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●大人社会でも立場性の問い直しが
香山:  いわゆる古典的な精神分析学では、男の子は男であるというだけで自分の存在が認められていると考える。しかし女性は、男ではないものというふうにまず自分を認識するし、自分とは、娘であるとか、恋人である、妻であるというふうに変わっていってしまうので、非常に自分の位置づけが不確かな存在なんですね。
 その説明を借りれば、竹村さんがおっしゃったように、人とシールを交換したりして、ネットワークの中で自分の位置を確認する、そして女の子は自分であることの証を得ていくというのは、ぴったりだと思います。しかし私自身は、それは男女の本質的、精神分析的な違いというよりは、むしろ男の子の方が、さっき言ったように伝統的な価値観にすがっていれば何とかなるので、鈍感(笑い)なんだと思います。逆に女性は、今の現代社会の中での自分の位置づけの不確かさに対して割と敏感なところがあるので、プリクラ的な中で自分のポジションを得るということをしているんじゃないか。ただ、河村さんがおっしゃったように、これからは男の子も、ただ男だということでオーケーというんじゃなく、その問題にやはり巻き込まれていくと、私は思いますね。
竹村:  全くそのとおりだと思います。同時に、だからこそ、今の企業社会における男性の人間関係では、そういう絶えざる矛盾と再学習が激しく起こっているんだと思うんです。
 これは一概に世代では言い切れないし、40代、50代の方にもそういう感覚を共有している人はもちろんいるんだけれども、大まかにいうと20代、30代の若い社員はとくに、自分の持っている資源がだれに喜ばれるのかなという、関係の属人性にセンシティブになっているわけですね。
 喜ばれるというのは要するに、自分は精いっぱいやっているのに、会社の中でどういう偶然か、それが余り生かされなかったりした場合、それでも「おまえのやったのはよかったよ」というサポートの得られる関係が、同世代の間、あるいは直接の上司との間にあれば、そこで自分・フ位置をもう一回確認できるということ。あるいは、それをもう一回やっていくきっかけができることだと思うんです。ところが、そのあたりでディスコミュニケーションが起こる場合が多くて、かなりの人が辞めてしまう。
 あるいは、今はもう、会社の壁をはるかに超えて、個人的なネットワークでメールをやりとりしながら、就業時間内でも別の仕事を自分の仲間とやっているなんて場合も多いわけですよね。そういう場合なら確実に、自分が出した小さなコントリビューションを評価してもらえる、ないしは生かしてもらえる関係がある。一方、会社の中では、自分のやったことが匿名的なワークの処理の中であまり評価されないとか、会社での自分の場所が見出せなくて、辞めていく人がたくさんいる。
 むろん、そういうことに対するセンシティビティーを男がどういう形で持っていくかというのは、たぶん会社内の関係だけではなく、家庭内でも同じでしょう。家庭では多くの場合、夫という役割認識がまだ確固としてあるという幻想が残っているのではないか。奥さんの場合は、妻とか母という自分認識もあるけれど、それだけでは最初から自己完結し得ないものがあるから、そういうものに対して非常にセンシティブになる。例えば「じゃあ、夫との関係において私はなあに?」というようなところです。
 一方、夫の方は「妻との関係において俺はどういうふうに役に立っているか」というように考える習慣がなく、タテ社会の固定した役割幻想にあぐらをかいて今まで来ていると思うんです。
 そこら辺で、ずっと高齢者の世代でも「ぬれ落葉」現象みたいなことがいわれているけれども、実は若い世代にもその辺のずれがあり、男にとっては理解しがたい形で関係が壊れてしまう。
 ですから、子どもたちの間で起こっているこの現象というのは、決して子どもたちだけの問題じゃなくて、さっき言ったような、より純粋な形の、自分は相手にとってどういう存在であり得るかみたいなことを、常に自己言及的に問い直していく本来のあり方に、どれだけセンシティブでいられるか−−それが各年齢層で、実は会社とか家庭の中でもたくさん問われているんだと思います。


●評価されるべきカンニング能力
藤田:  今お話しのことは大人の世界で起こっていることだと思うんですが、それはある意味で現代社会の−−プリクラだけにかかわらず−−さまざまな要素の変化の中で起こってきていることですね。つまりプリクラや新しいメディアが原因ということではなくて、逆に、象徴的にそういう形であらわれていると理解していいんでしょうね。
 そこで、司会のあわやさんから出された、学校の中にこれがどういうふうに入っていくかということについて考えると、いわゆるプリクラにしてもポケベルにしても、教育上のメディアには多分ならないんじゃないかなと思うんです。
 インターネットやパソコンはなるにしても、プリクラやポケベルが、授業に関わりを持つということはなくて、やはり、外でのさまざまな経験の中とか、あるいは学校の中でも友達同士、あるいはビデオでもいっていたように、今は余ったら先生ももらえるらしいので、もしかしたら、これを積極的に教師・先生の側から、関係修復のためか、あるいは関係をつくり上げるために利用するということだってできるでしょう。そういう意味では新しいメディアだと思います。しかも、あまり抵抗感なく広まっているようですから、これ自体が消費社会の何かということで、子どもや教育のあり方を変えていくというより、むしろ学校の中でいえば、そういった関係のあり方を保つ一つのツールとして利用できることがあるかもしれません。
竹村:  確かに学校というのが、もはや閉じた制度ではいられないということは前提になっていると思います。しかし問題なのは、単にその関係が学校内に閉じていないとか、会社や学校を超えて広がっていくということではなく、根本的な価値観が学校に相対立してくるといいますか、近代的な教育制度に対立してくる点がたくさんあると思うんですね。
 例えば、僕も教師をやっていてはっきりわかりますけれど、今はインターネットを含めて情報リソースというのは無限に多様化してきている。昔のように、教師の方が絶対的に知っていて、川上から川下へ水が流れるようになっているというのは前提にできない。これは当然ですよね。そうなると、彼らが持っている多様な情報のプールの中にどのような触媒を投げ入れられるかという形でしか、教師と生徒、あるいは学校と子どもたちとの関係というのはあり得ないと思うんです。
 もっとドラスティックな変化でいうと、例えばカンニングというのは、学校教育の中ではいけないことでしたよね。ところが、今我々がこうやって話していることは、お互いにつながり合い、持っているものを交換し合うことなんです。あるいは競争型のゲームもあるけれども、同時にお互いが持っているものを「ポケットモンスター」のような形で交換し合っていくゲームもある。僕が白い怪獣を持っていて、こちらの人が青い怪獣を持っているとき、お互いに交換し合えば、両方とも青と白を持つことになり、両方が豊かになる。つまり、異質なものを持ち合っている多様な者同士が、情報を共有することにより、みんなで豊かになるという関係があるわけですね。
 これを例えば知識でいうと、1問、2問、3問、4問、それぞれが25点ずつで、満点で100点という問いがあったとする。あわやさんは第1問が、藤田さんは2問目だけが答えられる、香山さんは3問目が得意、僕は4問目しかできないとなると、みんな25点なんですが、お互いに見せ合って共有すれば全員が100 点が取れるわけですよね。本当はこんないいことはないはずなんですよ、絶対に。
 いいことだし、インターネット時代というのはそういうことなんですね。「僕はこれができる。これはとても社会の役に立つと思うけど、それをどう技術的に実現すればいいのかわからない。誰か知らない?」と投げておけば、インターネットでだれかが「それはいいアイデアですね。ちなみに僕はこういう技術を扱っています」という形で、みんなで100 点になるように製品ができちゃうみたいなこともあるわけです。
 ところが、近代社会の教育制度ではどうしてカンニングはダメと言ってきたかというと、基本的に、標準的に50点以上が取れる人間を大量に作らなきゃいけない時代だったからです。工業社会というのは、工場と軍隊に象徴されますが、カメのように歩く人もいれば、ウサギのように跳ぶ人もいるというのでは軍隊にならない。みんな一応、ほどほどのスピードでちゃんとリズムを合わせて歩いてくれなきゃ軍隊になりません。工場も同じで、ベルトコンベアーで流れてくるときに、香山さんが10秒に1回ビスをつけ、僕が20秒に1回しかつけられなかったら、動かないわけですね。しかも物は、それぞれ1個1個ビスをつけて生産していかないと大量につくれない。そういう時代でしたから、平均的に50点取れる人間を大量に作らねばならない。そこで、カンニングはいけないということになっていたわけです。
 ところが、今の時代の要請は違います。例えば香山さんが何かいいものを作ったら、デジタル情報の場合には瞬時に無限にコピーができるわけです。僕も香山さんと競争して、同じぐらい強力ですごいものを作ろうとしなくたって、香山さんのが1個あればいいわけです。あとはもうみんなでコピーして共有できる。1つのものがあればいい。みんなでビスをつけてたくさん同じものを作る必要のない社会ですから、逆に、香山さんがそんないいものを作ってくれたんなら、香山さんとは全く別のジャンルの違うものを僕が作ればいい。それが多様性が必要とされる社会ということなんですよ。
 つまり、単に画一的な教育じゃなく、もう少し多様化した方がいんじゃないかという生易しい話ではなく、180 度違う価値観にこれからはなっていく。多様というのは、僕は1問だけできる、しかしそれ以外はできない、香山さんは2問目だけができるということであり、みんなが100 点を取れなくてもいいんです。みんなが50点にならなくてもいい。こういう価値観の変動をどれだけ正面から受けとめられるかということが、実は本当に問われているんですけれど、それに学校教育が気づいているかどうか、そういうことだと思うんですね。


●友情とコミュニケーションの質的変化
あわや:  確かに、子どもたちは自分たちの居場所を探している。それに対して大人たちが一体どういうふうに考えているのか、もっと子どもに興味を持って、彼女たち、彼らたちがいったい何を考えているのかということをよく考えて、自分たちのオリジナリティーを出していかないと、これから教師も大変だということになりますね。
 さて、これまでいろんな意見が出ましたけれども、私たちの時代と今の子どもたちの時代とでは、非常に道具が変わってきている。プリクラであるとかポケベルで、一体これからコミュニケーションの質はどうなっていくのか、あるいは友情というものをどう考えていくのかという大きなテーマがあると思います。
香山:  そうですね。先程の河村さんの報告を見てて、私たちが子どものときにあった、「一ねんせいにになったら ともだちひゃくにんできるかな」という歌があったのを思い出しました。私もよく覚えていませんが、100 人いれば世界中の何とかを笑う、“ひゃくにんでわらいたい せかいじゅうをふるわせて”とか、とても莫大な量の何かを食べる、“ひゃくにんでたべたいな ふじさんのうえでおにぎりを”とか、そういう歌詞だったような気がします。それぐらい、100 人というと、もう絶対的な多さというイメージがあって、1年生になる子どもの学校への期待や楽しい空想を“100 ”という言葉であらわしていたんだと思うんです。それが今や、もう現実に100 人の友達を持つというように、いつの間にかなっている。そこにまずびっくりしたんですね。
 でも、そこで言われている友情というのは、きっと私たちがイメージしている友情とは全く違うものだろうと思います。私たちは、友情というと、非常に全人格的なつき合いというか、相手の家族、背景や趣味、好きなものとか、いろんなことを全部知り、それを共有して、面と向かって何かぶつかり合うのが友情だという思いを持っているわけです。けれども、きっと彼女たちにとってはそうではなく、自分の興味ある分野とか、何か特定の趣味・嗜好を共有しているという、非常に断片的な人格でのかかわり合いを友情と呼んでいるんだろうなと思うんですね。
 それを昔の全人格的な友情と比べて、どっちが良質でどっちが質が低いという論じ方は非常に難しい。論議の材料もあまりなく、どうしても、やはり全人格的な友情の方がいいんじゃないかとか、そっちの方が自分は好きだといったような、感情的な話になってしまいがちだろうと思います。
 ただ、そこに私は、自分の分野から光明を見るというか、可能性を見出していることがあるんですね。というのは、最初に申し上げたように、私は病院では、割と対人関係能力の低いお子さん、登校拒否や家庭内暴力や、いろいろな心の病にかかっている方と接する機会が多いんですが、彼らもまたとても友達を作りにくいタイプの人ですよね。その彼らも、例えばテレビゲームやパソコン通信などを使った、ゲームセンターだけの対戦相手の友達とか、パソコン通信で何かメッセージをやりとりするだけの関係なら、割とストレスなく気楽にできるというメリットも、こういう断片的な関係にはあると思うんですね。
 確かに、私たちの旧来の考え方だと、そういう彼らの様子を見ても、友達ができたとは考えられなくて、やはりパソコンにはまっているとか、ゲーセンには行けるけど学校には行けないから、やはりその子は友達がいない子だとか、ダメな子だというふうに見がちになってしまう。ところが元気に遊ぶ子どもたちでも、友情の定義とか、友達との関係性がこんなに変わっているという現象が起きてくると、私が診ている、学校に行けない子や、家でも親と話せない子でもちゃんと友達がいることになるなと−−それはちょっと言葉遊びのような感じかもしれませんけれが−−思うんです。
 友達自体の定義が変わっていけば、その子たちだって、決して友達がいない子ではなくなる。対人関係能力が低いとか高いとか、友達が多い少ないという見方そのものが変わっていくと、そういう能力の低い子たちが救われるかもしれない。私はここで、そういう期待もしてしまったわけなんです。
あわや:  見方を変えていくということを提案なさったと思うんですが、あえて言うなら、そういうものはやはりバーチャルであってリアルじゃないから、リアルになるためにはまた何かしなきゃいけないという批判が恐らく来ると思うんです。そのあたりについて、サイバーオフィスも持っていらっしゃるし、未開の地にも行って調査なさっている竹村さんの立場から……。


●余白を残す感覚が必要になる
竹村:  そうですね、僕は20代後半、皆さんがよく未開の地と考えられているアマゾンやチベットなどによく行っていましたが、そのあたりでは言葉が通じませんので、最初に何をやるかというと、何も考えずに子どもと遊ぶんですね。すると子どもと遊んでいる姿を見て、皆さんも安心してくださり、村に入れていただける。これは余談ですけれど。
 しかしオンラインコミュニケーションで初めての人間関係の中に入っていくときも、割とそれに似たようなところがあり、「俺はこれができます」「これを知っています」と積極的に行くよりも、「何もないんですけど……」という感じで、ネコがおなかを見せるようにやっていく方が、何か関係ができやすいと思うことがあります。
 そういう意味でも、さっきジグゾーパズルのたとえで言いましたが、こちらが完全な円であっては人とはつながれない。何かくぼみがあったり、欠けたところがあったりしないと、他者と関係が持てないような部分があると思いますし、これは香山さんの世界にも通ずることだと思うんです。
 実は我々がいう「健康」とか「健常」、「ヘルス(health) 」の「ヒール(heal)」というのは、「全体性」「ホール(whole ) 」という言葉から来ています。確かに、自分の中の欠けているいろんなものを統合して、より全体的な人間になっていくというのは、もちろん基本的にはいいことなんですが、かといって何でも自己完結し、自分の中にあるんだよというのでは、人と関係するきっかけができない。これは、抽象的な話をしているようですけど、単なる譬喩ではなくて、僕自身がネットワークコミュニケーションを自分でやりながら学んで行く中で深く経験してきたことなんです。
 つまり初期の僕は、メールやホームページに出すような文章も、いわば本に書くように、これだけ読んでもらえば全体がわかっていただけるようなものとして、なるべく完璧に書こうとしていたんですね。ところが、やっていてわかってきたんですが、そんなにきちんと書いてなくて、穴ぼこだらけの欠点だらけ、「こんな舌足らずで伝わるの?」と思うようなメッセージの方に、多くの人からレスが来るんですよ。僕一人で完璧に書いちゃってるものは、レスが来にくいし、来たとしても、「すごいおもしろかった」とか「勇気づけられた」というのはありますが、「俺もこんなことを思っているよ」と、それにつぎ足して私はこれを提供したいというのが、あまり来ないわけなんです。
 それで、最初は、どういうことなのかなと思っていたんですが、要するに全部、何もかも自分で完璧に持っているんではなくて、余白を残すという感覚がネットワーク社会ではすごい大事なことなんですね。
 例えばアメリカインディアンは、壺や布の芸術品を作るとき、布の最後の最後まで完璧に色・文様をデザインするのではなく、布の最後の角、ちょっとした三角形を、色を染めずに白地のまま残す。これをオープニングといいますが、そういう余白を残しておかないと神様が入ってこないなど、いろいろな言い方をするんですね。それからモノも、少し欠けたものというか、いびつさがないといけないという考え方がある。
 これはネットワーク社会の、なかなか本質的なところで、その何か欠けたところ、いびつさが関係を作っていく。これがさっきのジグゾーパズル論でもあるし、またカンニング経済学にもつながってくると思うんです。
 さあ、そうなると、ジグゾーパズル的ということと同時に、メッセージが長く、完璧であるほどいいという価値観も、また変わってくるんですね。逆に、非常にシンプルで短くてたった5文字なんだけど、膨大な余白がそこにあるという方が、コミュニケーションの様式として、すごくいい関係を生んでいく。
 だからポケベルの場合も、一方では「愛してる」「楽しかったね」というように、とてもワンパターンで、表現能力がどんどん低下している側面もあるのかもしれないけど、同時に余白を共有しながら、経験を場や距離を超えて共有していこうという感性が、確実に若い世代の間に育ってきているんじゃないかと、僕は肯定的に見たいところもあるんです。
 ちょっとこれ、無理につなげているように思われるかもしれませんが、短歌や俳句にしてもそうだと思うんですね。我々はどうも、芭蕉といえば俳句の達人だと誤認しているけれども、実は俳句というのは本来、俳諧という、つなげていく芸術なんですよね。つまり芭蕉というのはコーディネーターであり、芭蕉が発句を詠むとか、とにかくその座を仕切る、そして上の五七五だけを詠んで、七七は香山さんにやってもらい、その後また、次につなげる五七五を藤田さんが詠んでいくというように、全体でコラボレーションをして、インターパーソナルなアートを作っていく−−その名コーディネーターが芭蕉だったんです。
 表現方法としても、とても短いフレーズで、しかもそのときには歌枕とか枕言葉とか、非常に象徴的なフレーズで、いろんな過去から同じ場所についての感情を経験し、それが凝縮されていく。そんな小さな言葉の種みたいなものをまた引き受けて隣の人に受け渡していく。つまり、芭蕉だけが五七五で完璧に閉じちゃうものを詠んでいたわけではないんです。ちゃんとオープニングを残して、その残した余白をだれかに託してやっていった。そういった日本の文化の伝統の、とても大事な部分にもう一回触れる回路も、ないことはないんじゃないかなと思います。
あわや:  今まで私たちの頭の中では、人に会ったとき、会って徐々に親しくなって、関係が深まっていき、最後に非常にカジュアルな会話をするというベクトルがあると思うんです。しかし先ほどのポケベルのメッセージなんかを見てますと、「元気?」とか「頑張ってね」という、非常にカジュアルな部分が先に来ている。また相手の顔も見えないわけですね。つまり私たちが頭の中で考えるコミュニケーションの質が逆転しているんじゃないかと思われるんですけど、そのあたりはいかがでしょう。


●さまざまな友達関係が併存していく
藤田:  逆転しているかどうか、まだ僕もはっきりとはわかりません。ですがプリクラにしてもポケベルにしても、明らかにメディアという特性を持っていますが、メディアというのは、基本的には置きかえ的ではないんですね。つまり、新しいメディアが出てくると、古いメディアにそれがとって代わるというものではなく、重なり合って共存し、我々はいろんなメディアを同時に使うということをやるわけですね。そうすると、ある特定のメディアのウェートが我々の生活の中で増大し、個人がそれを利用する時間が増えれば、当然、従来、ほかのメディアを使ってやっていた行動なり活動なりが減っていくということになるわけです。
 しかもプリクラやポケベルなどが伝えるメッセージあるいは関係は、今、あわやさんが言われたように、従来の、例えば手紙のたぐいとは全然質が違うわけです。そういう質の違いがどこでどういう影響をもたらすかというのはちょっとわかりませんけれど、そういう違いについては考える必要がもちろんあるんだろうと思うんですね。
 ただ、もう一方で、先ほどの報告にもありましたように、何十と返事が来たら時間をとられちゃうかもしれませんけど−−ポケベルやプリクラ自体は、個々を取り上げればほとんど時間をとらないわけです。しかしパソコンやインターネットやゲームのようなものは明らかに時間をとりますから、それに時間がとられた分、対面的な接触が減ることになります。そこで、日常の行動レベルと、デジタルなネットワークを通じて成立する関係とのズレが、当然、問題になると思うんですね。
 そういう点で、デジタルな関係がつくり出す友達関係とか友情というのは、従来のイメージからは明らかに変化している。あるいは違ったイメージでとらえる層や、とらえる場合も出てきていると思うんです。
 だから、先ほどのアンケートでは、100 人以上と答えた人と、30人から50人ぐらいと答えた人がかなり多かった。また、そう答えた人は、一応別々の人たちとしてあらわれていますけれど、厳密に、友達というのはどういう意味で使っているのかと問い直せば、どっちかに偏る、あるいは両方とも当たっていると答えるんじゃないかと思うんです。
 そういう意味では、関係のありようも、どちらか一方にとって代わるというよりも、いろんな友達関係が広まっていくんだろうなという気がします。ただ、その中でどれが優勢になるかというのは、たぶん別の問題としてあると思います。
 もう一つ、先ほどの竹村さんのお話との関連でいうと、竹村さんの言われている、余白を埋めるというか、余白が新しい関係を作っていくなり、関係の親和性を高めるレベルというのは、基本的には情報や知識を媒介にした関係だと思うんです。それがもし行動レベル、対面的なレベル、一緒に自分の身体・体を動かして行う行動のレベルではどうかというところが、もう一つはっきりしない重要な問題だと思います。これは、ちょっと考える必要があるなと、お話を聞きながら思っていました。
 また、学校教育の役割についてもかなり触れられたわけですが、私は、いわゆる近代的な大量生産が知識のあり方を変えてきた、あるいは学校教育のあり方を変えてきたというのは、そのとおりだと思うんです。ですがもう一方では、資本主義的な生産様式が知識を個人化していったわけですね。一人一人が自分の中に知識を積み上げていき、その積み上げた知識を自分の能力として使うことで産業社会の中で有能な人間として行動していく。そういうあり方を、近代資本主義社会、あるいは産業社会はつくり出してきたわけですけれど、先ほど竹村さんが言われた例は、個人が私有・所有する知識のありようとは違う、みんなが共有し、そしてつくり上げていく知識の世界、関係の世界があって、それが新しいあり方として今、再度復活しているという展望をある意味で言われたと思うんです。
そこのところはたぶん、将来的にはもっともっと広まっていくのだろうと私も思いますが、もう一方で、先ほど言ったように、実際の、身近な、体を動かして行う行動、生活、活動のレベル−−いわゆるリアルな世界ですが、そのリアルな世界での関係はどうなっていくのかという点では、まだ少しギャップが大きいような気がします。
[続く]

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