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豊かさの中で早期教育に求められるもの

汐見稔幸×丹羽洋子×無藤 隆(司会)


多様化する早期教育
無藤: 「早期教育」という言葉が定着してずいぶんたちました。「お受験」や「英才教育」といった話題がマスコミに取り上げられたり、その過剰なブームの中での問題点が論議されたりしています。
 この座談会では、汐見先生に社会的な観点から、丹羽先生に親のニーズといった観点からご発言いただきまして、早期教育をなるべく広く捉えて、今後のあり方を提言できればと思っています。

 まず、私の問題意識を簡単に述べますと、1つは、早期教育はいいのか悪いのか、あるいは子どもにとってためになっているのかということです。ある種のものは、明らかにいかがわしいように思えますし、何らかの効果がありそうな話もある。そういう早期教育の実態をふまえて、本当にそういうものがいるのかいらないのかということが、1つの議論の柱です。
 それと同時に、もう1つは、これは私より汐見さんのほうがご存じでしょうけれど、結局、もう少し大きな社会的背景とか歴史的背景がたぶんあるだろうということ。その背景の1つとしては、豊かになったからお金を使いたい、ともかく子どものために使うんだということがありましょうし、親が暇になったということもある。それから、昔は家庭でやっていたことをどんどん外部化するというか商業化するようになっていて、ある意味ではそういうものの一環でもある。だから、場合によっては「しつけもお願いします」という方向にもいっているわけですね。
 もう1つ、大事だと思うのは、早期教育が情報化の一部でもあるということです。
 つまり、早期教育と言うと狭くなるけれども、もうちょっと広く考えたときには、家庭にはいろんな媒体があふれているわけです。市販の雑誌は、子どもにとっては娯楽だけれども、その中にちょっと早期教育っぽいのもある。絵本も早くからたくさん与えられている。もちろんテレビもある。その意味では、早期教育というのは親の側とか家庭の側の問題としても考えなきゃいけない。あまり単純に否定も肯定もできかねるし、もっと大きな問題の一部かなということがありますね。
 それからもう1つ、これはとくに丹羽さんがご存じだと思うけれども、親の心理としてなぜ早期教育をしたいのかということです。そういうことを切望している親、伸び伸びと育てたいという親、幼児期は伸び伸びと育てて小学校に上がってから勉強をがんがんやればいいという親など、さまざまなようです。
 それと同時に、親自身が子どもを育てるということから手を抜きたいといった欲求からくるところの早期教育も一部にありますね。まあ、幼稚園もそういう要素を持っている。子どもを預けて楽したいと。一部の早期教育にはそういう要素もある。そういう親側の問題も重視する必要があるなという感じがしています。
 そういうことをいろいろとふまえながら、丹羽さん、いわゆるお稽古事も含めた早期教育の現状はいかがでしょうか。
丹羽: 90年代に入ってから、早期教育が多様化してきたという感じが大変にするんです。
 以前からも、幼児教室というのはありましたし、教育教材も赤ちゃんによく使われておりましたが、幼児教育がどんどん低年齢化してきた。量的にも大変増えて、大手のスーパーにも幼児教室があって気軽に誰でも行けるようになって、0歳や1歳から幼児教室へ通わせている人が増えてきています。
 教育教材も相変わらず、セットで何十万円というようなものがよく売れています。私のところでは電話インタビュー形式でお母さんたちに育児の実情を聞いていますが、「45万円の教材を買いました」とか「お父さんには10万円と言っておいたけれども、実は20万円のを内緒で買っちゃった」というふうな話もたくさん出てきています。
 それから通信教育も、0歳からというふうに低年齢化してきていますし、テレビ・ビデオは、90年代になってから教育ツールとして認識されだし、ずいぶん賑やかになってきたなと感じています。
 お母さんたちに聞きますと、テレビやビデオは、言葉を覚えるということで大変期待をかけていますね。テレビよりはビデオなんですけれども。
無藤: 繰り返し見る効果でしょうか。
丹羽: そうですね。しかも、いつビデオを見せるかというと、夕食時の忙しいとき。子どもがおとなしくしていて、なおかついいことをしている。教育教材を与えているんだという満足感がありますから、これは大変評価が高いんですね。ビデオは、ずいぶんたくさん保有している人が多いし、とくに英語のビデオがよく活用されている。0歳から英語のビデオを見せてというか聞かせていて、「英語は早いうちからのほうがいいそうです」というようなことで、これもよくやっていますよね。
 それから最近、家庭でできる教育教材・教育玩具という形でハイテクおもちゃが増えてきています。あいうえおボードとか、画面と連動してあいうえおやABCを覚えられる教育コンピュータを買う、買わないがお母さんたちの間でも話題になっているようです。
 それでこの間、お母さんたちにハイテクおもちゃについて聞きましたら、「テレビゲームは困ったものだ」という話が出てくるのではなく、ほどほどに親しんでほしい、慣れることはいいことだと考えているようです。
 ついでに、どういうおもちゃに期待するかも聞きましたら、「創造性のあるおもちゃ」というのがかつての答えだったのに対し、今は「勉強になるおもちゃ」といった答えが返ってきました。実際、遊びながら何かが身につくおもちゃが多く出てきています。
 あと、保育ビジネスの中で、最近は教育をうたっているところも出てきている。「英語もお勉強できますよ。保母さんがアメリカ人ですよ」という保育をするところも登場してきています。
 そういうものがいろいろ出てきていて、赤ちゃん時代から知的教育に触れる機会は大変多くなってきているという感じがしますね。
無藤: なるほど。その辺、汐見さんはどんな感想をお持ちですか。
汐見: 社会現像として見たら、時代の風潮を非常に敏感に反映しながら、早期教育の多様化は、確実に進行するだろうという印象です。とくにハイテク玩具が発達していくと、その技術の発展度合いに応じて新しい商品がどんどん開発されていって、ある程度は多様化が進むという印象はありますね。


焦点は親子のコミュニケーションに
汐見: 最近の動向を僕なりに見ていると、早期教育にどのジャンルまで含めるかというのがあるんですけれども、知育のレベルでは、フラッシュカード方式は、少し陰りを見せているという感じを持っているんです。早くから、文字だ、数字だというふうにやったとしても、必ずしもそれが芳しい結果を生むわけではないという、推進してきた側でもそういう反省があったようです。
 幼児開発協会の井深大さんも『朝日新聞』に何年か前に書いた記事の中で、日本の将来には人材しかないと考え、できるだけ優秀な人材を育てるためにはどうしたらいいかということで、早期教育にたどり着いてあれこれ実験したが、その結果わかってきたことは、知的な早期教育よりも、心の早期教育が大事だというようなことを書いておられた。
無藤: ほほう。おもしろいですね。
汐見: 要するに、知的なものを先走ってやっても、そんなにいい成果は出ない。子どもの心を豊かにすることについては、できるだけ早期から、もう胎児からやったほうがいいと。それは当たり前の親子の豊かなコミュニケーションなんですよ(笑)。
 泣いているときには、こうやってあやしてやれとか、子守歌を一生懸命歌ってやれとか、昔から人々がやってきたことで、最近のお母さんがどうしていいかわからないようなことを、もっと丁寧にやってやれと。それが心の教育であって、それは赤ちゃんがおなかの中にいる頃からやっていいということがわかってきたと書かれていた。それは誠実な態度だと思うんです。
 確かに親は子育てに自信がないものだから、子どもにどう関わっていけば子どもが伸びていくのかという、コミュニケーションのあり方をすごく求めているわけですよね。そこに少しずつ焦点が移ってきている。
 また、そこでいろいろ出てくると思うけれども、大事なのは、子どもがうまくできたらすごく高い評価をして、できなかったら厳しい顔をするとかいうことじゃなくて、それで好奇心を持って遊び出せるような上手な働きかけをやればいいということになれば、それはそれでいいと思う。
 ともかく焦点が、「親子の豊かなコミュニケーション」というところに今は移りつつあって、そのノウハウを教えるのが早期教育の表看板みたいになってきているという印象が一方でありますね。


台頭してきた英語教育
汐見: それからもう1つ最近のしてきているのが、英語ですね。英語については、もう教室がいっぱいできてきている。国際化というとすぐそう反応してきますよね。
 一般に、僕は英語教育を早くはじめることには反対じゃないんですけれども、ただ、現在の日本の英語教育のシステムには、内外から批判があるように、問題があるんですね。
 もともと明治から文章を中心に英語を取り入れてきた国が、外国語をどうマスターしていくかというのは、大変難しいところですよね。だから、そのあたりはまだギクシャクするとは思うけれども、それが幼児教育にも反映しているような気がするんです。
 僕は耳からだと思っていたんですね、当然。ところが、見てみたら違う。フラッシュカードで文字からやっているところが多いんですよ。つまり「ドッグ」と言って「DOG」と書いてあるのを見せたり、「エー・ビー・シー」と言って、ABCのカードを見せていくんですね。
無藤: それで子どもに発音させる?
汐見: させるんです。最初は聞いているだけで、だんだん少しずつ……。先生がフラッシュカードをめくって発音してみせる。
 先生はたいてい日本人ですよ。だから言ってはいるけれども、実際には耳よりは、目と耳と両方というか、子どもは目で見ちゃうわけですよね。その評価はまだよくわからないんだけれども、フラッシュカード方式というのがあったから、手っ取り早くそれを英語に取り入れたような感じがするんですね。
 幼児の意識だとか、音の弁別力だとか、語学の感覚みたいなものをどう育てていくかというときには、たとえば英語の歌みたいなものをいっぱい楽しく歌って、それで同じことを復唱させるとか、もっといろいろやり方があっていいように思うけれども、やり方がまだすごく混乱しているような感じがするんです。だから、その成果のほどはまだ何とも言えないというかな……。これではすぐ忘れちゃうと思うんですよね。
 だいたい今までの事例で言うと、英語は日常言語じゃないから、日本にいる限りバイリンガルは育たないわけです。向こうから帰ってきたバイリンガルの幼児も帰国して半年か1年で忘れちゃいますよ。ずっと続けないと、せっかく幼児期にやったものが十分に生きてこないという問題があるわけです。
 そういういくつかの課題を抱えたまま、英語が少しずつ早期教育におりてきているというのが、もう1つの印象ですね。


反射的な記憶力の威力には疑問
無藤: 僕なんかは、どうも心理学というのは視野が狭いものですから、1個1個本当に効果があるかとか、もうちょっといいやり方があるんじゃないかというノウハウにすぐいくんですが、そういう観点で言うと、早期教育の話で1番気になるのは、明らかに無理な話と、過大な話が多いということですよね。
 別に漢字を覚えたから言葉に強くなるわけではないし、計算を覚えてもそれ以上のことはない。思考力といった話ではないわけです。
 だから、そういうものでいいと思えば、やったっていい。そんなに害も無いと思うんですけどね。
汐見: ただ、その辺はやり方によって微妙だと思うようになってきたんですね。
 この間、知り合いの幼児教室の経営者から聞いた話ですが、1歳からフラッシュカードをものすごくやってきた子が4歳で入会してきた。その子に「りんごが何個あるか、教えて」と聞くと、「いにさんしごろっ。いにさんしごろっ」とやたらに早くしか言えないんですって。
丹羽: フラッシュカードのテンポですか。
汐見: ええ、それでないと数えられない。
無藤: それで頭に入っちゃってるんだ。
汐見: たぶん、あまり早い時期にやると、ある種の条件反射的な行動の型みたいなものが強く刻印されちゃって、そこから抜け出せないというか、それも1つの型として使いながらもっと柔軟な型が身につくということにはならないと思うんですね。じっくり数えたり、じっくり考えたり、じっくり行動するということがものすごく苦手だって言うんです。
 この辺は発達的には非常に難しいことだと思いますが、もし、あまりに早期に、ある型だけを突出して学習させることで、それ以外の反応がなかなか身につきにくくなってしまうとしたら、せっかくやってもかえって不自由になってしまう。そういう可能性もないわけじゃなく、簡単に、害がないとも言い切れない。やり方次第ではそんな問題も起こり得るんだなあと、改めて考えさせられました。
丹羽: 親は専門知識がないわけですから、結果があれば、それは成果として考えればいいと思っていますよね。ですから、たとえば保健所の1歳半健診で言葉が遅いと言われたとして、「トーキングカードで覚えさせましょう」と言われてやってみたら、子どもが親のまねをして「猫がニャーニャー」と言えたとします。すると、親のほうはそれで言葉が発達したと理解していくわけですね。
 もちろん指導する側が、どういったコミュニケーションを作っていけば言葉の遅れを取り戻せるかという説明をきちんとしないからいけないんですが、それに類する親の錯覚が、ずいぶんあると思うんです。

無藤 隆氏
無藤: 早期教育というのは、たとえば「猫がニャーニャー」という、最終的な結果だけをごく初期からやってしまうわけですね。本当は、「猫」ということなら、猫をめぐっていろいろあるはずなんだが、それはなくていいという感じですよね。あるいは、そういうのはあると認めていても、それはあとからやればいいということかな。非常にごく素朴な、反射的な記憶力の威力を、ずいぶん信じ込んでいますね。
汐見: そうなんです。日本の親のある種の知能観の問題ですよね。もともと、受験学力の博学主義的な知能観というのがあるじゃないですか。知識をたくさん持っていると賢いとか。ああいうものの影響がこういう形で出ているというのかなあ……。知能観そのものをもっと問い直すような世論を作らないと。だから、簡単には抜け出せない。
無藤: そう。何か断片的で、早く答えられればいいということですよね。
汐見: 成果が見えて、パッと覚えてくれていたら、何かそれで賢くなっているんじゃないかと。知識が積み重なっていくと賢くなっていくと思っているのかもしれないですね。
無藤: そういう知識も多少はあるけれど、それ以外の膨大なことを考えないのかなあ。
丹羽: それで、知識が積み重なっていけば知能が豊かになっていくんだと考えると、早くからやればそれだけたくさん積み重なっていきますでしょ。そういう論理なんだと思うんです。だから、早くしようということになっていくから、五十音も3歳からと言えば、みんな3歳までにはできていないといけないと思って、それじゃ2歳からやらせようなどというおかしな話になっていくんだと思うんですね。そこには、とにかく積み重ねていけば知能がどんどん蓄えられていくという考え方があるんだと思うんです。


知的教育に求められるもの
汐見: 認知心理学の世界で、領域固有性なんていうカテゴリーが出てきているでしょ。それはやっぱり僕は、ある程度当てはまるんじゃないかと思うんです。
 たとえば幼児教育の先生方と勉強会をしているときに、4歳の子どもに氷を教えてみたい、考えさせてみたいと。冬場に外に水を出しておいたら氷が張った。凍ったことに気づかせて、それをきっかけに氷の概念みたいなもの、たとえば、とにかくものすごく寒くなったら凍るんだとか、ある寒さ以下になったら必ず凍るんだということを教えたいというんです。それでいろいろ工夫するんだけど、なかなかうまくいかずに苦労したというんですね。
 確かに、そういう教え方は一般的には間違いではないけれども、4歳の子どもに、氷のカテゴリーとか概念を知識として定着させることが、本当に幼児期の知的教育として1番大事なことだろうかと。それよりも、どうして凍ったんだろうというところからはじめて、「これは外に出したから凍ったのか」とか、「あしたは部屋の中に入れてみよう」だとか、「入れ物がこうだったから凍ったのか」「大きな入れ物ならどうか」って子ども自身がいろいろ言い出すようにする。
 「じゃあ、砂糖水だとどうだろう」「お父さんが飲むビールだとどうだろう」といろいろやってみると、実際、凍るものも凍らないものも出てくるわけでしょ。そういう形でじっくりと観察したり、実験してみたりというふうに、探求心を上手に開発していく。それで予測したり、確かめたりする。
 ところが、そういうところに知的な能力のかなり本質的なものがあるとは思いつかなくて、すぐ、氷の概念がわかるにはどうしたらいいかという方向になる。
 そうした概念をストンと情報としてストックしておく大脳の部位と、氷を見ておもしろいと感じて、いろいろ自分で調べてみるときに使う探求心の知能の部分とは、必ずしも、100%重ならない。ある種の領域固有性があるんだと思うんですね。
 だから、知識をたくさん、パッパと覚えさせれば自動的に賢くなっていくんじゃないかということでは、確かに幼児には知識を覚える力はあるわけですけど、その領域しか活性化しない。自分で探求するとか、自分で確かめにいって、だんだん方法的に確かになってくるだとか、そういう力は、自動的に出てくるということにはならないんじゃないかな。
無藤: そうですね。知能の核みたいなものが表面的な知識じゃない部分にあるということが、どのくらいわかるかということですね。
汐見: それをある種の常識にするような表現形態がいるんだと僕は思っています。どう言えばいいのか、まだまだわからないんですけどね。
無藤: 今の例に関連して思うんですけど、もう1つ、よく勘違いしていることがあるんですね。これは理科教育でも時々あると思うけど、氷の場合、零度で凍るということも大事な科学的知識だけど、科学的知識というのは実はたくさんあって、たとえば氷はすべすべするとか、その上で滑るとか、パリンと割れるとか、触れば冷たいし、もっと冷たいとくっついちゃうとか、あるいはつららがあったり、冷蔵庫の氷があったりする。そういうのはすべて体験的だし、同時に科学的な意味がありますよね。つまり、氷が水に浮くというのも、それは密度が違うからだということにつながるベースの体験でしょ。
 だから、氷1つとってみても、ものすごくたくさんのことがあるわけで、それを知るには、氷をめぐってたくさん体験するしかないわけです。
汐見: 体験ですね。体験をまず、情報としてすくい取ってやれるかどうかですよね。
無藤: その辺で僕は、子どもが毎日、日々吸収していることがもとだと思うけれども、大人に都合のいい知識だけを吸収させる方法は、本当はないんですよね。
汐見: 子どもは、すごく多様で、無限的と言ってもいい体験、探索体験をしているんですよね。そこでいろんなものが育っているんだけれども、それを評価するまなざしがないから見えない。そして、別の訓練ばかりしちゃうから、逆に大事なところが伸びていかない。
丹羽: 親に対する情報の中で、子どもはそういう日々の体験から、さまざまなことを学んでいるんだという情報が欠けていると思うんですよ。
汐見: その上手な伝え方がね。
丹羽: ええ。お母さんたちと話をするときにも「たとえばね、赤ちゃん、1歳児が食事のときにガタンとコップを倒しますよね。そうすると、力を加えると物が倒れるということを知るわけでしょ」という話をしていくと、それは通じるわけですよ。ですけど、そういうことは、お母さんたちのところへ提供される情報の中には、意外と少ないんですよ。
 だから、「液体は倒れれば流れていく」といったことを知るのは無駄なことで、「水」という文字を知ることには価値があるというふうに、お母さんには理解されるわけです。その辺では、知に関する情報の歪みがかなりあるんだと思います。
無藤: そうですよね。教育的にだったら、そういう機会を大事にしてあげたらいい。
汐見: 子どもは生活の中でいっぱい物理学をしているんだとかね。「水は、こっちに流れていくな」とかね。高いほうから低いほうへ流れざるを得ないとか。見た目と違うような印象だってあるとか、そういういろんな体験をしたときに、それをもう一歩上にすくい取ることが大事なんです。親だとか大人の役割としてはね。
 だけど、その体験をした中で「あれっ?」と思ったり、問いが発生したり、興味を持って何回も繰り返したりとかということがなければ、そういうものは身につかないんだという、そこのあやみたいなものですよね。
 これは幼稚園の現場でも悩んでいることの1つで、今自分がやっていることがどんなに大事なのかをお母さんにわかる形でどう表現できるのか。相当、力のある園長でないとなかなかできないですよ。
無藤: そうですね。
汐見: この間もある園で「なぜ文字を教えてくれないんだ」って言うから「今、しりとり遊びを一生懸命やっているんですよ。どんな音があるかがわからないと文字の準備ができない子もいるので」ということを言ったら、「はあ、そういう意味があるんですか」ってわかってくれたそうです。「私たち伝えてなかったんだ」ってずいぶん反省してました。
 そういうちょっとしたことでも、これがこういう力にやがて必ず結びつくから、家でもやってくださいと言った伝え方が必要なんですね。上手な情報の届き方があれば、こういう風潮とちょっと違うものができる可能性はありますよね。


日仏子育て比較
汐見: 興味深いんだけど、日本人の母親とフランス人の母親との比較調査がいくつかあって、子育ては大変だと思うことが多いか、それなりに楽しいと思うことが多いかって聞いたら、フランスの母親はだいたい8割方が楽しいことが多いと言って、日本の母親は逆に8割方が大変なことが多いと答えたというんですよ。それで、何でこんな違いが出てくるんだろうって、大日向さんという人がフランスへ行ってインタビューしてきた結果を聞いてみたら、こういうおもしろいことを言ってたというんです。
 たとえば育児雑誌とか育児書というのは――もちろん、育児雑誌は日本みたいにあんなにたくさん出ていないわけなんだけれども、育児書みたいなものを持っているかと聞くと、だいたいインタビューに答えた母親はみんな持ってた。それで、どのように活用したかと聞くと、ぱーっと見てみたら、だいたいみんな、あるところへくると必ず、自分の子どもと違うことがいっぱい書いてある。そのとき、フランス人は「参考にはしてみたけれども、あんまり自分の子育てには役立たない」という発想をするんだって。
無藤: なるほど。それはおもしろい。
汐見: では、どうするかというと、結局、自分で考えるというわけですよね。
 コリーヌ・ブレさんという人がいるでしょ。彼女が書いた『おへそを眺めながら』(筑摩書房 1995)という育児体験記を読んでみたら、非常に哲学的で日本人だと絶対書かないような内容なんです。
 それで僕に会ったとき言うには「娘が1歳のとき、食事中にすぐにポトンと下へ食べ物を落としちゃう。最初は、おなかがいっぱいだから落としてるのかと思ったけれども、そうではないらしい。これはおもしろいと思って、半年間観察し続けた」と。
 それで「日本の研究に、子どもはなぜ食べ物を下に落としたがるかという研究はないか」と言うんですよ。
丹羽: それは、おもしろいですね。
汐見: それで、私がずうっと観察した結果、子どもには下へ落としたがる本能があるんだという結論になったというんです。すごいおもしろいことを言ってるわけね。
 じゃあ、なぜそんなことができるのかというと、大日向さんが言うには、結局、自分で考えて、自分で解釈、判断をしてみろと、教育で励まされてきているんじゃないかと。
 まあ、それだけじゃないだろうけれども、日本の教育は、どちらかと言うと、知識をパイルアップしていけば評価されることが多いのに対して、フランスでは、ともかく自分で考えなきゃだめなんだ、自分で納得する答えを自分で表現しなきゃだめなんだという教育をする。そういう教育の微妙な違いが子育てにも出てくるんだと思うんです。
 日本人の場合は、どうしてもマニュアルに頼ってしまうし、育児書と違ったら、自分の子に合う育児書を探し回る(笑)。その辺が背景にあって、自分よりも上手な子育てのやり方を教室はやってくれるんじゃないかということになってしまう。そこが背景にすごくあるような気がしますよ。


子育ては人間発見のチャンス
丹羽: 日本の育児指導の歴史を考えてみると、やっぱり医学があって、それに従う形ですね。育児書はずっとそうでしたよね。それを今日まで引きずってますでしょ。だから、そういう名残があるんだと思うんです。
 それから今の親たちは、ちょうど高度成長期に生まれ育ってきた人たちですから、教育においてもまさに、とにかく覚えろ、言うとおりにしろという形で学んできた人たちだと思うんです。だから、育児書に書いてあるとおりにやろうと。そして、それによって高まっていくんだと考える人たちが多いという点は確かにあると思うんです。

丹羽洋子氏
 ただ、私、子どもを育てるというのは、人生をもう1回やることでもあると思うんですよね。人生をもう1回体験する、おもしろいチャンスだと思うんです。
 それで今、汐見先生がおっしゃったような、おもしろいことがいっぱいありますよね、子どもを見ていると。何でこんなことをするんだろう、何を意味しているんだろうということで、人間発見みたいな、あるいは自分自身が人間であることを再確認するとか、発見をする場はいっぱいあると思うんですよね。そういうふうに子どもを見ていくと、ものすごくおもしろいと思うんですけど。
汐見: そういうふうに子どもを見るのがトレンディーだという風潮を作り出すことは、不可能じゃないような気がするんです。
無藤: 僕は女子大勤務でしょ。だから教え子にもたくさんお母さんがいて、たまに会うと、「うちの子はこんなことをしましたよ」とか、「教科書どおりです」とか、「そうじゃない」とかいろいろ言いますよ。僕は、育児は楽しいという話をしょっちゅう学校でしていますからね。
丹羽: それが、最初の発見のチャンスなんですね。親は感動しますよ、何ておもしろいんだろうと。それがだんだんつまらなくなってくるというか、そういうのが見えなくなってくるのはなぜだろうなというのは、私がいつも気になっているところなんです。
無藤: どのくらいで見えなくなるんですか。
丹羽: どのくらいなんでしょう……。私のところに赤ちゃんのお母さんから「寝ないんです」って電話がかかってくる。それで「『飲んで寝て、飲んで寝て』と本に書いてあったわけですか」と聞くと、「そうだ」と言うわけです。「じゃあ、それ、いつまで続くんでしょうね。お母さんは夜寝て、昼間起きてるでしょ?」っていうふうな話をしていくと、向こうははっと気がつくわけですよ。ああ、そうかと。人間は、変わっていく存在なんだと。
 こちらが何も言わなくても、そういうやり取りの中で向こうが自分の頭の中でイメージするわけです。そういう勘のよさというか、そこから自分で結論を出していく能力が、赤ちゃんのお母さんのうちは結構あるんですよ。それが、幼児期の親になると、「こうなんです、どのようにしたらよろしいのでしょうか」という質問に変わっていくんですよ。自分の頭を働かすとか、子どもを見ながらはっと気がつくとかいう感度のよさが、だんだん鈍くなっていく。
無藤: そうですねえ。赤ちゃんは毎日のように変化するけれど、年齢が上がれば変化は遅くなります。その意味では、日々新しいと感じることは難しい。ごく素朴に言うと、2歳、3歳を過ぎると、子どもと遊ぶのは結構疲れますね。


2歳児は、みんな天才?
汐見: 漫画家の石坂啓さんが『朝日新聞』にずっと連載していたでしょう?それで、自分の息子のリクオ君というのが登場するんだけれども、2歳のときに、天才じゃないかと思ったというようなことが書いてあって、2歳児って、早期教育にはまりやすいんじゃないかっていうふうにも書いてありました。
 そう言えば、2歳児ってすごい特異な能力を発揮することがありますね。直感力がものすごい。今、中2の息子が2歳のとき、保育園まで車で送り迎えしてた。その間に、前を通る車を見て、「あれ、何ていう車?」って車種を聞くんで、「あれはアコードかな」とか「スカイラインだ」とか言ってるうちに、2か月ぐらいたつと、どの車を見てもわかっちゃう。
丹羽: うちの娘もそうです。
汐見: 僕、それが不思議でしようがなかった。本当かいなと思って、恐る恐る近づいてみると、ちゃんと合ってるんですよ。それで「おまえ、どうしてわかるの」って聞くと、ここだとか適当なことを言っているんだけど、やっぱり直感なのね。それが、4歳になったとき「あの車、何て言うんだ」と言ったら「んなもん、わかるわけ、ないじゃーん」と言ってね(笑)。なんにも覚えてないのね。
 いろいろなカテゴリーだとか、上下だとか、言葉が増えてきたり、ものを分析する装置が多くなってきたりすればするほど、直感的にものを見ることができなくなるのかなあと思ったんだけども……。
 2歳児というのは、まあ、いろいろなタイプがいると思いますが、ものを覚えるのがものすごくおもしろくなるとか、一挙に漢字を覚えちゃったとかいうことがあります。それは僕らが普通使っている知能とはどこか違うような気がする。ただし、すごい能力に見えることがあって、これはチャンスじゃないかと思って早期教育に入りやすいわけですが、子どもを素朴に見ることができなくなって、期待がいっぱい出てきて、それまでのようにおもしろおかしく見えなくなってしまう。こういうときはどうしてやらねばいけないのかという、「ねばならない」みたいなのが出てくる。そういう時期じゃないかという感じがします。
丹羽: そうですね。


情報に頼る現代の子育て
無藤: 少し話題を変えたいんですが、最初に、丹羽さんが早期教育は多様化してきたと言われた。それはある意味で汐見さんの発言のように必然的傾向の部分があります。極端な塾みたいなのは別にしてね。だとすると、家庭なり子どもを囲む環境なりで、いろいろな情報メディアがどんどん入ってくるのは否定しようがないことですよね。歴史的必然になっちゃう。だけど、そのうちどういう部分は子どもにとって肯定的に見ていいかとか、まずいかとか、そのあたり、汐見さん、いかがですか。
汐見: 難しいところですねえ。僕はあんまりいろいろ社会的規制を加えるのは好きじゃなくて、なるようにしかならないという主義者なんだけども。たとえばさっきの、早期教育は乳児よりも胎児からというふうにちょっと行きすぎてきて、その結果、やっぱりコミュニケーション能力をという形にシフトしてきているというのは、かなり自然な動きだという感じがするわけです。
 そのくらい、情報社会というのは、一方で情報の質を吟味し合う勢力を育てている。どちらかというともたれ合いの関係があって、つまり、今の親は育児雑誌が全部なくなれば上手にやれるかというと、ますます不安になってしまう。育児雑誌を読むと、その限りでは、あ、これでいいのかと思いながら、また、不安になったときに、やっぱり育児雑誌に頼らなきゃという循環が続くわけですね。

汐見稔幸氏
 だから、それをばさっと切るわけにはいかなくて、同じ育児雑誌でも、具体的なノウハウを学ぶのではなくて、たとえばさっきの子どもの見方のおもしろさを学び合うというような内容に少しずつシフトしていって、それがいいという形になって、そこに落ち着いていく。僕は、そうなってもらわないといけないと思うし、たぶんそうなっていくんじゃないかとある種の楽観論はあるんですけどね。
無藤: 丹羽さんはどうですか。
丹羽: 私もまあ楽観論のほうなんです。やっぱり今の親たちはすでに少子化時代の人間であって、弟や妹のおむつをかえたり、あやしたりという育児経験をまったく持たないまま、親になってきていますよね。だから、子どもとの関わり方や生活の雰囲気みたいなものを肌で感じて捉えることがなかなかできない。それで、一方に情報はある。情報がないと困っちゃうわけですけれども、そういう中では地に足がついた子育てがしにくい。非常に揺らぎやすい、不安定な子育てをしている。
 そういうところで、子どもと遊ぶときにはこうするといいというような材料が提供されるのは、子育てを考えていく上で1つのヒントになる。その意味で、育児雑誌はそれなりの役割を果たしていると思うんです。


幼児教室が果たす役割
丹羽: それから、親たちに幼児教室に行くのはなぜかと聞きますと、子どものために友達を作ってやらねばならないし、自分自身も友達がほしい。子育てを軸とした、親と子のコミュニケーションの場として、そういうところならば入っていきやすいし、子育ての問題を話せるのではないかという思いがある。
 ですから、幼児教室に行っている親と行っていない親にそのイメージを聞きますと、行ってないほうは塾とか受験とかいう言葉が出てくるんですけれども、行っているほうはそうでもないんですね。もっと楽しいところという感じで行っていますし……。そういうことを求めて行っているわけで、それなりの役割が果たされている。ですから、必ずしも否定されるべきものではないと思うんです。
無藤: その辺、1つは子どもの問題もあるし、もう1つは今おっしゃったような親なり親子が孤立しているという問題があるわけです。
 現代では従来のような集いの場がかなり減ってしまったから、結果的には早期教育というか、幼児教室的なものがその機能を果たしているところはありますね。
 ただ、少なくとも都内の公立幼稚園では1、2歳の子は来ていいコーナーをどんどん作っていってますし、保育園でも、地域の子どもへのサービスをはじめているところもある。
 ですから、これからはいろいろな場ができてくると思いますけれどもね。
汐見: その点については、僕は個人的には幼児教育を義務化したほうがいいと思っています。たとえば、幼稚園、保育園を問わず、3歳以上の教育を国の税金で運営する。もうそのぐらいしないと、育つ環境がそもそもなくなっているわけですからね。もし、本気で子どもを育てる社会を作ろうとしたら、そういう義務化が必要だと思うんです。
無藤: 確かに、孤立した親子はどんな場所でもいいから同じくらいの子どもを抱えた人に会いたいでしょうしね。
 なにしろ、子育てというのは同年齢の子どもがいる人同士でないと話が通じませんから。
丹羽: そうなんです。そのあたりも実は私はちょっと気になるんです。親たちは同じ年齢の子どもを持つ親同士のコミュニケーションを持ちたがるということですよね。
 それともう1つ、親は慣れない育児に取り組んでいるわけで、そうすると、育児から離れたいんですよ。やっぱりどこかで自分を解放する場を持ちたい。けれども、現実には持てない。ある意味で、外にあるお教室が保育施設の役割を果たすわけです。完全に離れていなくても、壁際で見ているんであっても、少し離れていられる。そういう保育施設としての役割も結構大きいと思うんです。
無藤: それに、子どものためだからお金を出せるんでね。自分が遊びたいからじゃ出せない。そういう面はありますよね。それで、遊びたいという欲求はある意味では当然なんですよね、今の時代だったら。


目にみえる目標がほしい!
丹羽: 子育てというのは切れ目がありませんよね。毎日、24時間ずうっと、次の日もその次の日も続いていくということで、大変メリハリのない生活をしてますでしょ?しかも、慣れないことをやっている。ストレスがたまってくるわけですよね。
 そうしますと、親はその中でどうしても何かメリハリをつけたくなるというか、何かしたくなるわけですね。仕事の場合ですと、目標があって、方法論があって、それを実際にやって、結果が出て、そしてそれを評価してというふうなものがだいたいあります。そういうパターンに親のほうは子育てをのっけたくなるわけです。そして、子どもを材料にしながら、それをやってしまう。
 そういういろいろな場が、幼児教育にしても何にしてもあって、親がそれをやって元気を出してしまう。実際、行くと元気になるんですよ。目標ができますからね。あそこに行って、今日これができるようになったと。
無藤: ああ、なるほど。
丹羽: 変なところで元気を出しちゃうわけです。お教室なり何なりが、それを後押しするのではなくて、やっぱり親もそこで学んでいけるような場、親も親として子どもを育てていくとはどういうことなのかを学んでいけるような場になるのであればいいと思うんですけれども、どうも。必ずしもそうなってはいないようです。
無藤: 今、ご指摘になったことは大事ですね。早期教育というか、塾的なものに夢中になっている親をつい非難しちゃうけれども、同時に、その親たちは親たちなりに一生懸命、子どものために尽くそうと思って、それがそういう非常にわかりやすいところに突っ走っちゃうということでしょう?
丹羽: 非常にわかりやすいですよね。だからいいんだと思うんですよ、親にとっては。
無藤: 確かに成果は上がりますよね。
丹羽: うまくいかなかったら、私のここが悪かったのかもしれないと反省なんぞしちゃって、またがんばっちゃうわけです。
無藤: だから、そういう親たちがだめだよというだけじゃだめで、やっぱりそれにかわる場、そこまでがんばらなくてもいいけれども、子どものために何かやりたい欲求が実現する場はいるでしょうねぇ。うーむ。子どもと楽しく遊んだらよさそうだが、そういう漠然としたアドバイスでは意味がないでしょうね。
丹羽: やっぱり親が楽しく遊ぶ場というのも隣に用意しておかなければね(笑)。


早期教育に期待すること
無藤: それでは最後に、早期教育はどうあるべきかでもいいし、どう期待したいかでもいいし……。丹羽さんからどうでしょう。
丹羽: あんまり、どうあるべきかというのはないんですけれどもね。今の早期教育を全面肯定も全面否定もしません。やっぱり時代とともに早期教育のありようも変わっていくと思うんです。これからは、上のほうからだんだん教育の姿が変わっていき、それが幼児教育のあたりにも影響してくると思います。
 それから、今の親たちは知識蓄積型の教育を受けてきたから、それをやることに未来があると思い込んでいますけれども、それがだんだん、子どもが育っていく過程で、どうもそうじゃないらしいということになっていくと思います。子ども自身がやっぱりそこからはみ出していくと思うんですよね。そういう発達のエネルギーというか、自分はこっちへ行きたいんだ、こういうふうに伸びたいんだという子ども自身の発達のエネルギーで打ち破っていく。これまでの歴史もそうだったのではないかと思うんです。そういう意味では、これから先も子ども自身が変わっていくという中で、そんなに不安を抱いていないということですけれども。
無藤: 汐見さんは?
汐見: 早期教育に期待されているものの1つに「すぐに目に見える目標」というのがありますが、その積み重ねだけでは育たないものの中にこそ、非常に大事なものがある。そういう常識みたいなものを親にどのように理解してもらうか。その社会的な配慮というか戦略が必要ではないかと思います。
 たとえば、幼稚園の経営者もその辺で悩んでいるわけです。元気で活発に毎日一生懸命遊んで帰ってくるときに、何が育っているのか、よくわからないというのが親の中にある。はっきりと、文字が全部書けるようになったとか、こんな曲が吹けるようになったということになると、親も何か安心していられる。すると、やっぱり昔風のやり方を大事にしている園がだんだん元気がなくなっている。
 だから幼児教育に携わる人たちにとっては、親に本当に大事なものは何かをわからせる力、理解させる力が今、1番大事だと思いますね。
 そして、早期教育のあり方も、子どもと親にどういう影響を与えているのかということがまじめに論議される場をなんとか作っていかないと、野放しではまずいと思います。
 早期教育を含めた幼児教育そのものを、もっと国民の力で質のいいものにしていく努力を本格的にしなければいけない時期にきているという感じが僕はするんです。
無藤: では最後に私からも一言。早期教育というのはある意味ではいいことであってね。つまり乳幼児の発達とか教育に真剣な関心を持っている証ではあるわけですし、ある程度お金をかけるというのもいいことだと思うんです。ただ、極端なものは別として、ごく普通のレベルのものは、それほどいいことも悪いこともないと思います、長時間やらない限りはね。でも、要するに生活全体をある意味で豊かにしていることは確かです。
 ただ、少なくとも現状の早期教育の大部分は先ほどから出ている特殊な方向のみが非常に強調されてきて、やっぱり子どもにとっては大事な別の部分が欠けている。たとえば動植物に触れさせる早期教育っていうのはあまりないですからね。あるいは、遊び塾みたいな、アイデアはあるでしょうけれども、実体はまだあまりない。だから、そういうのがいろいろと出てこなきゃいけない。できれば、国なり公共団体のお金で行われるのがいいと思いますけれども。
 それからもう1つ、幼児というのは、いくら社会が変わっても、根本的なところはそう変われないものだと思うんです。やっぱり未熟である。つまりああいう小さい体で触れる範囲で生きている。そして、具体的に触れるとか見られるとかいう部分には、変わらざるものがある。それは人間の体を使ったつき合いみたいな部分ですよね。大事なのはそこを忘れないことだと思います。

(しおみ・としゆき   教育学)
(にわ・ようこ  育児文化研究)
(むとう・たかし  発達心理学)

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