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親子の友達関係は成立するのか?

斎藤学×松本侑壬子×山田昌弘


いるようでいない友達親子
−− 友達親子という言葉からどんなイメージを受けられるか、その辺りからお一人ずつお話しいただければと思います。
山田: 友達親子の友達というのは、まあ、プラスのイメージとしては、仲がいいとか、親しいとか、何でも話せるとか、そういう心理的親密さを言うのかなとも思いますが、心理的親密さを言うのだったら、親子としての親密さでいいわけだから、わざわざ友達と呼ばなくてもいい。それをあえて友達と呼ぶのは、悪く言ってしまえば、友達だったらいつでもやめられるし、なしにできるという意味で、責任がないというのがあるのかと思います。それから、いい意味で言えば、対等性があると思うんですよ。どっちが偉くてどっちが偉くないという関係ではなくて、お互いが対等である。
山田昌弘氏
 その両方の意味が友達親子の中には含まれているので、世間の評価も、「ああ、あれはマイホームで、平等で対等な立場で一緒に楽しんでいる」というふうにもなれば、「いや、親としての責任を放棄してしまっている」というイメージも出てくる。現実にはたぶん、両方があるんだとは思うんですけれども、それが一緒くたに語られているというのが、私が一つ気づいた点です。
 あと、親も子どもと一緒になって遊びたいのかなという気がしますね。親も家族の中では子どもに返りたい、子どもと一緒になって子どもとして遊びたいというのがあって、それがいい意味で出ると友達親子になるのかなという気がします。
斎藤: 私は基本的には、今の子どもたちは、少子化時代の中で、そんなに親とは友達になってはいないと思うんですよ。言葉として意識的に語られたりはしてないんだけれども、親に対して「うまく期待が実現できなくて申し訳ない」なんて思っている子どもが多いんだよね。
 つまり、少子化時代の子どもというのは、親の慎重な人生タクティクスの中で生まれてきますよね。若い親たちは、あれもやってこれもやって、そろそろ一人ぐらいというわけでしょう。いつですか、いつですかみたいに期待されながら、今の子どもは生まれてくる。生む親の方も「今だ」と思って生む。そうすると、子どものほうは、生まれた途端に親の人生設計の中に組み込まれているんだから、容易なことじゃない。なかなか友達どころじゃないんじゃないか。
 確かに、親の側には、親が子どもをつくるときのいくつかの期待の一つとして「大きくなったら、お友達みたいにお話ができるように、……」というのがあるでしょうね。
 親の側で友達親子を期待しているけれども、期待される子どもの方はたまったものじゃない。親には、してもらうことはいっぱいあるんだから。「すね」を太くしておけと、子どもの要求はそれだけですよね。しっかりした、がっちりした「すね」、ジュースのいっぱい入った「すね」、それをかじって生きるのが子どもの権利であるし、義務でさえある。「親が生きているうちは働くな」というのが、私が患者たちに言っていることなんです。しっかりすねをかじって離すなと(笑)。
松本: 友達親子という言葉を最初に聞いたときには「あ、いっぱいいる」と思ったんですよね、直観的には。だけど、こうやって討論してみようと思って、もうちょっと一歩突っ込んで考えてみますと、意外に実像がぼやけてしまうんですよ。例えばテレビの洗剤のコマーシャルで、友達夫婦の若いカップルがスキップしてると、それを見て、じいさん、ばあさんもまた踊るというのがありますよね。ぱっと浮かぶのは、ああいう仲よし親子というイメージです。
 じゃあ実際にはどうなのかなあと考えてみますと、女性の場合だと、まずショッピングに一緒に行く。娘とそっくりにはできないけれども、ファッションの一部を共有することはできる。スカートのような下半身の衣服はとても一緒にはできませんけれど、上半身のものだったら共有できますから、セーターだけをちょっと交換してみる、バッグをちょっと借り合ってみるという楽しみがある。
 それから、一緒に御飯を食べに行く。ロック系のコンサートもおばさん一人では行けないけど、ヤングについていけば行ける。不況とはいえ、親の方は経済的にリッチだと思いますから、そういう消費生活の中では、友達風の形をとることが昔よりはあると思うんですね。
 だけど、日々の暮らしや育っていく中で、人生のいろんなシリアスな問題にぶち当たったとき、本当に友達として、責任を分け合って平等でいられるかというと、全然そんなことはなくて、やっぱり、一皮むけば昔と同じ、厳然たる親と子という上下関係があるんじゃないかと思うんですよ。一定の年齢までは。


親の無意識に潜む子どもへの嫉妬
斎藤: 私は、今まで見過ごされてきてそろそろはっきりさせなくちゃいけないのが、親の子に対する嫉妬だろうと思うんです。
 嫉妬というのは、水平の関係の中で問題になるわけですね。例えば、A子が好きで、A子にBさんというボーイフレンドがいるから嫉妬の感情がわくというのが普通ですよね。しかし、親もしょっちゅう子どもに嫉妬していますよ。つまり、嫉妬というのはネガティブな感情だけれども、そこに水平の関係がまじっていると取るのなら、それも友達親子の一つの現象かもしれません。
 とくに「毒リンゴを食わす母」という言い方で私が言ってるような、白雪姫に出てくる女王様のようなお母さん−−そういう毒リンゴ母が、このごろどんどん増えています。結構、四十、五十でも美女に属する人がいますから、美女系の人の娘をやっている子どもは大変ですね。

斉藤 学氏
 まあ、そういうのは、おとぎ話になるくらいだから、昔から分かっていたけれども、それ以外に、男の親が、自分で金を出してあげている子どもの学歴に嫉妬する。子どもが学校へ行っていろいろ失敗したり、どうももう一つ物にならないなというときには、よく嫉妬の問題を読み過ごしていることがあるんです。個人の問題にしないで、親と子のコンテクストの中で何が起こっているのかというふうに見ないと、その人のやっていることが見えなくなったりすることがありますね。
松本: 自分の体験から、斎藤さんの今の嫉妬説には実に興味があるんですね。私は、意識しては娘に嫉妬したことがないし、母親に嫉妬された記憶もないんですよ。そのかわりに、私は母親の夢の代行者だった部分が非常にあったと思うんですね。
 私の親の世代では大体共通してますけれども、不自由な世間のモラルに見張られていて、大家族の中でずっと人の世話ばっかりしたような世代ですよね。私は田舎の生まれ育ちですけれども、その世代は、娘には、東京に出て大学に行って、できたらボーイフレンドもたくさんつくってほしいとか、知らない外国旅行もしてほしいと思っている。それは母にとってみれば、うらやましいことではなくて、自分ができなかったことをやってくれてる、もしくは自分の夢をかわりにやってくれてる、そういうもんだと私は受け取ってたんです。
斎藤: それはむしろ当たり前のことで、表面的にはそう見えることが多い。だけど……。
松本: 一皮むくと?
斎藤: まあ、すべてがというんじゃないけど、実は、そうやって娘なり息子なりに夢を託すのは、分身としての意味があるわけだけれども、それと同時に、分身がどんどん自分から離れて遠くに行くことに対してのさびしさだとか、もっと言えば怒りみたいなものもある。それは、ほとんど感じられないんだけれども、それを今度は息子や娘が無意識レベルで受け取ってというようなやりとりを考えた方が問題がはっきりすることがありますね。
松本: なるほど……。
山田: その場合には、世代というか時代の問題がかかわってきますか。自分も今なら(子どもたちのように)できたはずなのにとか……。
斎藤: それは意識化されてますね。よく言われる「今の人はいいなあ」というせりふは、既にその問題にちょっと踏み込んでいますよ。


親子を個別化する生物的プロセス
−− なるべく早く自立させたいから対等な関係をとっているんだ、だから何でも話し合うし、きちんと大人扱いをしているという親も増えていますよね。
斎藤: 一種のしつけとして仲よくするんですか? そういう話だと、いわゆるインディビデュエーション、個別化の問題になるわけです。そして「個別化」に対応する言葉は「融合」なんですよ。
 例えば、日本社会に多い情緒的な近親姦なんてのは、融合の問題になるわけです。その融合が、いつかはどうしたって切れて個別化する。融合したまま思春期を迎えたら、困ったことになっちゃいますから、母から離れないといけないという力が働いて、個別化のプロセスが始まるわけです。これは女の子も男の子も同じだと思います。
 そういう自然の流れが個別化を導くのであって、我々人間が普通に生物学的に持っているプロセスを無視して、いくら個別化した個人として対等につき合おうなんていっても、それは無理ですよ。
 じゃあ、どこでその融合が切れていくかといったら、やっぱり思春期ですね。学童期−−基本的には十歳以後ですけれども、もう七、八歳以後はセクシュアルドライブの影響を受けていると思った方がいいですね。小学校五、六年になったら、男の子だったら、何かお母さんがうっとうしく見えたりするし、女の子だったら、お父さんが汚く見えるんですよ。お父さんが触ったものは触らないとか、ちょっと箸をつけたものは絶対食べないとか。それがないと健康とは言えない。
 そうなって離れていった子どもならば、ちょっとその大人の部分を見て、つまり、個別化していく子どものその部分を尊重して、今までの呼称を変える。例えば「いっちゃん」なんて言ってたのを「一郎君」なんていう言い方に変えるとか、「一郎君はもう紳士だもんね」と言って、あたかも疑似的なボーイフレンドみたいなつき合い方をする。
 それは何をしているのかというと、その子が自分から離れていくことで生じる親子のすき間を認めていく−−母の側から言うと、だんだん捨てられていくという話ですね。だから、喜んで捨てられていくという方へ行けばいいけれども、いつまでも「いっちゃん、いっちゃん」とやろうとすると、融合の方へ行っちゃうという話でしょうね。
 ところで、現代流の個別化の文脈で行けば、この友達親子というのは、割といい親別れ、子別れをしようとしていると言えるのかな。
山田: いや、それが逆に……。
松本: 危ない(笑)。
山田: 母親は、うっとうしがられているんだから、その埋め合わせをと思って、逆に友達として近づきたいと思うとか……。
斎藤: そういうのはだめだな(笑)。


親を嫌悪する思春期の健全さ
松本: 自立が必要な、思春期のあたりになったころの子どもは、お父さんのことを「あの人」と言ったり、お母さんに向かって「あんた」と言ったりしますよね。それまで「お父さん」、「お母さん」と言ってた人が、対等な物言いを始めた、大体けんかのときにそういう言い方をする。私も娘に、彼女が高校ぐらいになったときに「あなたは……」と言われて、ぎくっとしたことがありますけど、それが、外から見て分かる一つの発達段階の時期なのかなと思うんですね。
 だから、親が子どもに「〜君」と言って語りかける幼児の時期から、ある一定段階を経て、今度は娘なり息子なりが「あんた」と親に言うまでの間が、親子が友情かどうか問題にすべき時期なのかなあと思うんです。
斎藤: 男の子なんか、とくにそうだけど、親に対する呼称を一度失うでしょ。「ママ」とは言えないし、「お母さん」も嫌でね。友達に向かっては「うちのばばあ」なんて言ってて、うちへ帰ってくると、「うー」とか「おー」とか言う。
松本: そうですね。呼称は一つの目印になりますね。
斎藤: 要するに、自分の中で親への愛着みたいなものがだんだん撤収されて、今度はリビドーが自分の方に向かうんですよね。そしてすごく自己愛的になってくる。そこで何が起こるかというと、だんだん親がちっちゃくなって、しなびて、醜くなって、ばかに見えてくる。そういう時期に入るわけですよ。
松本: 親がダサく思えるのね。
斎藤: ここでなおかつ、いい友達でいられるなんてのは、よっぽどかっこいい、子どもがほれぼれとするような親じゃないとね。
松本: だけど、そこがまた難しくって、あんまり偉大な、かっこよ過ぎる親だと、今度は自分がその親をしのごうとするときに、しのぎ切れないから、それはまた打撃なんじゃないんですか。
斎藤: 美女系の母の娘が大変だというのは、それなんですよね。変にひがみっぽくなったりする。
松本: だから、お母さんが有名人で、すごい美人で、よく仕事ができて、かっこよくてという人のお嬢さんは、幸せかと思うと、案外、気の毒というか、つらいものがあるんじゃないかなと。
斎藤: その意味では、親子で仲よくするというのは、すごく難しい。
松本: 大変なことだと思います。
斎藤: だからこそ、目立つから、友達親子なんて言われるのかもしれない。
山田: でも、日本の母・娘がけっこう仲がいいというのは、昔からの定説としてありましたよね。現実に結婚してからも……。
斎藤: 私に言わせれば、融合が続いていて、十分に個別化が発達していない、発達が遅れてるわけですよ。自分は母の心のひだひだまでわかっている気になっている娘と、娘を自分の指の先ぐらいに考えている母とが一緒になって、それが、つるんで歩いているのはいくらでもあるわけです。
山田: ですが、母・娘関係の共依存は昔から悪いとはされなかったんですよね。
斎藤: だから、悪いことにしようじゃないかと、私なんかは言っているわけですよ(笑)。
松本: でも、当事者としてはすごい居心地がいいんですよ。これほど居心地のいいものはない。だって、分身みたいなものだから、何の気配りもしなくていいし、一人よりは二人の方が安心だし、趣味も合ってる。何の説明をする必要もないしね。死ぬまでそのまんまでいたら、とても居心地がよくて、楽。
山田: そして親が亡くなると、今度は自分の娘に依存するようになってというふうに、うまく回っていると言えば回っているんじゃないんですか。
松本: 母系的な仲のよさ。
斎藤: だけど、それじゃあね。だって、母の心のひだを読めるような状態、お母さんが何考えているか分かるという形で娘を取り込むときのお母さんの手段というのは、深いため息なんだから。
松本: うわーっ。
斎藤: 「お母さん、どうしたの?」と聞かれると、「実はね……」と言って、「姑がこんなことをする」、「おばあちゃんはこんなにひどいのよ」という形で巻き込んでいくわけだから、これをずうっとやっていくと、娘はあるとき、母を恨むようになるんですよ。「私の人生を取った」とか言ってね。
松本: 居心地がいいから、とめどもなく行くんだけれども、とめどもなく行っている間に何か浸食されて失っているんですね、実は。多分、それは娘の側の自主性というか、自立性というか。


個別化を経て大人同士の関係へ
−− 昔ながらの家族、親子関係を強制されていたら、女性は働く立場には立てなかった。働く女性たちが友達的な関係をつくってきた、これは自分たちが獲得してきた親子関係だという言い方もあるんですけれども、どうでしょうか。
斎藤: 外に稼ぎに行くことが、どうして子どもと友達ってことになるの?
山田: 子どもにかかりきりになれない。支配できないという意味でしょうね。
松本: まあ、私も働きながら子どもを育てました。自分が外で働いている間は預けなくちゃいけないから、保育所か保育ママさんか、ともかく他人の手にゆだねるわけですけど、私はゆだねてよかったって思うんですね。それは親子の関係が友達っぽくなるというよりも、子どもが他人に預けられて、一つの規律の中で対人関係を否応なしに覚えていくからなんです。
 預けるのですから当然かわいがる時間は専業主婦よりも短くなるわけですけど、友愛的な関係をつくって無理に償うと考えるのではなくて、むしろくっきりと上下関係というか、役割分担をして、親と子とは違うものだというふうに自覚し合う必要があると思うんです。
 つまり、「責任は誰がとるの?」というと、責任をとるのは親ですよ。それが分かった上で働いているわけで、言葉は友達親子でいいんですけれど、実体としては、やっぱり上下関係でないといけない。
 友達は責任の関係がフィフティー・フィフティーですけど、私はやっぱりそうじゃなくて母親に責任があると思うんです。その関係の中で、子どもには、人にべったりくっつくのではなくて、自立していってもらいたいと思うんですけど。

松本侑壬子氏
斎藤: 例えば、外へ出ていくお母さんを見て、子どもが「きょうのお母さんのコスチュームはすてきだよ」と言い、そう言われて「ありがとう」というのは、大人同士の会話に似ているけれども、それは表面的なところであって、基本的には稼いでいる人と養われている人との対立項はあるわけですね。そこが分からないような関係というのは、単なる演技というか偽善だな。まあ、偽善と言うのはおかしいかな、善でも何でもないからね。かつての上下の関係を嫌うあまりに、何かそういうところを曖昧化しちゃうというのは、よくないでしょうね。
 思春期は親離れ、どんどん外へ出ていくことが健康なことでしょ。親離れが健康なんだから、二人で一緒にどこへでも行っちゃ困るわけです。
山田: だけど、親の方には、離したくないというのもあるんでしょうね。
松本: そう。親の方は一番安心だし、本当に居心地がいいんですよね。それから、子どもさんも、お母さんだったら、いじめられないし、まったく間違いがないと思っている。
斎藤: 社会化が途中で挫折して、うちに閉じこもるほどではないけれども、閉じこもりの一歩手前の状態なんじゃないんですか、親と仲がいいなんていう子は。そこまで言うと言い過ぎかな。
山田: 逆に、斎藤先生が最初におっしゃったように、親に申し訳ないと思っていて、「親につき合ってあげようか」ということになる。しかも、「親のほうは合わせてくれるし、居心地もいい」と。そういうことはないでしょうかねえ。
斎藤: 「申し訳ない」の方は閉じこもりにつながるんですよね。親の方の学校に対するブランド志向が強かったりすると、さっき親の心のひだが見えるという言い方をしたけれども、男の子だって女の子だって何を期待されているか、わかるものだから、それなりに頑張るんですけれど、十人いれば九人は挫折するわけでしょ。そこら辺で、申し訳ないというのが出てくる。
 そして、そのことが言葉に出ないで、「なぜ産んだ」の方になってきちゃうとまずいことになるんですが、その中間段階の子がいっぱいいるわけですね。どこかで「申し訳ない」なんて気分があると、そういう子は、自分の同世代との友人関係があんまりうまくいっていないから、どうしても閉じこもりがちになる。
山田: でも、親の方としても子どもを手放したくない。というか、もうずっと自立しなくてもいいと思う親も多いと思うんです。とくに母・娘の場合には。
松本: 友達という言葉の定義になってくるかもしれないけれども、友達には「助け合わない」というのもあるんですね。危機に際して助け合わないのが友達だという、逆説的な言い方もある。それはつまり、それだけその人の自立性を尊重しているんだという言い方だと思うんです。
 そうすると、血を分けた娘や息子であっても、それが外で恋人をつくろうが、失恋しようが、失業しようが、誘惑しようが、奮闘している、頑張っているのをこちらから−−縁を切るということではなくて−−離れながらも見ているというか、祈っている。そういう形の友情もあると思うんですね、友達としては。
 友達だからいつもくっついている、金魚のウンコみたいにトイレにも手をつないで行くような女の子がいますけれども、だから、友達だというんじゃなくて、離れていても自立した関係で幸せを祈るという友達もあると思うんです。
斎藤: それは大人の関係ですね。そうなったら、完璧な大人の友達だな。
松本: そういう親子関係になっていくことをめざす。タンポポの綿毛が飛んでいって、また新しいところで芽を出していくような。
山田: そうすると、親子はそういう関係になったとして、親しいというか、いつも何でも話せるような関係は、やはり夫婦で確保しておくんでしょうか。
松本: そうなんでしょうね、結局のところは。あるいは夫婦じゃなくて、やっぱり一人で……。
山田: あるいは夫婦じゃない友達ととか。
斎藤: その場合は、ボーイフレンド、ガールフレンドの関係だから、世代が、二、三十年違ってたっていいし、何人持っていたって構わないんですけど、子と親との関係はそれとはまったく違う。親子の縦の関係と男女の横の関係とは絶対にまじっちゃいけないということでしょうね。
松本: 私もそう思う。
斎藤: そんなところかな。

(さいとう・さとる 精神分析)
(まつもと・ゆみこ ジャーナリスト)
(やまだ・まさひろ 家族社会学)

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