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小林 登文庫
小 論 ・ 講 演 選 集


医療・医学に関する小論・講演(1999年以前に発表)

ノーベル賞のよろこびとかなしみ
1995 化学療法の領域 Vol.11 No.4 

 1994年度のノーベル医学・生理学賞は、「逆転写酵素」の発見と、それに関連する分野の基礎的な研究で実績を上げた研究者、アメリカ・マサチューセッツ工科大学のボルチモア博士、ウィスコンシン州立大学のテミン博士、そしてイギリス・王立がん研究所のダルベッコ博士の3人に授与されることに決まった。この小文が印刷されるころには、ノーベル文化賞の大江健三郎先生も一緒の授賞式は終わっていることであろう。
 テミン博士のライバルとして業績を競い合っていたからかもしれないが、ボルチモア博士はノーベル賞授賞のコメントに際して、新聞やラジオ・テレビの報道関係者の前で、次のように述べたという記事が日本のM紙上に載っていた。すなわちテミン博士の業績は、むしろ共同研究者であった日本人 水谷博士のものでもあると言うのである。水谷博士の研究方法の発見と化学的な技術なしには、テミン博士のアイディアは証明されることはなかったと述べた。すなわちこのような酸素の存在は確認されなかったとコメントしたのである。ちなみにボルチモア博士の夫人は、共同研究者の中国人女性であると記憶している。博士は大変コスモポリタンな人なのであろう。
 アイディアがなければ、この業績につながる具体的な実験は計画もされなかっただろうし、実行されなかったであろう。また、アイディアがあっても、良い研究法が考案され実際に行われなかったならば、当然のことながらこのノーベル賞は出なかったに違いない。
 もう何年も前になるが、1987年のノーベル賞を受賞された利根川博士に、ノーベル賞はアイディアを優先するのか、実際に証明したラボラトリー・ワークを優先するのかと伺ったことがある。その答えは、勿論ラボラトリー・ワークを優先し、実際に証明した研究者が受けるものであると、意外に強く明言されたことを憶えている。Nature誌に投稿された論文では、水谷博士が中心になって書き、名前がトップであったという。しかし、実際に印刷された論文では、テミン博士の名前がトップに変わっていたのである。Nature誌の編集委員会が、アイディアを優先してとった処置であったという。この業績は、発表の時から先陣争いになっていたほど大発見だったのである。
 その結果が今回の話で、ノーベル賞はテミン博士に行いき、水谷博士はもらい損ねたのである。利根川博士の話とは全く逆になったのである。日本人としてまことに残念な話である。
 ノーベル賞をめぐってのこのような話は決して少なくない。しかし、それはどうやら当事者の人間関係とか人柄とでも言うべきものによるようである。栄えある名誉を当然受けるべき仲間の研究者とシェアーしようというのは、ある意味日本人的な徳のようなものによるのではなかろうか。しかし、このノーベル賞の徳の物語も決して少なくない。
 乳動物とかヒトの細胞を培養して、患者からウィルスを分離し、増殖させる方法を開発してノーベル賞を受賞したハーバード大学のエンダース博士の物語は、その代表であるし小児科医にとっても忘れなれないものである。
 エンダース博士はマサチューセッツの銀行家の息子で、銀行家を継ぐべくハーバード大学で学び、スイスに留学したそうである。しかし、少年時代から蝶の採集に夢中な生物気狂いであり、スイスに留学中は勉強より、大学のウィルス研究室の実験助手のアルバイトに熱心で、ついに勉強し直してウィルス学者になったという。
 ハーバード大学の小児病院の研究室に職を得て、エンダース博士はこの細胞培養によるウィルスの分離・増殖法の技術開発を始めたのである。その研究室に飛び込んできた若い2人の研究者がロビンス博士であり、ウェラー博士であった。この若い研究者のエネルギーが加わったチームにより、この方法は立派に完成し、ポリオワクチンばかりでなく、現在のいろいろなウィルス・ワクチンの開発につながったのである。特にポリオワクチンによって多くの子ども達の生命は救われ、ついにポリオは撲滅されたのである。
 ノーベル委員会が、1954年のノーベル医学生理学賞をエンダース博士に授与することを決め、通知したところ、若い研究協力者のロビンス博士とウェラー博士と共にでなければ、受理しないと申し出られたという。そしてついにエンダース博士は、30歳過ぎたばかりの若い2人と共に、ストックホルムの授賞式に臨んだのである。
 昭和30年代はじめ、私がアメリカのクリーブランド市に留学した時、同じ病院におられたロビンス博士に、ウェスタンリザブ大学の新進気鋭の小児科教授としてお会いし、カンファレンスなどでお話した機会を今でも思い出す。同じ頃、恩師の高津教授がアメリカ視察にお出でになり、同行してハーバード大学の小児病院を訪問した折にお会いしたエンダース博士の温顔、また、同じ大学の公衆衛生学教室の教授になられた若いウェラー博士が、研究を熱っぽく語る顔も重なって来る。
 ノーベル賞を自分の意思で、ノーベル委員会の決定とは別に、仲間とシェアーした話は決して少なく無いようである。独り占めにしない人もいるのである。正に人柄であり、徳である。わが国では、1981年に化学の分野でノーベル賞を受けた福井教授にも同じような話があったと記憶している。
 まったく同じではないが、ペニシリン発見の物語もそれを語ろう。たまたま、1928年にペニシリンを発見したフレミング博士が、1945年にノーベル賞の内定を受けた時、それを強く固辞したそうである。それは、全く臨床応用が出来るとは考えていなかったからである。すなわち、発見して10年以上も経ってから、オックスフォードのフロリー博士とチェイン博士が文献からペニシリンを知り、臨床応用の道を開いたのである。ノーベル委員会は3人を受賞者に決めたのであるが、フレミング博士は、自分にはその資格がないと断り続けたというのである。結局は3人で授賞式に臨んだのであるが、その後の講演のたびに、フレミング博士は必ずそのことを話したそうである。フレミング博士の謙虚な人柄がしのばれる。
 ノーベル賞も身近になったわが国の研究者は、特に若い人の中には「いつかは」と夢見る方も少なくないと思う。しかし、ノーベル賞の裏には極めて人間くさい話が少なくないのである。いづれにしても、研究は良い師、良き友とするべきものと言えるのではなかろうか。


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キーワード: ノーベル賞 掲載: 2005/04/15