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科学離れとは何か
筑波大学構造工学系助教授  岩田洋夫

 科目としての理科が嫌いな子が多いなど、昨今の子どもの科学離れはさまざまな現象として観察されている。それらの科学離れを象徴する現象の直接的な原因を列挙することは可能であろうが、その背景には近代科学技術の枠組みそのものがもっている構造的問題が存在する。構造的問題とは、科学の方法論が対象とする系から人間という存在を切り離して考えることを前提にしているところにある。近代科学はそのような「非人間的」な手法によって長足の進歩を遂げてきたとともに、そのことで閉塞状況を迎えつつもある。

 岩田氏が専門とする工学の世界でも、オウム真理教事件に代表されるようにコンパートメント化された学問体系のもつ弊害が顕在化しているという。今日の科学技術者はおそろしく細分化された領域内での活動を強いられ、科学技術を社会や文化のなかに位置づける機会を喪失している。科学技術の作り出したものが人間生活のなかでどのようにあらねばならないか、という問題に対して解答が出せるように工学の世界は自己変革を迫られているという。

 これからどのようにして科学離れに取り組んでいくかということを考えるにあたって、氏は二つのポイントを指摘する。第一点は科学のおもしろさに魅せられた人の感動と情熱をどうやって人々に伝えていくのかである。第二点は科学技術の基本方法そのものを変えて人間復興をしようとするものである。氏が手がけているヴァーチャルリアリティという研究領域は、近代科学が人間を系の外に追いだしたのに対して、人間を系のなかに含めてその意義をじかに感じることができるようにしようというもので、後者の試みの一つの典型である。


科学技術離れの文明論的文脈
電気通信大学大学院情報システム学研究科助教授  小林信一

 「・・・・・純粋科学の研究室が今や学生をひきつける魅力を失い始めているのだ。しかもそれが、産業が最高の発達段階に達し、人々が科学によって創り出された器具や薬品の使用に今まで以上の意欲を示しているときに起きているのである(『大衆の反逆』より)」

 小林氏は、スペインの哲学者オルテガ・イガセットの著作の一節を引用して、一九二○年代末にも若者の科学離れがあったことを指摘する。大恐慌前の約半世紀は、大量生産、大量消費のアメリカン・ウェイ・オブ・ライフが宣伝され、資本主義の一番華やかな時代であり、科学技術にとっても、創意工夫が産業化を通じて速やかに社会的影響力をもてた幸福な時代だった。それにもかかわらず若者の科学離れが起きたというのである。

 一九二○年代の科学離れが今日のそれと共通するのは、物質文明、とくにそれを支える科学技術文明が高度に発達したときに、科学技術を志す若者がかえって減少する、という点である。氏は、若者の科学離れは、かなりの地域的な広がりで、歴史的に繰り返される現象だと考える方が妥当だという。

 そうした現象が起こる理由を考察する上で、氏はオルテガの「文明社会の野蛮人」という概念を参考にしている。「文明社会の野蛮人」とは、科学技術活動に対する関心は低いが、科学技術活動の成果物に対する受容性は高いといった態度をもつ者を指している。科学技術が急激に発達する時代には、「文明社会の野蛮人」が増え、科学技術活動への参入意欲は低下することになるという。

 しかし、現代の日本はオルテガの時代と共通する条件が整っているが、そのことは一概に悪いことだとは言えないという。科学離れ現象は科学の滅亡を表しているというよりも、科学の変質の予兆であり、ある意味では文明の健全さの表れでもあるという。


新しい時代の科学教育
大阪大学理学部教授  池内 了

 池内氏はオウム騒動を見ているうちに、大学での科学教育の欠陥を痛感したことがあるという。科学の訓練を受けたものが、なぜかくも単純にマインド・コントロールを受けてしまったのかを考えていくと、それはつまり私たち科学者自身の問題であると思い至ったというのだ。

 科学の力で社会を発展させるという論理が建前として強調されつつ、本心では科学への信頼感が醒めており、その妥協として、科学がたんなる手先の技術−机の上で数式を解く技術−となっている。自ら学んでいる科学と現実の自然が切り離され、科学が近くにあるようでいて、遠い存在になってしまっている。氏は現代の科学の問題点を、「技術化」というキーワードで説明する。

 私たちは科学の「発展」と「技術化」を混同しがちであるが、氏はその二つを整然と区別する。科学の技術化が組織的に進められ、ますます加速されている現状に、私たちは否応なく巻き込まれているが、それは科学そのものの発展とイコールではないという。巨大化しすぎた技術に人間が使われていくような構造が生まれた場合には、技術化を停止させることも可能であるという考え方を示唆する。

 より大きく、より速く、より大量にという価値観に支配された技術化は、日常の感覚と結びついた身近な科学の存在を忘れさせてしまっている。いきいきとした好奇心で自然を眺めればいかに不思議に満ちているか。そのような実感をこそ、これからの科学教育の基本に据えるべきではないのか。また、時代もそのような科学の変容を求めていることを、氏は強調する。


情報化社会と新しい科学マインドの生成
東北芸術工科大学助教授  竹村真一

 竹村氏は、インターネット、マルチメディアなどの情報テクノロジーがもたらす新たな世界経験の可能性と、それに対する子どもたちのいきいきとした反応に、情報化時代の新たな「科学マインド」の萌芽を見ている。

 メディアの発達は、「経験」を「情報」へと代替することによって、ともすれば私たちの世界経験を浅薄なものにしてしまっていた。しかし、ポストモダンのメディアがもたらす新しいかたちの世界経験は、不当に分断されてきた「科学」と「日常性」あるいは「テクノロジー」と「美的・感覚的経験」を再び結び合わせることを可能にするという。

 氏は、現代のメディアの発達が、いまある臨界点を超え、「情報」の進化を通じて、「経験」の進化をもたらし得る段階に入りつつあると見なしている。それはリアルタイムの共時的な広がりだけではなく、通時的な方向にも延長されている。つまり、過去二千年〜二億/二十億といったスケールでの地球や生命の歴史が情報的に検索・編集され、一つのドラマとして可視化され得るという。

 また、そのような「地球の自己認識」は、ひるがえって私たち自身−つまり「生命」と「人間」に関する物語も提供するという。最先端の情報解析技術に裏づけられた生命科学のフロンティアは、まったく新たな生命観/人間観を私たちに突きつけている。それらは、私たちの価値観や行動様式・制度に直接影響を与える多くの哲学的/社会学的な示唆をはらんでいるという。

 本稿の結論は、「科学離れなどとんでもない! 『科学』が私たち自身とこの地球の自己認識の重要な回路として再び浮上し、人間とその世界がこれほどおもしろく見えてきた時代はない」である。


最先端から子どもの好奇心を刺激する
生命誌研究館副館長  中村桂子

 子どもたちに科学を伝えていく方法はいろいろあるだろうが、科学の専門性にこだわらずに、楽しませながら科学に親しませていこうという動きが目立っている。しかし、中村氏は、そんな風潮に対して、むしろ科学の専門性にこだわったほうが科学のおもしろさは伝わるという立場をとっている。そして科学に夢中になっている科学者が、どんな問題にどんな好奇心のもとに取り組んでいるかを伝えることがもっとも大事だという。

 科学者たちが夢中になっているものとは、つまり最先端の研究ということである。一般的に最先端は難しいと思われている。大人にも難しいのだから、ましてや子どもにはと思ってしまう。しかし、氏は最前線で研究されていることが一番おもしろさをもっていて、それを伝える方が好奇心豊かな子どもの興味をより高められると考えている。

 というのも、分かっていることを教えると、答えを教えることになるが、今やりつつあることを教えるのは疑問を教えることになるからだ。子どもは答えを教えてもらうよりも、疑問を教えてもらう方がよっぽどおもしろい。問いを投げかければ、それが学問的にどうであるかに関わりなく、ともかく自分で考えることができる。しかも専門家といわれる人と自分が同じことを考えていると思うのだから、子どもの興味はさらに高まる。

 しかし、問いが子どもたちを刺激するといっても、「人生とはなんぞや」というようなむやみに大きな問いを並べてみても、それは科学的な問いと呼ぶことはできない。科学は絶対の真理を一度に知ろうとするものではなく、新たな問いを次々に生み出していくものである。優秀な科学者とは、限られた方法のなかで論理を積み重ね、考える力を刺激する上手な問いを発する人だと、氏は強調する。

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