トップページ サイトマップ お問い合わせ
研究室 図書館 会議室 イベント情報 リンク集 運営事務局

 トップ TOPICS一覧




●コロラド便り〜行動遺伝学研究所留学記〜 Part3
(2004年1月16日)

安藤寿康
(コロラド大学ボウルダー校行動遺伝学研究所訪問教授・慶應義塾大学教授)



「文化のちがい」をめぐって

異国の文化に接したとき、当然のことながらまず気になるのは「なぜこんなにちがうのか」ということでしょう。アメリカで生活している日本人同士で会話すると、

「アメリカ人は、よくこんな甘ったるいケーキを平気で食ってられるな」とか 「あののびきったソーメンみたいなスパゲッティはなんとかならんのか」と、まずは食べ物のちがいに話題は盛り上がり、

「だいたい若い共働きの女性は、日本人とちがって全く料理何かしないのよ」、「大きなスーパーで大きなカートいっぱいに食料を買い込む神経がわかんないわ」、「ちょっと長い列ができても誰も文句言わずにおとなしく並んで待っているわよね」、「子育てやしつけは日本人より厳しいみたい」と、生活様式や行動パターンのちがいを面白がり、

「街の歴史博物館に行ってもおじいさんかせいぜいひいおじいさんの時代のものが並んでいるだけ、歴史がないんだな」、「自分たちがインディアンやヒロシマ・ナガサキに対してしたことには目をつぶる、欺瞞だよ」、「結局アメリカ人は、自分たちが最高で、世界中がアメリカみたいになればいいんだって、本当に信じてるんだよね、きっと」、「何かっていうとすぐアメリカ万歳だろ、ばかじゃないか」とアメリカ文化批判に行き着きます。
 
またこちらで研究生活をすれば、当然のことながら研究条件のちがいに関心が向かいます。その圧倒的多くは、アメリカの研究者はなんて恵まれているんだろう、という羨望です。それに比べてわれわれは金なし、人なし、時間なし(それに設備もなし)の三重苦、四重苦を背負わされ、これで対等に国際舞台で張り合うなんてどだい無理と悲観的になり、それは翻ってわが国の文科省の教育・科学政策批判、官僚制批判に向かい、最終的には「結局日本というのはどこかゆがんだ文化二流の国なんだよね」と自虐的日本文化批判に行き着きます。
 
こうした「文化のちがい」はパーティートークとしては面白いですし、しばしばとても刺激的で示唆に富みますし、ときには創造力の源泉にもなりうるので、アメリカについてとくに初めのうちは(そしてもちろん今でも)こうした「ちがい」探しに自然と気持ちが向かっていたように思います。しかし一年近くアメリカに生活して、そうした表向きコントラストがはっきりした「ちがい」というのが、実はそれ以上に広大な「同じ」ものに支えられているのではないかと思い至るようになりました。文化や国民性の「ちがい」というのは、非常に多くの共通性を「地」とした「図」のようなものなのではないか。


心地よいアメリカ文化の敷居の低さ 

前回、日本とは異なるアメリカの子ども事情について身近に経験したことをいろいろと書かせていただきました。その中で、隣の家の子どもの泣き声にすぐ駆けつけてきた近所の若者の話を紹介し、それをアメリカ人の対人関係の敷居の低さと形容しました。このような敷居の低さ、人にアプローチする気軽さは、少なくとも私のように1年という短期滞在者にとっては快適で、これは住み慣れているはずの日本より快適なくらいです。この中にいると、自分自身の対人関係の敷居も低くなり、たとえば日本では面倒で全く行ったことのなかったホーム・パーティーも、こちらに来てから何度も開きました。食べ物も別に凝る必要はなく、いざとなればポットラックでみんなに簡単な手作り料理の持ち寄りをお願いし、使い捨ての紙皿にプラスティックのスプーン・フォークを使えば(確かに資源の無駄ではありますが)主婦の手を煩わせることもあまりありません。

また私は趣味でピアノを少しばかり弾くのですが、たまたま音楽学部の図書館から借りだしたピアノの楽譜をもったまま国際センターに相談に行ったら、カウンセラーがその楽譜を見て、「あなたピアノ弾くの? だったら今度のうちのセンターのホリディパーティーで弾いて」と気安く、こちらの腕前を確かめようともせず頼んできたので、日本では絶対人前で弾か(け)ない恥ずかしがり屋の私も、ここならかまわなかろうと、これまた気安く引き受けて、国際派ピアニストとしてのデビュー(!?)を飾り、それなりに喜ばれたようでした。

 
ブロス先生と小児法学(pediatric law)

このように日本人の私たちの行動様式まで一時的に変容させてしまうようなアメリカ文化の対人関係の敷居の低さというのは、日本人のそれと根本的にちがうのでしょうか。決してそうではなさそうだ、と考えさせられる話を、前回の最後にご紹介したケンプ子どもセンターKempe Children’s Center*1(写真、ホームページはこちら)でインタビューさせていただいたドナルド・ブロス博士Dr. Donald C. Brossからうかがいました。
 
もともと前回ご紹介したセンターのパーティーで知り合ったある女性スタッフの関わるプログラムを見学させていただくつもりで、ちょうど私の所にたずねてきてくれていた山梨大学の発達心理学者の酒井厚先生といっしょにセンターを訪れたのですが、あいにくその方が出勤されておらず、代わりにセンターの説明をお願いできる方をと受付に頼んだところ、応対をしてくださったのがブロス博士でした(写真) 。ここでも「敷居」はとても低く、すぐに「よかったら、お茶でも飲みながら話をしよう」とすぐにキッチンにわれわれを案内してくれ、「コーヒーにするかい、それとも紅茶? 好きなカップを使ってくれていいよ」と初対面とは思えない気さくさで応対してくださり、マグカップを手に図書室で2時間近くお話をうかがいました。
 
ケンプ子どもセンターの主要な仕事は、虐待/ネグレクト(養育放棄)児童の救出とその発育支援です。センターの前身は1962年に児童虐待の事実を世に被殴打児症候群(battered child syndrome)として知らしめた小児科医として日本でも知られるヘンリー・ケンプ博士Dr. C. Henry Kempeが1972年に設立した国立児童虐待ネグレクト予防処遇センター(The National Center for the Prevention and Treatment of Child Abuse and Neglect)でした。このセンターは昨年(2002年)7月、第14回国際児童虐待防止協会(ISPCAN:The International Society for the Prevention of Child Abuse and Neglect)の国際大会*2を主催しました。

ブロス博士の話で、まず第一に興味深かったのは、彼の専門が小児法学pediatric lawだということです。「そういう概念があることに驚きました」と素直に伝えると「そりゃそうだろう、私が作ったのだから」。あとでインターネットでブロス博士の業績を調べてみて、彼がコロラド大学医学部小児科の家族法の教授で児童の法律の専門家としてたいへん著名な方で、その活動に対して数々の賞も授与されており、センターでは教育・法律相談部の部長であることを知りました。アメリカでは虐待やネグレクトが疑われる児童に対して、早期に介入することを可能にする法的整備が整っているということが知られています。わが国ではようやく2000年11月から「児童虐待防止法」の施行により、児童虐待を発見しやすい保育士、教師、医師などが、疑わしいケースを通報する義務をもつことが明示されましたが、アメリカでは30年以上も前からそうした取り組みをしています。*3

「疑わしきは通報」をモットーとするアメリカの児童虐待関連の法律のもとで、時には本来引き離すべきでない親子関係を引き裂いてしまうという誤った結果をもたらすケースもあると聞きますが、それはどんな制度にもしばしばみられる官僚的な運用の弊害でしょう。ブロス博士の話を聞くと、法はそれを使う人間の見識によって人を生かしも殺しもするのだと言うことがわかります。

それを端的に示すケンプ博士の逸話を聞かせていただきました。彼のいる小児病院の眼科に、ある地方のお医者さんから目に異常を訴えるある子どもとその親が紹介されてきた時のことです。その子は先天性緑内障という難病で、すぐに手術をしなければ失明するというので、デンバー病院の眼科医はただちに手術を行うことを決めました。ところが手術の当日にも関わらず、患者の家族がいっこうに姿を表しません。医師が電話で親と連絡を取ってみると、こういう話でした。その夫婦には以前もう一人の子どもがいたが、病院で手術を受けて死なせてしまったという経験があり、今度もそうなるのではないかとおそれて手術は絶対に受けさせないと頑ななのだそうです。その医師は、その事情をケンプ博士に相談してきました。ケンプ博士は法的措置についてのサポートを得るべくブロス博士の部屋でその眼科医と電話でこういう話されたのだそうです。

「その子どもの主治医がそれ以上、親に介入したくない気持ちは分かるし、その土地の保護団体がこれ以上の介入を躊躇する事情もわかる。みんなを敵に回したくはないからね。しかしコロラドの法律は、児童虐待が行われると疑われる状況を目にしたら、誰でもそれを調べてもらうことを裁判所に要請することができる。われわれは正しいことをしなければならない。私たちのすべきことは子どもを救うことだ。すぐに法的措置をとって、その子に手術が受けられるようにさせなさい。」

こうしてただちに3度にわたる弁護士との面接が行われ、親も納得して手術が実施されて、子どもは失明の危機を逃れることができました。

この話は、見方によっては乱暴と映るかも知れません。日本では子どもは親のものとされますので、この場合、ちょっと説得してダメだとわかれば医師は引き下がり、親の意向の方が尊重されてしまうでしょう。これはアメリカの田舎でも事情は同じで、それでその子の主治医は躊躇していたのです。このときそのまま手術をあきらめ、そしてその結果、子どもが失明したとしても、主治医がとがめられることはないでしょう。しかしアメリカの法制度のもとで、ケンプ博士はその法律を利用して、強行に家庭に介入、結果的に子どもを救い出しました。


子どもを救うという使命のために

「親には心の葛藤はないのでしょうか」とブロス博士にたずねて見ました。

「もちろん誰にせよ他人が自分の家庭に法的介入などしてくれば、親にはそれは大きな葛藤が生ずる。親は自分が一番子どものことを考え、子どもにとってよかれと思って行動しているからね。それに虐待する親は往々にして、自分自身が親から同じように虐待されてきたので、それを問題と思いにくいのだ。だから虐待はなかなかなくならない。ケンプ博士はこう思っていたんだ。民主主義のもとでは子どもは無条件で親の所有物なのではなく、親が他の誰よりもちゃんと子どものことをケアできる存在だという理由で、子どもを自分のもとに置くことができる。だから、親にそれができないときには、そしてその時にのみ、民主社会が、子どもに代わって介入しなければならない、とね。」

このとき、ああ、親の気持ちというのはアメリカでも日本でも同じなのだな、と思いました。アメリカでも、基本的に家庭のこと、とくに子どもを守るのは原則として親であって、子どものことに他人が介入することには強い抵抗があることは日本と変わらないのです。アメリカでの「子どもは社会の財産」という考えは、こういう自然の心情の「地」の上に、子どもの幸せに生きる権利を場合によっては社会が代弁して主張する必要があるときの手続きを作る上で考え出された「図」なのでしょう。

この話でもう一つ印象的なのは、ケンプ博士にしてもブロス博士にしても、こうした児童虐待に立ち向かう人たちのもつ筋金入りのプロフェッショナリズムです。子どもを代弁して子どもを救うのが自分たちの使命という彼らのプロフェッショナリズムには、ほとんど感動ということばを用いていいほどの感銘を持ちました。もし日本との決定的な差があるとしたら、このように自尊心をもって自らのプロフェッショナリズムに徹して職務に当たる人たちを育て上げる文化が、今の日本には悲しいほど欠落しているという点ではないでしょうか。かれらは子どもの実態を把握するために、大規模で綿密な信頼できる調査を多額の費用を費やして実施し、表面的な肩書きや組織にこだわらず適切な人材を見つけだして、子どもを救うために必要な介入プログラムを常に作りだし続けようとしています。

このことを象徴的に示すブロス博士が教えてくれたもう一つの興味深い話があります。今このセンターでもっとも活躍しているである予防保護プログラム部の部長であるゲイル・ライアンGail Ryanさん(写真) は、もとはコックさんだったのだそうです。それは、虐待など問題を抱える家庭は、子どもの食事事情にも問題があることが多いからで、ケンプ子どもセンターでは、家族でしばらくの間センターで生活をしてもらい、さまざまなサポートや処遇を受けられるプログラムも開発しています。食べ物は、子どもにとって単なる栄養物ではなく、場合によっては虐待の武器にすらなるという視点で、ゲイルさんは数々のすぐれた研究論文を書いているそうです。虐待を犯す親の心理の揺れ動きのサイクルを表現したこんなポスターを考えたのも彼女です。


普遍性としての「地」と個別性としての「図」の関係から

制度を創り出しそれを動かすのは、その制度それ自体なのではなく、結局はそこに直接関わる生身の人間の心や思いでしょう。わが子を思う親の心、危機に陥っている子どもを救い出したいという人の思い、これらに基本的に文化差などないはずです。これは人間に共通の「地」の部分です。ただ、その思いや心をどのような形で行動に顕在化させるかについての人々のちょっとした意識のちがいが、「図」としての制度や文化の大きな違いを作り出しているのではないでしょうか。

そもそも人間は非常に多くの遺伝子を互いに共有しています。それどころか、DNAの塩基配列だけ見ればチンパンジーとだって99%近くを共有していると言われます。男女の差は一見大きいですが、それも性染色体がXX(女性)かXY(男性)かという、人間を作る全46本の染色対中のたった1本の違いでしかありません。もちろん血液型のように一人一人違ったタイプの遺伝子をもつということはあります。こうした一人一人の遺伝子のちがいが血液型や病気へのかかりやすさだけでなく、人間のパーソナリティや能力のちがいにも関係していることを示しているのが、私の研究している行動遺伝学ですが、同時に進化心理学では人間の心の働きがどれだけ遺伝によって普遍性を共有しているのかが精力的に研究されています。ここにも普遍性としての「地」と個別性としての「図」の関係が見られます。

私がアメリカ滞在中に最も興味を持って行った研究は、人間のパーソナリティを作り出す普遍的な遺伝的構造の抽出と、そこから一人一人の個性がどのように生み出されるかについてのモデル作りでした。いわば「地」と「図」をつなぐモデル作りです。日本人双生児のパーソナリティデータを統計的に解析してみると、異なる遺伝子群から作り出されていると考えられる3つの異なる働きが浮かび上がります。それは伝統的に世界中の多くのパーソナリティ心理学者たちが唱えてきた3つの次元(外向性・不安・精神病質、あるいは行動活性・行動抑制・対人関係など)とほぼ対応します。そして人間のパーソナリティを記述する他のさまざまな性質の大部分は、この3つの遺伝的次元の組み合わせと、その人独自の環境からの影響で説明できそうなのです。

このような普遍的と思われる遺伝的に独立の3つの次元があるとすれば、それはきっと進化を通じて獲得されてきたもので、そこから生まれる人間のパーソナリティの個人差もきっと進化的な意味があるのではないかと考え、それを進化心理学の大御所であるトゥービー博士Dr. John Toobyとコスミデス博士Dr. Leda Cosmedesの前でお話しさせていただきました。(写真 *4)

パーソナリティの遺伝的個人差は、進化的にはノイズのようなものと考える二人とは、必ずしも意見の一致は見られませんでしたが、人間パーソナリティの共通性と個性の橋渡しを考えるとき、遺伝子と進化の視点からの研究が重要であるという認識は共有できました。その意味での「敷居」は低く、またこのような大御所の大先生が私の話に熱心に耳を傾けて、対等に議論してくれるという暖かい雰囲気に、強い感銘を受けました。

==========================================================================
私の留学もひと月を切り、このような素晴らしい経験や人々との出会いをもう少し味わいたい、できれば日本に帰りたくないという気持ちに後ろ髪を引かれながら、敷居のちょっとばかり高い日本文化への再適応の準備をしつつある今日この頃です。

本稿執筆に当たっては、ケンプ子ども研究所のドナルド・ブロス博士に、当日のインタビューだけでなく、その後のメールでの内容確認で再度にわたり労を執っていただきました。この場を借りて博士にお礼を申し上げます。
==========================================================================
*1前回はKempeを「ケンペ」と表記しましたが、今回発音をちゃんと確認したところ「キンプ」に近い「ケンプ」という音だそうです。
*2こちらで大阪大学の中村安秀先生がその報告をなさっています。
*3児童虐待に対する日米の取り組みの違いについて、大阪大学の西澤哲先生のコメントがこちらに紹介されています。
*4この機会はこの二人のいるサンタバーバラにちょうど同じころ留学していた東京大学の平石界先生が作ってくださったものです。写真の一番奥がトゥービー博士、右前が平石先生、左前の女性がコスミデス博士、その後ろが私(安藤)です。


Copyright (c) 2000-2003, Child Research Net, All rights reserved.
このホームページに掲載のイラスト・写真・音声・文章・その他の
コンテンツの無断転載を禁じます。

利用規約 プライバシーポリシー お問い合わせ
チャイルド・リサーチ・ネット(CRN)は、
ベネッセ教育総合研究所の支援のもと運営されています。