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−対 談−
未来のアトムは子どもを超えるのか?
小林 登×田近伸和

手塚治虫は、鉄腕アトムの誕生日を2003年4月7日としていた。もちろん、それはマンガの中の話でしかない。しかし、最近の日本のロボットたちは、ときにアトムを思わせる高度なパフォーマンスを見せてくれる。人間並みの知性と感情をもったロボットの創造。それはただの夢幻なのか。今回は『未来のアトム』という著作で、ロボットの意味を改めて問い直した田近伸和さんとともに、ロボット研究が子ども学に与える意味について考えていきたい。

1  知能は身体を必要とする
司会 今回なぜCRNがロボットをテーマに取り上げたのかというと、まず、ロボットの研究者たちが、人間との対比によって発達や学習というものを探究し始めていて、その考え方が子ども理解に影響を与えつつあるということがあります。また、ロボットは次代を担う産業であり、教育ロボットやペット・ロボットのように子どもにとっても身近な存在になっていくだろうということもあります。今回はそのような未来的視点から、ロボット研究と子ども学との重なり合う部分について論じていただこうと思っています。
田近 ロボットというと、もちろん日本だけではなくて、アメリカなどでも研究しているのですが、日本の特徴はホンダのASIMOなどに代表されるような人間型、ヒューマノイド・ロボットを作るのがさかんだということです。
 その科学的意味合い、哲学的意味合いを追究するというのが『未来のアトム』のモチーフなのですが、ロボット研究の先端にいる中核的なロボット工学者というのは、私とちょうど同じぐらいの四十代後半であって、彼らになぜそういう研究を目指したのか聞きますと、「鉄腕アトム」の影響が大きいんです。あのマンガをリアルタイムで読んでいて、それで「鉄腕アトム」みたいなヒューマノイドを作ってみたい、それが自分の夢だったと言うのです。
 ところで、日本のロボット研究者が必然的に向かわざるを得ず、私も一番関心を持っているのは、「ロボットを通して人間とは何かを考える」ということです。ロボットを実際に作り込むことによって人間の知能や情動、さらに言ってしまえば意識とか心とかいうものを射程に入れながら、その発生のメカニズムを探る。ロボットを通して人間を見つめていくということです。
 私は取材していくうちに、なぜヒューマノイド・ロボット――つまり人間に近い形をしたロボットが必要なのかという事情がよくわかってきました。ロボットアームのような機械的なものではなく、惑星探査のための例えば車輪型の機能的なロボットでもなく、なぜ人間そっくりに似せるのかという問題は、いわゆる人工知能の限界という問題と非常にリンクしているんです。
 コンピュータは計算力には長けていますけど、自分が何をしているかという意識は全然ない。自己を意識するようなコンピュータはまだ作られていません。そういうときに、研究者たちは結局ソフトウエアとして知能を発生できるのかという原理的な問題に突き当たったんだろうと思うんです。
   ところで、人間の理解というものを考えてみますと、それは身体をベースとしています。例えば、コーヒーを理解するのに、コーヒーを一度も飲んだことがなくて辞書的知識だけでコーヒーを理解することは不可能だと思うんです。実際にコーヒーに手を延ばして、口に持ってきてコーヒーを飲んで、その香りや味わいを感じる。そして、コーヒーが何かということを必ずしも言語化できない、明示化できないけれども、そうすることによって身体で感知しうる。それが理解力の源泉じゃないかと思うんです。
 科学思想家のマイケル・ポランニーという人は、そのような身体的な理解に依拠した「知」を暗黙知と言いました。なぜヒューマノイド・ロボットなのかということはそのこととも関係していて、やはり人間並みの知能をロボットに発現させるには人間のような五体からもたらされる暗黙知――つまり人間的な身体が必要なのではないかというわけです。仮説といえば仮説ですが、説得力があります。
小林 神経学の研究の歴史を私なりに勉強した範囲内で申し上げると、70年代にJ・Z・ヤングという人が脳の機能をシステム・情報論的に見るという発想をしました。まさにそれはロボットと対比しながら見るということです。彼は『PROGRAMS OF THE BRAIN(脳のプログラム)』という本を書きましたが、そこには、人間の脳の中にはいろいろなプログラムがあるとあります。
 意識なんていうのは、それこそ哲学のテーマになるし、心理学や精神医学のテーマになるくらいの問題だからなかなか難しいけれど、要するにプログラムが動いているということを実感できるかどうかというのが意識のメカニズムじゃないかと、私は思っているんです。そうすると、人間に近い知能を生み出すためには、人工知能のプログラムが動いていることを情報化するシステムがあればそれでいいように思うのですけどね。
田近 そういう考えは一方において確かにあります。アメリカの人工知能の親分的存在であるミンスキーをはじめ、知能が一種のソフトウエア、プログラムとして実現できるのではないかという考え方を根強く持っている研究者たちが、依然としているわけです。身体がなくても人工知能はちゃんとできるんだと。
 しかし、それはできないと主張する研究者もいます。理解には身体というものがやっぱり必要なんだと。そういうことをMIT(マサチューセッツ工科大学)のロドニー・ブルックスという人が唱えて、日本のロボット研究者はわりとその影響を強く受けています。人工知能をプログラムとして書こうとする人よりも、プログラム的なソフトウエアと身体とが組み合わさって初めて本当の知能が生まれてくる、という考え方をする人が結構多いんです。
小林 そうですか。私の参加している勉強会で視覚の話が出たことがあるのですが、視覚情報が目から入っていきますとね、脳のある部分で視覚野と海馬に行く情報とが分かれて、海馬に行く情報が先に処理されて、視覚野に行った情報を待っているというんですよ。つまり、あらかじめ視覚情報を予測するというのかな、そういうシステムが人間の脳の中にはある。
田近 なるほど、なるほど。
小林 実際に赤ちゃんがそういうことをちゃんとできるというんですよ。例えば、生まれて間もない赤ちゃんの前に赤い玉を持ってきて、手でつかませる。何回もやっていると、手を出してぱっと玉をつかむわけです。その赤い玉を手前で止めても、赤ちゃんはそれまでと同じ場所に手をもってくる。
田近 予測しているわけですね。
小林 ええ。そういう脳のシステムがある。だとすると、そういうシステムの構造が明らかになれば、人工知能にも反映されていくし、だんだんロボットにも応用されていくのではないかなと思うのです。究極的に人間の脳を作れるかということになると難しいとは思いますけどね。
田近 ただ、脳内のネットワーク構築というのは非常に可変的ですから、プログラムされたものは基本的にあるでしょうけど、それがすべてではなくて、やはりそこに実際の身体行動を通して形成されるものがあるわけですね。
小林 そうそう。組み合わせたり要らないものを除去したりしてね。例えば、日本人はRとLの発音の区別ができないっていうでしょ。ところが赤ちゃんはできるんですよ。でも、日本語の中にRとLを分ける言葉がないから、必要なくてその能力が消えてしまう。もちろん、新しい組み合わせは新しい機能を生み出すわけですから、そういう意味で身体の必要性をおっしゃるのは当然ですよね。
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