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人と人とのつながりの中で、子どもたちはよみがえる

中村 肇×井野瀬久美惠×中村安秀


瓦礫を前にした人間の連帯感
中村(安): 今、まだ神戸は復興の途上ですが、遠い将来のことを考えますと、「神戸に大きな地震があって大変だったよ」と語り継いでいくのは、子どもたちしかいないわけです。そういう子どもたちが、何を見て、何を学び、そして何を語っていくのか。具体的な被害の話もそうですけど、できればそのような未来へ向けての視点も含めて、話を進めていければと思っています。
 私はボランティアとして被災した子どもたちの医療活動を行ったのですが、中村肇先生は神戸大学、井野瀬久美惠先生は甲南大学という地元の大学で教えられていて、実際の被災も体験されました。まず最初は、先生方ご自身の被災体験についてお話いただけますでしょうか。
中村(肇): 私のうちは東灘区の田中町なんですが、被害が最もひどい地区で、近所の木造家屋は100%壊れました。被災の瞬間は、月明かりの中で今ひとつ何が起きたのかよくわかりませんでしたが、壁土の匂いがプーンとするんで、これはただごとではないなと思いましたね。
 僕はパジャマの上にズボンをはいてオーバーを着て外に出ましたけど、みんな同じような格好で出てきて、互いに「(助かって)よかった、よかった」と明るく会話してました。被害があまりにひどかったせいでしょうか、かえって悲愴感はありませんでしたね。
 井野瀬 : 私の自宅は大阪の豊中市ですけど、家の中はぐちゃぐちゃなのに、外はシーンとしていて、ものすごい静寂でしたね。本来なら消防車などのサイレンがわんわん鳴っていいはずなのに、何の物音もしない。しばらくは茫然自失の状態で、その静寂 を破ったのは学生たちからの連絡でした。ちょうどあの日は卒業論文の提出日に当たってましたから、学生からすぐに電話が入ったんです。でも、それも午前8時ぐらいには回線がパンクして途絶え、午前10時ぐらいまではまた静寂が続いた。今から考えれば、むしろその静寂のほうが恐ろしかったですね。
中村(肇): うちの辺りも、元日の朝みたいでしたね。国道に面してますから、普段は車でいっぱいなんですけど、救急車も消防車も車は1台も通らない。
中村(安): 田中町は、神戸の中で最も被害の大きかった激震地区ですよね。
中村(肇): 死亡者も1番多かったしね。
 うちの辺りから1キロぐらい離れると、もうそれほどではないんですね。でも、周りの被害状況がそうでもないとわかったときには正直ホッとしました。周りも全部うちの周辺みたいだったら、もっと落ち込んでいたと思いますよ。
 井野瀬 : 先生のご自宅辺りは、本当に軒並みペッシャンコという状態ですからね。
中村(肇): ほんまに生き残ったことが不思議なくらいで、家がつぶれたことなんか二の次。命があったことをみんなして喜んだ。今思うとそんな気がしますね。
中村(安): そういう状況で人に出会うと、むしろ悲愴感はなくて……。
中村(肇): 逆に助かったという気持ちのほうが強いんですね。
 井野瀬 : 助かってよかったというのが、別の表現になるのは、次の段階なんでしょうね。
中村(肇): みんな同じようにやられているから、よかったのと違うかなと思うんです。自分とこ1軒だけやられて、隣は全部無事だというのでは話が合わんと思うんですけどね(笑)。うちの近所は似たような古さの家が並んで立ってましたから。
中村(安): その意味では震災は平等にみんなを襲ったのですね。でも、倒れてしまった家の下に生き埋めになってしまった人もたくさんいらしたでしょう。
中村(肇): 隣にパーキンソン病の寝たきりのおばあさんがいるんですが、そのおばあさんが家の下敷きになってしまったので、何とか助け出そうとしました。
 そのおばあさんというのは、痴呆があり、夜中にわめいたり、暴れたり、普段はお嫁さんに大変苦労をかけているんです。ところが、そのお嫁さんが壊れた建物の中に必死に助けに行こうとする。その行動を見て、医者たる我々は、いかなる事態においても命を助けることに邁進すべきなんだなと、つくづく思いました。

中村肇氏
 現在、末期医療や慢性疾患の管理をめぐって、QOL(quality of life の略。生命の質の意で、「障害や慢性疾患を抱えて生きていくことの意味」などを考えるときに使われる概念)ということがよく言われますが、身内の人がとっさのときにそういう判断をするのを見ると、絶対に譲らず助ける方向で医師は仕事をしていくべきだと思いますね。生きるか死ぬかというときのとっさの判断というのは、人間の正直な反応だという気がして、それが印象深かったですね。
中村(安): そのときには、まだ余震はあるし、誰も救助活動の経験なんてないし、大変だったでしょうね。
中村(肇): 大学生の息子さんと一緒に余震のある恐ろしい中を壊れかけた家の中に入って行かれてましたからね。
 井野瀬 : 人間としての連帯感があるんですね。ともかく助ける。何とも表現しがたい感情ですね。
中村(肇): 命令されているわけでもないのに、「あっちに埋まってる人がいるぞ」と声がかかると、すぐに行ってね。
中村(安): 普段、顔を知っている人も、知らない人も、声がかかったらみんな一緒に救助活動を行う。それで助かったら、「よかったな」と言って、また次に行く。
中村(肇): とっさの判断で、よくあれだけできたなと思います。
中村(安): そういうときに、QOLなんていうこざかしいことは誰も考えない。
中村(肇): そうですね。生きるか死ぬかという状況での、レベルの違うところの判断でしょうね。
 井野瀬 : 生の原点というか、何もないときの人間に戻ったみたいな感じですね。


被災直後の子どもたち
中村(安): (中村肇先生は)その日のうちに大学病院のほうに行かれたそうですね。
中村(肇): やっぱり気になりますからね。たまたま知り合いが原付バイクを持って来てくれましたので、それで駆けつけたんです。
中村(安): あの状況で、原付バイクで走るというのはなかなかのわざですね(笑)。
中村(肇): 小児科医というのは、とくに新生児医療をしていると、普段から24時間体制でパッと出て行くという習性がありますね。まあ、今は年ですからあまり出て行けませんけど、若い頃は必ず行きましたね。
 井野瀬 : 緊急時の準備ができているんですね。
中村(安): 真夜中に電話があったら、普通の人だと、「何やろ?」という感じでしょうが、我々にしてみれば、病院からの呼び出しに決まっているわけですね。
 井野瀬 : だから、行く術もご存じなんですね。緊急時の対応が平時の活動と背中合わせにある。ある意味では、危機管理が1番できているのは、24時間体制で新生児を扱う小児科ということに……(笑)。
中村(肇): 小児科の中でも新生児をやっている連中は、被災当日の17日の朝から患者を加古川に送ったり、裏六甲に送ったりしています。危機管理は24時間働くことですね(笑)。
中村(安): 直後の子どもの様子というのはいかがでしたか。
中村(肇): 大学病院および私たちの仲間が勤めている病院では、直後にどういう対応をしたかというと、インフルエンザがはやりかける時期だったので、肺炎になったらいけないということで、態勢を整えて、人員も増強して待っていたんです。しかし、全然患者が来ないんです。最初からどうせ建物がだめになっているだろうと勝手に判断して来なかったのか、その辺りはよくわからないですけど。
中村(安): 震災直後には、子どもたちは避難してしまって、市内にはあまり残っていなかったようですね。
中村(肇): 後から聞くとそういうことがあったみたいで、それが原因かなと思ったりもしますね。
 私はどちらかと言えば現場に出て行くよりも、向こうから来られる方を中心に診ていますので、細かい実情はわからないですね。
 PTSDに関しては、震災がらみで心身症的な訴えを起こした子どももいましたが、その数がべらぼうに多いということはないですね。その中に医療を必要とした子どもがどれだけいたのか、正確には把握できていません。
 避難所には、当日の午前中に行ってみたんですが、子どもの数は大変限定されていて、震災直後に子どもたちが、どんなふうに困ったのか、よくわからなかったというのが本音ですね。
中村(安): 大学病院には、慢性の病気を持って通院して来られる方がいらっしゃいますよね。地震後、薬を取りにとか定期検診にとか来られたときの反応はどうでしたか。
中村(肇): 当初はよその地域に行かれて、よそで薬をもらうというケースが多かったようですが、それでも比較的早い時期から、少々交通が不便でも、無理してこちらに来られる方は多かったように思います。
 神経外来で診ている、精神薄弱や脳性麻痺の子どもの中には、地震による恐怖心が強くなって、なだめるのに困るということがあったようです。
中村(安): 発達の遅れた子どもの場合は、災害のショックをもろに受けてしまう。
中村(肇): 感受性がいいのと、それがすぐに表面に出るという2つの理由があるでしょうね。いずれにしろ、知恵遅れの子どもは、非常に過剰な反応をしますね。
 あとは腎臓の疾患、血液疾患の子どもなども診ていますが、とくに目立って訴えがあったということはありませんね。
 井野瀬 : 私は避難所からあぶれたテント村などを訪ねたりして、子どもたちと触れ合ったり、様子を見たりする機会が何度かありましたが、「我慢しているな」という印象を受けました。そしておそらく、その我慢が、次にストレスになって現れてくるんだろうなと思いました。
中村(肇): 六甲アイランド病院の小児科の部長さんに聞いたんですが、仮設住宅で暮らしている子どもの中で、心身症として腹痛を訴える思春期の子が多いらしいですね。あるいは神経性食欲不振症になった子もいます。こういう症状が震災と関連するかもしれないと言ってました。
 それから仮設住宅に住んでいる子どもには、下校拒否症があるそうです。仮設住宅のあの狭いところに大勢の所帯で暮らしていると息が詰まる、学校のほうがのびのびできるということですね。中学生ぐらいになりますと、今の子は自分の部屋でのびのびと暮らしていますから、狭い中での生活というのは大変ですよね。
中村(安): それまで日本の都市社会生活を享受していたわけですから、それが突然不自由な環境になってしまった。その変化は大きいですね。
 井野瀬 : 突然ある時点で、がらっと変わるわけですから、すごいでしょうね。
中村(肇): 本当に周りのサポートが必要な子どもは、我々の知らないところに隠れてしまっている可能性がありますね。たとえば、ご両親、あるいはご両親のどちらかを亡くした子どもが、仮設住宅には入らずに親戚の家に行ってしまっているとかね。
 親を亡くすというのは非常に大きな問題ですから、その子たちをどのようにフォローしていくのか。1番の被害者は親を亡くした子どもたちだと思います。そういう子どもに対する支援が、心身面でも生活面でも必要になってくるのではないでしょうか。
 それから、子ども自身の問題だけではなく、両親の問題も大きいと思いますよ。両親が何とか生活できる見通しを持って、前向きに生きていれば、子ども自身はそう心配しないでもいいと思うんです。ですから、子どもを抱えた両親をサポートしていくことが、そのまま子どもへのサポートにもなっていくんだと思いますね。


学校で活躍する子どもたち
 井野瀬 : 今回の震災では、学校の持っている意味についても考えさせられました。小学校や中学校など、平時の教育の場が、緊急時になると避難所になるというのは初めての体験ですよね。
中村(安): 普段、避難先○○小学校と書いてあっても、実際に避難することになるとは、誰も思ってませんからね。
 井野瀬 : 先ほども24時間体制が危機管理という話がありましたが、みんなが行く平時の教育施設が緊急避難場所になる。そこで子どもたちにとって大事になるのは、平時の学校とのつき合い方ですね。
 避難所の子どもたちを見ていると、学校という場を常日頃どういう場所として意識しているのかによって、大きな差が出るように思います。勉強する場所なのか、仲間と楽しく戯れる場所なのか、簡単に言うと、遊び好きかそうでないかが、そのままフットワークの差になって現れているなと思いましたね。

井野瀬久美惠氏
中村(肇): 各家庭の子どもがそこに行くわけですから、1番地域のことをご存じなのは、小学校の先生ですよね。中学校になりますとよその学校に行きますけど、だいたい小学校は地元の小学校。今回の震災では、担任の先生がその地域の、それこそ自治委員というか、民生委員といった役割を現実に担われた。ですから、普段からそういう立場を小学校の先生に持っていただいたらどうなのかなと思いますね。
 井野瀬 : 言うなれば、地震は行政単位をも崩壊させたんですね。行政が正常に機能しない以上、行政が持っている地域区分に頼ることもできなかったわけです。そんな状況の中で最も威力を発揮するのが、学校を拠点とする新しい集まり。そのことが、今回は本当に歴然としましたね。
中村(安): 避難所にボランティアとして行きますと、至るところに貼り紙がわんさと掲示されていて、それをみんなが見に来て、情報交換していくわけですね。そんなに地域に密着した場所というのは、ほかになかったですね。
 井野瀬 : マスコミの世界ではなくて、ミニコミの世界ですね。
中村(安): 地域の情報センターになっていました。それから、食料や水だけでなく、衣料や靴などの配給品も、学校単位で来て、近所の人は学校のマイクで呼ばれると、家から出て来たわけですね。つまり配給センターにもなっている。すごい役割でした。
中村(肇): 小学校の先生は子どもの家庭訪問などで地域を回られますから、その地域について非常に詳しいんです。たいていの先生は、あくる日には、子どもたちの安否を把握しておられました。そういう子どもを通じた輪が、さらに隣人たちの安否情報も提供してくるので、先生たちは地域の人々の事情に通じてらしたんだと思います。
 今の時代に、それだけ地域のことに詳しい人は、小学校の先生以外にいないんじゃないですか。
 井野瀬 : 今のように地域に横の連帯がない時代には、子どもを中心とした親のネットワークが、情報ネットワークの役割も果たすんですね。
中村(肇): ほかには、それに類する組織はあまりありませんよね。
中村(安): 田舎だと、それに代わる町内会などがあるのかもしれませんけど、神戸のような都会だと、なかなかないですよね。よく、地域社会とか、コミュニティとか言いますけど、実体があるわけではないですから、結局学校がその役割を背負わざるを得ない。
中村(肇): そうですね。昼間地元にいるのは幼稚園児や小学生ぐらいで、あとはよそに行ってしまいますから、地域を支えているのは幼稚園と小学校ということになりますね。いくら緊急システムの想定図を描いたところで、コミュニケーションのないところでは役に立ちません。顔見知りの人々が普段から集まっている場が、非常に重要なポイントになってきますね。
 井野瀬 : 今回のことでボランティアが市民権を得たとよく言われますが、忘れてはならないのは、被災者ボランティアと呼ばれる人たち、つまり、被災者でありながらボランティアをされた方たちの努力のように思います。同じ被災者として気持ちがわかる、そして地域がわかっているということが大きかったのではないでしょうか。
 また、小学校高学年から高校生までの子どもたちの動きが、大人以上に目立ったということも印象的でした。それは避難所が学校であったために、自分たちのフィールドとして動きやすかったのだと思いますね。
中村(安): 僕の行った長楽小学校なんかでも、震災後しばらく、問い合わせの電話が学校に頻繁にかかるんですが、その電話当番を卒業生の中学生がボランティアでやっていた。それは、卒業しても小学校の先生と個人的につながっているということがありますね。
 井野瀬 : 大切なのは、やはり人間的な部分も含めた、つき合い方ですね。
中村(安): それなしで、突然おまえやれと言っても無理なんですよね。卒業生の中学生や高校生は、学校の事情をよく知っていますからね。また、弟や妹が通ってたりする場合もありますから。
 井野瀬 : そうそう。だから、何年何組と言われても、すぐわかるでしょう。理科室と言われても、外から来た者にはわかりませんから。私の訪ねた3つの小学校では、あたふたする大人と、子どもたちのスムーズな動きと、実に対照的でした。


災害に強い街の基本はコミュニティ
中村(安): よく「災害に強い街づくり」と言いますが、それはどんな街づくりかといろいろ考えているんです。
 今回のような大きな災害のときには、どうしても震災直後は外部から孤立しますよね。よそと連絡をとろうとしてもすぐには通じない。そのときは、みんなが歩いて行ける範囲で、顔見知りの範囲の中で、一応何とか、しのいでいくしかない。その大きさはちょうど小学校の校区ぐらいの規模ですね。

中村安秀氏
災害の起こった直後に、政府に大きな緊急援助機関を作るという話が出てましたが、どんなに大きな機関を作っても、現場に有効なことはできないでしょう。むしろ、小さいコミュニティでまとまっていたほうが動きがいいはずです。
 井野瀬 : 「災害に強い街づくり」を目指して、兵庫県も神戸市も一生懸命やっているけれど、大半はハード面の話でしょう。しかし、災害とは常に予想を超えるものですから、どんなに頑丈なハードでもいつかは必ずつぶれる。ですけど、災害が起きてもつぶれないものがあって、それは目に見えないもの、形のないものなんです。たとえば、災害に負けない心や人々の絆。そういうものをどう作っていくのかが、これからの課題だと思いますね。
中村(肇): 大切なのは、人と人とのつながりですから、そういうコミュニティづくりを、どういう単位で進めていくのか、ということになってくるのではないでしょうか。
 たとえば、救急医療に関しても、医療機関は災害医学ということで、研究は重ねていますが、こういう災害の場合は、その場に居合わせた人が、まず最初に物事をやるわけですから、底辺がしっかりしていないと、最高の医療機器を備えても役に立たない、ということになりますね。
中村(安): 瓦礫に埋まった人を助けるには、まず誰かが「あそこに、おばあちゃんが埋まってんねん!」と言わなければならない。そして、瓦礫の山を取り除くには、近所の人間がすぐに動かないといけない。そういう人と人との助け合いの気持ちがなければ、いくらよい救急センターを作っても、すべて手遅れになってしまいますよね。
 井野瀬 : ハードというのは、常にそうですよね。使う人にとっていかに使いやすくあるか、あるいは使えるか使えないかということが大事になってくる。
中村(安): 今回みたいに、子どもの心のケアが叫ばれた災害というのは初めてだったんでしょうが、それでは精神科医がたくさんいれば解決するかというと、もちろん、そんな問題ではない。
 災害が起きたときに、子どもの周りに子どものことを大切に思っている人がいるというのが基本にあって、その上で解決できない問題を抱えた人が、相談に行くべき場所があるということなんだと思います。
 井野瀬 : 気にしてもらっているというのは、愛してもらっているというところにつながりますよね。周りが心配してくれることが、子どもたちにとっては、ものすごく大きなパワーになるのだと思います。
中村(安): 子どもがいろいろな思いを訴えたときに、それをお父さんやお母さんがよく聞いてくれて、学校でも先生が子どもの気持ちを受け止めてくれたら、だいたいそれで解決するんです。精神科医を用意することが対策ではなくて、予防と言いますか、子どもの周りに、その子を見守っている大人がいるかどうかが原点ですね。
 井野瀬 : 子どもたちの心の復興のポイントはそこなんでしょうね。いかに優秀な専門家が集まっても、子どもたちを常に見守ろうとする空気、つまり共同体としての土壌があるところにはかなわないという部分がある。先ほどのボランティアの話にも通じるかもしれませんが、日頃を知っているということが大切なのでしょうね。
中村(肇): 震災後1か月たって、子どもたちが学校へ行きだして、仲間と会って話し始めたら、とっても明るくなったと言いますよ。見違えるように顔つきが変わったそうです。医療機関の支援も大切かもしれませんが、むしろ親御さんと子どもさん、あるいは子ども同士のコミュニケーションの場を、うまくサポートしてあげるのが1番大切なのかもしれませんね。

(なかむら・はじめ  小児科学)
(いのせ・くみえ   歴史学)
(なかむら・やすひで 社会小児科学)

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