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第1回CRN子ども学シンポジウム
「中高生のデジタルな友達づくり」

パネルディスカッション

 慶應義塾大学大学院政策メディア研究科石井研究室の河村智洋さんに、実際に今の中高生を取材しての基調報告をしていただきました。それではこの基調報告をもとにパネルディスカッションをしてまいりたいと思います。早速、パネリストの皆様をお一方ずつ御紹介させていただきたいと思います。
 まず、東京大学大学院教育学研究科教授の藤田英典先生、精神科医の香山リカ先生、そして東北芸術工科大学助教授の竹村真一先生です。またパネルディスカッションの司会をお願いしておりますのは、異文化ジャーナリストのあわやのぶこさんです。
 それではよろしくお願いいたします。

●なぜ女の子から始まったのか
あわや:  司会のあわやです。今日はたくさんの方々にお集まりいただきまして、どうもありがとうございます。これからパネルの先生方にいろいろ御意見を伺うわけですが、精神科医の先生や、大学の先生もいらっしゃって、みんな先生、先生ということになりますので、今日は皆さん、さんづけで呼ぶことにしたいと思います。
 さて、本来ならばこのような会場でも、「皆様、ポケベルや携帯電話の電源はお切りください」というアナウンスを入れることが当たり前のような時代になってしまいました。また子どもたちもたくさん、いろんな機器を使っています。そこで先ほどの基調報告のビデオをご覧になっての印象や感想を、まず藤田さんの方からお一人ずつ、簡単にお願いしたいと思います。
藤田:  河村さんの報告を聞きながら、世の中随分変わったなと思いました。今日のパネリストの中で私だけが50歳以上だそうなんですけれども、時代にどんどん取り残されていっているのかなと思いながら、もう一方では追いつかなきゃという思いを持って聞いておりました。
 それで、先ほどの報告を見ておりまして一つ気がついたのは、登場した方がほとんど女子高生だということです。出た男の方は、河村さんとインタビュアーの人と、それから女子高の先生だけですね。
 実際、プリクラにしろポケベルにしろ、女子高生、あるいは中学生も含めて、とくに女の子の間に広まっています。もちろん、プリクラやポケベルあるいは携帯電話は、ある意味でメディアとして存在しておりますから、当然、今後は女の子だけではなく、男の子にも広まっていくとは思いますし、現に広まっているのも事実でしょう。それにしても、なぜ女の子の間で真っ先に広まったのか−−そこでやはり、男の子と女の子との違いが何かあるのかなという気がしました。
 また先ほどの、ポケベルで河村さんにメッセージを送ってくるような関係にしろ、あるいはプリクラが作り出す仲間関係、人間関係にしろ、そこで作り上げられている世界というのが、これまで我々が知っているような世界と同じものなのかどうなのかということも、少し考えてみる必要があると思いました。
 ただ、そうは言っても、例えば交換日記でありますとか、授業中に高校や中学校で、紙切れで交信するようなケースも、大体女の子に多いようですから、そういったことの延長線上に位置づくようにも思いました。
 それからもう一つ。ポケベルあるいは携帯電話は、明らかに交信・会話のためのメディアとして存在していますから、今後さらに広まるでしょうけれども、プリクラはメディアとして存在すると同時に、もう一方では古典的な意味でのメディアとはいえない部分もあるように思います。単なる流行に終わるのか、それとも今後も続いていくのか−−私はたぶん、これは今後も続いていくだろうと思うんです。続いていけば、男の子もするようになるだろう。今のような流行がどこまで続くかはわかりませんが、かなり続くだろうし、メディア自体としてのプリクラそのものも、もしかしたら発展するかもしれません。これは仕掛け人がどういうふうに更なる技術開発を進めていくかにもよるんでしょうが。
 そんなところも含めて、非常に興味深い現象だと思います。私は教育に携わっていますが、そういう立場から考える必要性の大きい問題だと思いました。


●原っぱ史観からの評価は
香山:  私はまず、今の若い人たちが人とコミュニケーションをとることにいかに多くの時間と労力、そしてお金を使っているのかという、単純な事実に驚きました。
 実は、私が携わっている精神医学の分野でも、都市化や現代化と人間の精神という議論がかなり昔から続いておりまして、いろいろな説があるんですけれど、大筋では、例えば都市化、現代化、情報化に伴って人間関係は疎遠になるとか、人間が疎外されるとか、人と人とのコミュニケーションが薄まっていくという議論の方がメインなんです。
 ところが実情としては、今の報告などを見ますと、質は変わっているけれども、むしろコミュニケーションへの希求とか、それに依存する割合が増えている。これは、一昔前の精神医学者があまり予想しなかった事態なのではないでしょうか。
 ただ、現象面だけのベル友を見て、それは単にベルのウインドーだけの関係なんだから、コミュニケーションではないと考えてしまえば、やはり人間関係は疎遠になっていると言えるでしょう。そういう意味でも、友情の定義とか、解釈する側の価値観、根本的な考えが問われるような現象なんだなということを改めて思いました。
 それは端的には、ビデオの中の女子校の先生へのインタビューにあらわれていたと思うんです。校長室でしょうか、あの部屋の先生たちのバックには、相変わらずスイスのアルプスみたいな、アナログ的な自然の景観の絵がどんと飾ってありましたから、ああいうものが素晴らしいという価値観が先生たちにはきっとおありなんでしょう。その先生たちも、実はこの現象を、いいものととらえていいのか、悪いものととらえていいのか、自分たちもわからないと率直におっしゃる。そういう先生方の困惑した姿もありましたし、余ったプリクラを先生たちにくれるという女子高生の話なんかも出ていましたね。
 今まで、新しいメディアとか新しい電子玩具みたいなものに対しては、得体の知れないものということで、世の中の大人なんかは、まず割と、拒絶反応を示す、否定する風潮があったと思うんですね。法政大学の稲増先生なども、“原っぱ史観”という名前でお呼びですけれど、大人はすぐに、「僕たちが子どものときは原っぱで遊んで、自然に触れて大きくなった。そういうのがよかったんだ」と主張する。ただ、そういう原っぱ史観のもとで育った大人が立派な人になっているかというと、どうもそうではない。厚生省で汚職をした人たちも原っぱで遊んだはずだと思うんですね(笑い)。何とか共済とか、ああいう人たちも自然と戯れたはずなんです。
 それはともかく、例えばテレビゲームとか、とにかく新しいものは、よくないんだというふうにとらえられがちでしたけど、プリクラというのは、そのはざまにあるというか、その間をうまく縫って出てきたので、大人たちも一瞬、これは否定していいのか、楽しくて良いものだと言っていいのか、よくわからなくなっているわけですね。ある意味ではそういう、私たちの盲点を突くような、おもしろいものだなと思いました。
 ただ、今日出てきたビデオの高校生なんかは、一応いろんな新しい機器を自在に操ったり、情報をいち早く収集してそれを使いこなせる、時代の速度についていける、一つの情報エリートみたいな感じの方だと思うんです。しかし一つ気になったのは、私が精神科の臨床医として臨床の場でお会いする、その速度についていけない、もともと対人関係能力が低い、活動性が低いという、そういう若い方たちのことなんです。
 私自身も、ああいう新しいメディアというのは非常に平等で、ベル友なんかだと、相手の顔がきれいとか汚いとか、成績がいいとか悪いとか、そういうこと抜きでメッセージ交換ができるし、ある意味では社会性の低い人にも実は開かれたメディアであるはずだと思うんです。だけど今のところは、そういう方よりも、むしろ社会性が高くて、時代の先端を駆け抜けていくような人に利用されている面がなきにしもあらずです。言ってみればちょっとマイノリティー側の方にこそ、そういう新しいメディアを通してこれから友達づくり、人間関係づくりをどうやって進めていってもらうかとか、その辺についても、今日のお話の中で話題にできたらと思っています。


●プリクラやポケベルは“属人化”のツール
竹村:  ほかの方も多分そうだと思うんですが、こういうシンポジウムとかパネルディスカッションといわれるものの中で、今日だけは少し居心地悪く感じています。というのは、やはり自分の言いたいことをしゃべるとか、自分の信じることをしゃべるんではなくて、高校生や中学生のこの現象は何でしょうか、どう解釈したらいいんでしょうかということで、彼らを代弁するような形になっているからなんですね。しかし代弁すること自体が本当はすごくおかしいことなので、代弁するつもりは最初からないということを前提に僕の話を聞いていただきたい。ただ、僕が教えている学生たちには18〜19歳が多く、比較的近い年齢の人ともつき合っていることは確かなので、彼らのコミュニケーションの本質に近いものが、僕自身の中や、僕の普段の仕事の仕方の中にもいろいろあるなあとは感じています。
 その上でのことですが、一つ非常に特徴的だったのは、確かに言葉を使ってメッセージを伝え合ってはいるけれど、そこではメッセージの内容が問題なのではなく、大事なのは互いの存在を確認し合うことだということです。
 だれかの小説の中の象徴的なフレーズに、「I'm here. I'm glad you are there.」、つまり「僕はここにいるよ。君がそこにいてくれてうれしいよ」というのがあったんですが、ポケベルの場合も、「今日、楽しかったね」とか、「チョー、イカすぜ」とか、いろんなフレーズにパラフレーズしてはいるけれども、しかしメッセージとしては「I'm here. I'm glad you are there.」を交換し合っているんだと思うんです。
 これは決して悪い意味で言っているんではなくて、今は、そういう形で、実際に顔は見えなくても、ある種の顔の見える関係を常に紡いでいかないと自分の位置がわからない社会なんだと思うわけです。むろんこれも決して否定的な意味で言っているわけではないんですけど。
 僕は、日本語の「自分」という言葉はすごくおもしろい言葉だなといつも思っているんです。つまり、「より大きな全体の中の分」というニュアンスが、「自分」という言葉の中にはありますよね。ということは、より大きな全体が見えていないと、自分というものもわからない。本質的に、そういう関係の中の結節というニュアンスが「自分」という言葉にはあると思うんです。そういう純粋な意味での「自分」という感覚に、今は逆にとっても近いんじゃないか、より純粋な形で自分というもののあり方に近づいてきているんじゃないかと僕は思うんですね。
 これはある意味では、僕は関係の“属人化”だと思います。属人というのは、人に属するということで、この反対は関係の“匿名性”ですけれど、そういう匿名的な関係−−名前はあっても無限に広がってしまうような、自分がどこにいるか位置づけがわからないような関係の中で、その関係を属人化していくということです。 “属人”というのは変な言葉に聞こえるかもしれませんが、もともと日本の文化の中には、属人器という文化があるんです。例えば会社などでも、部長さんの湯のみと、だれだれの湯のみという形で、また家庭の中でも太郎ちゃんの使うおはしと、妹の花子ちゃんの使うおはしというように、それぞれこれを属人器−−人に属した器−−といいます。今のポケベルなんかも、携帯ツールであると同時に、属人的なツールでもあると僕は思っているんです。同時に、互いの関係においても、そういう属人的な小島をある形で作っていくということだと思います。
 つまり自分を一歩出たら、外には均質なコミュニケーションのネットワークが茫漠と広がっている。その中で、この範囲だけは「I'm here. I'm glad you are there.」とちゃんと確認し合えるような、関係のメゾレベルを作っていく。そのことによって初めて、自分が生成してくる。逆にいうと、それ以外に自分というのはないのかもしれない。でもこれは何度も言うように、「現代人は寂しいんだ」というような、否定的な意味で言っているのではない。逆に、それはある意味では社会的存在としての人間の純粋なあり方だと思うわけです。
 自分がどういう形で必要とされるのか、自分の存在がどういう形で喜ばれるのか、自分がこう考えると言ったことに対して、1人からでも2人からでも「うん、いいと思うよ」とか、「君のかいた絵、好きだよ」っていうレスが来ることによって、「ああ、自分のやっていることは全く無意味ではないんだな」ということが見えてくる。それはとっても純粋な、原初的なあり方じゃないかなと僕は思っているんです。
 それを僕はレジュメの中で、ジグゾーパズルという形で書いたんです。ジグゾーパズルは、自分がその小さなピースだと考えたとき、そのピースだけを見てても何もわからない。しかし、ちょっとずつつながっていったとき、何かより大きな全体像が見えてくる。でも、その全体像というのは何も、完成された絵じゃなくていいんです。何となく自分の周辺、自分のくぼみ、自分が欠点だと思っていたくぼみと、意外なところでスポッとうまくはまり合うような膨らみを持った人とつながったとき、「あ、自分というのはこういう形でもあり得るんだ」とか、「こんな私でもあり得る」みたいな、もっと自分を開いていける可能性が出てくるのかなあと思っています。
 プリクラを見ていてもそうですよね。私の知っているこの範囲というスタイルで、自分の友達の顔写真が並んでいて、その友達の友達は私は知らないけど、友達のプリクラの中ではつながっている。つまり、それぞれの属人的な小島が少しずつ重なりながらつながっていき、全部は見えないけれど、何かしら大きなネットワークを作っている。これは今のインターネットの状況とも、かなり似ているなと思うんです。
 インターネットというのは、だれかが最初から地球レベルのネットワークとして作ったわけではありません。私は私の知ってる範囲でコンピューター同士をつなげます−−そういう小島のローカルネットワークが向こうにもあって、両方のローカルネットワークに属している人がいれば、その間がつながる、ないしはつなげましょうということになる。その繰り返しで地球大のネットワークができているのが現代です。しかも地球大のネットワークとしてのインターネットがある今も、それぞれのルーターやサーバーというのは、隣の情報しか持っていない。地球全体の情報は持っていなくて、隣の情報しか知らないんですね。
 だから、僕が、地球の裏側にいるあわやさんにメールを送ろうと思っても、僕はあわやさんにどう送ればいいのかわからない。けれども、とりあえず僕がつながっている香山さんに情報を託す。すると香山さんは、少なくともあわやさんは知らないけど、藤田さんまでのルートは知っているから、「じゃあ、藤田さんにお渡ししよう」ということになる。すると藤田さんは、僕のことは全然知らないのに、あわやさんは知っているから、「じゃあ、どうぞ」といって、結局あわやさんにつながる。隣同士で知っていることを伝え合うという関係、その集積が、結局インターネットの世界を作っているわけです。 その意味では、あの子どもたちは、ポケベルは使っていてもインターネットは使わないかもしれない。けれど構造的には現代のインターネット社会の本質とすごくつながっているというか、同じものがあるというように僕は感じました。


●背景にある、女と男の社会性の違い
あわや:  竹村さんのおっしゃっるように、属人化という言葉をお借りするとすれば、関係の属人化の道具がポケベルでありプリクラであるということになっているわけで、これは友達の人数の多さということにもかなり反映していると思うんです。
 そこで最初の話に戻りましょう。ポケベルやプリクラが女の子中心であるということについては、どういうふうに思われますか。確かにヒデオを見ていましても、街は女の子たちの遊び場になっているという感じを強く受けるわけですけれど……。
藤田:  私も今の竹村さんのお話を聞いていて、ビデオの中でもありましたが、友達の友達のプリクラを持っているという形でどんどんふえているという話と、インターネットが作り出す世界と同じであるというのは、そのとおりだと思います。
 また一方で、その存在を確認し合うというつながり方もありますが、それが今、特に女の子の間で広まっていることについてどう解釈したらいいのか、どう考えたらいいのかが、まず一つの問題だと思います。 子どもたちを代弁するわけにはいきませんが、プリクラがある意味で収集型のものと考えられるとするならば、小学生の男の子に多かった、かつての「ビックリマンシール」集めを思い出します。ビックリマンシールの場合にも、それぞれ何を集めているのか、そのキャラクターは全体の物語の中でどういう位置を占めているかということが、必ずしもわかるわけではない。しかし、そのキャラクターに簡単な説明がついていて、それを積み上げていくと、ある物語ができ上がっていく。しかもその物語自体がどう展開するかはわからない。もちろん、友達からいろいろ情報は入るでしょうが。ともあれ、こうしたビックリマン・シール集めの類いはどちらかというと男の子に流行った現象だと思うんです。
 ですから、男の子にはそういう世界を作り上げる傾向があるようですが、それとプリクラやポケベルが作りあげる世界は少し違うように思います。今のところプリクラはとくに女の子の間で広まっていることを考えると、また先ほどの河村さんの報告にもあったように、もし男の子にインタビューしていたら、インタビュアーが男であれ女であれ、ああいう伝言メッセージをポケベルに入れてくれたかどうか、少し疑問が残るんです。その辺はどのように考えられますか。
香山:  これは決して精神医学的な話ではないのですが、男の子の場合は、ビックリマンシールにしても、一応、そこにあるかどうかは別にして、何か壮大な物語世界があるに違いないと考えて集めていくんですね。今流行っているカードゲームに「マジック・ザ・ギャザリング」というのがあり、これもカードを収集しながらゲームを進めていくんですが、その背景にも壮大な世界があるだろうということがポイントになっています。
 また、ゲームセンターでは相変わらず男の子が多いんですが、あれもゲームの中に一つの世界があり、その中でいろいろ自分で技術を習得し、上に上がり、遂にはその世界の頂点に立つという展開がスタンダードなわけです。そのように、向こうには新たな世界があるんだろうという前提を持ち、それを読み解いていったり、自分で構築し直していくというような遊びに、男の子は引かれるようだと私は思います。
 一方、女の子はむしろ、世界がそこになくてもルールから作り出していく、あるいは目指す世界も、はっきりと構造化された世界というよりは、むしろちょっとカオティックといいますか、混沌とした世界なんですよね。さっきのアンケートでも、プリクラの行き着く先はわからない、衰退するだろうという人が4分の1ぐらいいましたし、こういうふうにしていこうという目的意識も別にないという、どこに進むかわからない中で、とりあえず楽しんでいるという状況もあると思うんです。
 ただ、今の若い人を見ていても、男の子の場合には、いい高校へ行っていい大学へ行けば、それなりにいい会社に勤められ、それなりに出世していくだろう、そういう伝統的な価値観の中に身を置いていれば、段階的にステップアップしていけるんじゃないかという気持ちを持っている方がまだいるような気がするんです。しかし女の子は、確かに自由化や多様化が認められてはいるけれど、逆に何かわけのわからない世界にポンと放り出された後、あとは自分で好きにやりなさい、自分の個性を生かしていいよと言われても、何をしていいかわからない、本当にやりたいことが見つからないと、結局は困惑してしまう。
 そういう社会的な男女の位置−−それはちょっと解釈し過ぎかもしれませんけれども−−と重なっているような気も、私はしているんですけれど。


●メディアとしての特殊性
あわや:  女の子の方が、割合タブーがなく、自由にこういう機器を使いこなせるというような気持ちがします。ですが男女を含め、今の子どもたちの友達の人数の多さには本当に驚きました。また101 人以上というアンケートをとること自体が本当に“時代だな”と私は思うわけなんです。
 そこで、香山さんからも出ましたが、先ほど私がビデオを見ていてとても印象的だったのは、そういう、関係の属人化といいますか、友達を欲しがる、求める子どもたちと先生方とのギャップです。プリクラ、ポケベルがいいことなのか、悪いことなのかわからない、また学校外の人と連絡をとる必要があるんでしょうかという先生方の声がありました。それから藤田先生も以前に書いてらっしゃったように、子どもというのは、学校的な価値と消費的な価値とのはざまで揺れる存在であると。そこでもし自分が先生の立場なら、学校というものが例えばプリクラやポケベルによってどんどん浸食され、子どもたちが外の世界に出ていくことに不安を感じると思うんです。そういう不安が、今、学校の方にはないんでしょうか。
藤田:  まだちょっとよくわからないのですが、僕は先ほど竹村さんが言われたことは非常に重要で、そういう存在を確認し合うような関係が、女の子だけじゃなく、男の子も同じようにもし強まるのだとすれば、このポケベルやプリクラが持つ、メディアとしての特殊性が何かあると考えざるを得ない−−そういう気がするんですね。
 男の子が今まで集めてきた「ビックリマンシール」にしろ、「バーコードゲーム」にしろ、それらは自分の外に世界を開いていたんじゃないか。でもプリクラは、先ほど竹村さんは「自分」と言いましたが、「私」なり「私たちの世界」なり、自分たちの仲間の世界なりを作り上げていくという感じですね。だからむしろ、内なる世界という印象が強い。
 もちろん、それはインターネットにも言えることかもしれません。お互い、隣の隣の隣はだれかわからない。確かにつながっているという関係でありながら、そこにはある意味で、つながっている人たちだけのシークレットの世界が成立しているようにも思います。しかし、インターネットのユーザーは今のところむしろ男性の方が多いようです。それはメディアの違いなのか、それとも、何か男の子と女の子との違いがあるのか、あるいは、それは現象面だけのことなのか。
 また、もし男の子と女の子に何か違いがあるとして、男の子にもそれが広まっていったとき、同じ利用の仕方をするようになるなら、このメディアの持っている影響は非常に重大です。そして現実にそうなるなら、学校の中にこれがどんどん浸食していくという気がします。ですがそうでなかったら、もちろん学校側がどう対応するかにもよるんですが、他のさまざまなおもちゃなり、かつてのファンシーグッズと同じような働きにとどまるのかもしれないという気がするんですね。
あわや:  今までは圧倒的に女の子だったんですが、男の子のプリクラもだんだん増えてきたというお話がありますね。河村さん、そのあたりについていかがですか。
河村:  最初は男の子がやっているのは全然見なかったんですが、最近は男同士で並んでいる姿も一般的に見るようになりました。特に地方に行くと、男女比が同じじゃないかと思えるくらいに並んでいるところもあります。ですから、やはり男の子もこういうのをやりたいんだなというのは、非常に感じますね。
あわや:  すると、これからは本当に一般的になっていく可能性があると?
河村:  はい。今はちょっと外部に踊らされているような感じもありますが、本質的なところで、子どもたちは非常にプリクラというメディアを使いたがっていると思います。そしてそこには男も女もないんじゃないかと私は思います。
あわや:  そうなりますと、やはり学校の問題というのは大きくなってくると思いますが……。
[続く]

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