねばならない数々の問題が横たわっています。なにしろ遺伝の法則が発見されてからたかだか100年あまり、DNAの分子構造が解明されてからわずか50年、そしてヒトゲノムが読み解かれて1年たっていないのです。いわば突然の闖入者に対して、私たちは科学的研究と哲学的思索の両面を通して、徐々に慎重な折り合いをつけて行かねばなりません。遺伝子という生物学の概念が、人種や知能といった社会的概念と出会ったときの摩擦をなめらかにするには、その接点におけるお互いの気の長いやりとりが必要でしょう。もし行動遺伝学に新しさがあるとすれば、そうした「異文化の出会い」のまっただ中で、どちらかの「文化」に引き戻ってしまうのではなく、その接点にとどまり、両者のブリッジを架けようともがき続けることが新しいことなのではないかという気がします。

今私は、人間のパーソナリティが遺伝的にはどのような構造から成り立っているのかを、日本で集めた双生児のデータを用いて解析しています。それについて今回お話しするゆとりはありませんが、これもいわば「遺伝子はどのように私たち自身を作っているのか」という、遺伝観の読み解き作業という哲学的な問題への実証的アプローチと私は考えています。そして「子ども学」の中に行動遺伝学の知見を投げ込んでみるということも、私にとっては、現代社会のなかでこの学問がどのような意味を持ちうるのかを肌で感じながら考えるための必要不可欠の作業と位置づけています。

コロラドの自然の中にいると、時間がゆっくりと流れてゆきます。近くには恐竜の足跡も残っていますし、変化に富むさまざまな地形は、何百万年という地球の歴史にいやでも気づかされます。人間の遺伝的資源はそのような時間的規模で形成されてきたものであり、その意味を読み解くにも長い時間が必要なのだと思います。


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