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●地球大のデータベースから知識を共有
竹村:  個人の蓄積というのは、もちろん、いろんな形で今後も必要とされていくとは思います。しかし例えば学校教育の中で、とにかくカンニングはだめ、自分で平均点以上とれるようにしなさいと言われて会社に入ったとしたら、もちろん、個人の蓄積も50点ぐらいはあるかもしれませんが、たぶんそれはみんなと同じ能力だと思うんです。
 ところが会社に入って一番必要とされるのは、いかにクリエイティブにカンニングするかという能力だと思うんです。つまり自分一人では、だれも大きな仕事はできない。蓄積といっても、大きな仕事をしていくときに、自分の蓄積だけで何もかもできる人はいない。すると、自分に足りないところを認識し、その足りないものをだれかからいかに借りてくるか−−他人のふんどしをいっぱい集め、他人のふんどしをうまく組み合わせて相撲をとる能力が必要なんです。そうだとすると、より創造的にカンニングをする能力を小さいときから鍛えるような教育に、発想を転換していかなければいけないよということを、僕は強調していたわけですね。
 もちろん、短期的な問題と長期的な問題ではレベルが違う面もありますが、同時にそれは、個人の蓄積ということと決して矛盾しないし、少なくとも学校教育でも会社でも、今言ったような能力が問われる限り、もともとの学校教育の段階から方針の転換をしなきゃいけないと言ったわけです。
 もう一つ、個人の知識の所有といっても、非常に皮肉なことに、自分の蓄積する知識というのは、40人の生徒に対して1人の先生が教科書のもとに教える画一的な知識なんですね。それをみんなが持っているわけです。つまり個人所有でありながら、個人の属人的な知識ではないという状況なわけです。
 ところが今は、知識は自分の中になくても地球大のデータベースの中にある。あるいは、いろんな人から教えてもらってアクセスできる、見えないデータベースがある。しかも、そのデータベースを受け取るときには、必ず個人個人が違う形で受け取ると思うし、違う形で受け取る差異の度合いを、より増やしていくような教育をしていけば、同じ情報のデータバンクからとってきても、属人度はより高まる。つまり、同じ施設の1つの資源・知識が、この4人が別々の形でとると4になり、属人化によって知識の価値が増幅するというダイナミズムが起こってくる。そういう意味では、僕は根本的に、全然矛盾しない。むしろ知的生産、資本主義の論理からいってもその方が生産性が上がると考えています。
 それからもう一つ、対面的な行為の場合にはどうかということですよね。これはいろんな形で、もうそろそろ香山さんにバトンタッチをしたいと思いますけど、対面的にやっているコミュニケーション、例えば男たちが飲み屋で毎日のように繰り返してきた対面コミュニケーション、あるいは女性たち、主婦たちが−−「公園デビュー」なんていう言葉もあるそうですが−−公園で井戸端会議をやってきたコミュニケーションに、ポケベルで交わされている以上の濃密なコミュニケーションがどれだけあったのかということも、問い直してみてもいいんじゃないんでしょうか。
香山:  今の学校では通知票とかがあって、個人の到達度が計られたり、2学期に比べて3学期はこれが進みましたよ、ということで評価されています。しかしみんなの知識が地球規模でグローバルに共有されるようになると、きっと、そういう個人の知識、蓄積された知識を成績で判定していくようなシステムは、非常に危機にさらされてしまいますよね。
竹村:  例えば、うまく創造的にカンニングしたことを評価していけばいい。
香山:  ただ、それを認めるには、学校の今までのシステム自体が根底から変わってしまわなきゃいけない。そういうことになると、それを守らなければという危機意識が教育に携わっている方に出てくるだろうし、ずいぶん時間がかかるというふうにはお考えでしょうか。
竹村:  そうでしょうね。まあ、僕は評論家的に言いたいわけじゃないので、何年かかると言う気はないんですが、少なくとも社会が必要とする人材像は明確になっている。より個性があって、より属人的な資源を持っていて、よりカンニングが上手なタイプが既に必要とされていますから、そういう人間を育てるシステムを文部省の教育体系の外部に、ベネッセのような教育産業がつくっていくことは間違いない。
 ベネッセもそうですが、河合塾その他の予備校なんかも間違いなく、おもしろい先生の授業は衛星とかを使って流しちゃう。全国の何万人もの子どもに、貴重な、その人しか持っていない、例えば数学の秋山先生とか、精神科の香山先生の属人的な知識を、すごいスケールでブロードキャストして、あとは違う形の能力を膨らましていく。そういう教育制度が文部省の外部にどんどんできていくことは、資本主義の論理からいって間違いないわけです。
 すると、かつての学校をどう守ろうかというレベルではなく、かつての学校はどのような役割を果たし得るのかという方向で考えざるを得なくなると思うんです。
藤田:  確かに今竹村さんが言われたことは、たぶん、僕は半分は納得していると思うんです。ただ、その例として言われたカンニングというのは、若干誤解を招きかねない表現だと思います。おっしゃっているのは、我々が既存の学校のあり方を前提としたときにカンニングと見なされるものということですよね。ですから、ある種のテストの仕方、評価の仕方があって、それに乗っかって教育なり評価が行われる限りはカンニングといわれるわけですが、たぶん竹村さんが想定している関係、あるいは知識のあり方や学習を前提にすれば、それはカンニングでも何でもないということになるのでしょう。
 それから資本主義の論理に基本的に矛盾しないというのも、そうだろうと思います。けれども、いまひとつ納得し兼ねる部分があります・確かに学校の外に巨大な情報空間が成立しておりますし、そのなかで学校や教育の在り方も変わらざるをえないと思いますが、カンニングするにしても協力し合うにしても、あるいはインターネットを通じて交流するにしても、そのリテラシーの水準に達していなければいけないという問題があるわけです。これは香山さんが初めの方で言われたことだと思いますが、その水準に達していない場合にどうなるのかというところが、もう一つ問題だと思います。メディアリテラシーというか、コンピューターリテラシーのようなものに限らずいろんな意味で要求されているリテラシーの水準が高まっているとするなら、そのリテラシーの形成という課題はどうなるのかという点が、先ほどからの竹村さんの話のなかで、まだ納得できない部分ですね。
 それからもう一つは、先ほど「公園デビュー」というお話の中で、そこでどういう濃密なコミュニケーションが交わされるのかというお話をされました。問題はコミュニケーションの濃密さなのではなく、他者との間に境界を引いてしまったり、あるいはグループ化したりする関係が−−もちろんこれはデジタルな空間の中でもあるんでしょうが−−対面的な空間の中では非常に大きなウエイトを占めていて、緊密な関係を一方でつくりながら排除の関係をもつくり上げていくわけです。そういう関係が持っている世界と、デジタルな空間−−竹村さんが言われたような関係も一つのあり方としてはあり得るんですけれども−−との間の矛盾、あるいはズレのようなものが気になるんですね。


●インターネットは全ての人に開かれているか
香山:  一言つけ加えたいんですが、私も似たような問題を感じるんですね。電子メディアというのは、一方で平等で開かれていて、自分でも言ったように、匿名で、断片的な人格でのつき合いが可能なので、社会的にちょっとマイノリティーだったり、弱者といわれてる人にも開かれている可能性がある一方、逆にネットワークに属せないだけで、非常に脱落してしまったり、やっぱり排除されてしまうという、二面性を抱えているような気がするんです。そのあたりをうまく救ってあげないと……。
 例えば、また非常に卑近な例になりますけど、私の病院に通っている患者さんでパソコンマニアの人に、「あなたは家から出られないけど、インターネットではこういう情報が得られるからやってみたら」と言ったら、「でも、インターネットにオンラインで契約するには、クレジットカードがないとできないんです」と言われたんですね。クレジットカードを持っているということ、つまり、定期的収入がある人じゃないと、このインターネットには入れない。「自分のように、精神病を病んで仕事がない者は、クレジットカードをとれませんので、インターネットには容易に入れない。ここでもう一つ、ちゃんと審査されているんですよ」と彼は言うんですね。 それで、「あ、なるほど」と思ったんですが、そういうインターネットなどを最も必要とする、そこに行けば社会的病者ということから自由になり、その情報空間に入ってグローバルに知識を持てるはずの人が、実はそこで既に排除されている。まあ、インターネットでクレジットカードを要求しているのかどうかわかりませんけども、そういう、いろいろ考えなければならない問題も多いなと感じます。
竹村:  今最後に言われたことは、インフォメーション・リッチ/プアの差をいかに埋めていくかという問題で、例えばアメリカの政権などでは、クレジットカードのないような方が優先的にインターネットを利用できる環境を一所懸命つくろうとしています。それから英語が必ずしもしゃべれなくても、マルチリンガルを前提にしてどんな言葉でもアクセスできるようにしようと。だからそれは社会的な選択の問題、あるいは政策的な問題であって、メディアの本質にかかわる議論ではないだろうと僕は思うんですね。
 また藤田さんのおっしゃったリテラシーの問題でいうと、僕はしかし、「必要」がそれへのリテラシーを潜在的には動機づけていくと思うんですね。具体的にいうと、農業をやっている方々は情報産業から一番遠いけれども、今の時代にちゃんと自分たちで志を持って何かいいものをつくろうとすると、その志をわかり、少し値段が高くてもその活動をサポートしようとしてつながってくれる−−まあ、昔から産直なんてのがありましたけれど−−関係を必要とするわけですね。するとインターネットというのは、そういうことの一つのサポートになり得るかもしれない。そういう形で、割と農業をやっている方々の中でのインターネットに対するニーズが非常に高い。また自分のところにサーバーを持つ、サイバー農場なんてのがどんどん出てきているわけです。
 ところが今は、何に必要なのかわからないけど、とにかく中学になったら英語を教えられるということだから、英語のリテラシーというのは、こんなにプアーなわけですよね。そうじゃなく、「インターネットがそういうふうに役に立つものならやろうじゃないか」といったとき、社会としては、それをサポートするような制度をつくっていく−−そういう動機づけを生かしていくような制度こそ考えられるべきであって、それさえ可能になれば、僕はリテラシーというのは必要があるところに育ってくるものだと、基本的には思っています。
 それから「排除」という言葉を使われたのは、僕はちょっと一面的過ぎるかなと思うので、僕なりの解釈をしますが、メゾレベルのコミュニティーといいますか、確かにパソコン通信でもインターネットでも、突然、何千、何万という人たちの潜在的なネットワークの中にポンと放り出されてしまうわけです。それに対して、何かメゾレベルのコミュニティー−−閉鎖性とはいわないけれども、顔の見える関係−−が必要だということには、僕は本当に賛成します。これからインターネット社会とかOCN(オープン・コンピュータ・ネットワーク)といわれている中で、そういうメゾレベルのコミュニティーがどういう形でうまくつくられていくかが、かなりカギだろうと思っています。僕自身も、実はNTTにスポンサーをしてもらって、親子プロジェクトというのを去年やったんですね。
 それは電子掲示板的な(BBS)システムですけれど、15組、20組ぐらいの親子それぞれに、自分の住み込む家をカラーザウルスで手書きでデザインしてもらったのを張りつけて、それをアイコンにし、それぞれ自分の家が環状集落を形成するような形態にしたわけです。そこは、ある程度自己完結性を持っている。外に開かれていないわけではないけれど、ちゃんとメンバーシップのある関係がある。と同時に、そこには親と子という異世代が入っていて、なおかつ、あまり日本語ができない外国人も入っていた。
 そうすると、外国人が何か言いたいけれど、言い切れないというようなときには、だれかがサポートしたり、ボランティアで翻訳をかって出たりする。あるいは子どもがポーンと出したものに対して、親の世代の別のお父さんが「いいねえ」と言ったりして、すごくおもしろい関係ができていたりするんですね。そのときは、月に1回ぐらい、オフラインミーティングじゃありませんけど、おもしろいことを一緒に体験しようという企画があったので、特にオフラインとオンラインの関係のバランスがうまくとれていたということもあるんだろうと思うんです。
 そういう形で、それほど親しくはないけれど、顔ぐらいは知っていて、あるいはどんなおどけたキャラクターかみたいなことは、何となく、直接話しているんではないけど知っている。そういう関係が構成するメゾレベルのスケールのコミュニティーがオンラインの小島としてあることが、これからのオンラインコミュニティーをうまくバランスさせていく道じゃないかなと僕は思っています。
 またそういう中で、デジタルだけの世界に閉じちゃう人もいるかもしれないけど、多元的な形で肉体的な関係をつくっていこうとする動きも、僕はどんどん自発的に出てくるというように自分の体験から思っています。
あわや:  バーチャルなものとリアルなものとの往復を自由におこなって自分自身のものをつくっていく。それは一つの過程ということなんでしょうか。
竹村:  デジタルでやり始めることがイコール、デジタルに閉じこもってしまうことだというのは、一概に法則化できないと思うんですね。


●3つの世界をどう区別する?
あわや:  一般的な不安として、たぶんそれはあると思いますけれど、今、竹村さんがおっしゃったのは、一種のデジタル社会の理想的な未来像、将来像だと思います。
 それぞれにどんなデジタル社会を描いてらして、何を理想となさっているか、子どもたちが育っていく中で、大人たちがどういうような価値観を提示したらいいかということについて、お一人ずつ伺いたいと思います。
藤田:  このリアルとデジタルな世界、あるいはメディアがつくり出すバーチャルな世界ということが、最近、非常に問題になっていますけど、実は、私のところの大学院の学生さんで“大多和君”というのが、リアルな世界とイマジナリーな世界とバーチャルな世界、この3つを区別した方がいいということを言っているんです。
 古典的には、リアルな世界とイマジナリーな世界が対比されてきました。例えば古典的なメディア論の中では、現実世界、リアルな世界に対して、さまざまな情報がつくり出す架空の世界というか空想の世界、イマジネーションの世界が対比されていたわけですが、最近になって、バーチャルな世界というのが新しい次元として出現してきている。そういう議論を大学院生の人がやっているんです。私もこの3つの区別が現代においては非常に重要だと思っています。
 リアルな世界というのは、どうしても身体性とか感覚性といったものが前面に出てくる世界といいますか、対人的であれ、社会的であれ、あるいは感覚的であれ、好みや生まれたときから培ってきたものが必ず表面化する世界です。そこで子どもは生き、生活しているわけです。
 もう一方で、観念的な世界も含めて、さまざまな空想の世界があります。子どもの場合、その典型は、おとぎ話などを読んで思い描く世界ですね。もちろん、それに子どもが脅えることもあるわけですが、大きくなるにつれて、その重要性を認めつつもそれは、観念の世界、空想の世界なんだと理解するようになります。
 従来は、そういう二つの世界について議論してきたわけですが、それに対して近年は、バーチャルな世界、バーチャルリアリティーといわれるように、それ自体がある種のリアリティーというかリアリティー性を獲得している世界が既に成立し、人びとの生活と意識を枠づけるようになっています。
 私は、この三つディメンションは、どれかをなくすべきだとか、拡大すべきだとかいうことではなくて、リアルな世界とイマジナリーな世界とバーチャルな世界が併存し重なり合って、我々の日常生活なり意識界を支配するようになっていると考えています。
 そうなると、バーチャルな世界に関しては、先ほどから竹村さんがいろいろ言われていることが一つの理念型になっているといいますか、あるいは確実にそういう方向性を持ったものとして広まっていると思うんです。けれども、そういう方向性を持ちながら、それは、リアルな世界と、どういうふうにつながり交差していくのか、その重なり合いのなかで一人一人の個人はどういう困難を抱え込んでいくのかということも考えなければいけないと思うんですね。
 確かに、バーチャルな世界、デジタルな世界の拡大がリアルな世界の新しい展開を促進するとか、その往復活動の中で新しい人間関係がつくり上げられているということは幾らもあると思いますが、それは一方の光の部分であって、もう一方の影の部分では、矛盾や葛藤があったり、対立があったりするんだろうと思うんです。その関係について、そういう3つの世界が交差するところでどういう問題が起こっていくのか。そしてその問題にどう対処するのかというのは、教育という観点からいえば非常に重要だし、単に教育だけでなく、我々大人が日常生活を送っていく上での重要な課題もそこにあるのではないかと思います。


●バーチャルとリアルとの接点
香山:  私自身は、個人的にはすごくミーハーで、テレビゲームとかこういう新しいメディアが大好きな人間なので、こういう新しい現象もすごく歓迎したいし、それらが切り開いていく未来にもすごく期待もしています。しかし一方で、いろいろ問題を感じていることも確かです。
 というのは、こうやって情報機器を自在に使って現代という時代を闊歩して、若い人が楽しんでやっている一方で、私どもの精神科に来る方たちは、非常に今、基本的な家族の問題とか親子の関係の問題で悩んだり、また、こんな言葉は本当にあんまり使いたくはないんですけど、やっぱり個人の精神のすごく未熟な、インマチュアなところで問題を抱えていて、そこで行動を起こしてしまって、やむにやまれなくなって病院に来るという方も非常に増えているんですね。
 本当はこういう、バーチャルな世界がいろいろと発展すると同時に、そういう問題からも人間は解放されて、楽しく生きていけるようになればいいと思う。私自身もそうなってほしいと思っているんですが、やはりなかなかそうはいかない。
 ただ、だからといって、もちろんリアルな場における教育とかそういう問題も大事なんですけれど、リアルなものに返れとか、やはりそういう世の中は間違っているとか、さっきの原っぱ史観じゃありませんが、やはり人間は原っぱでくんずほぐれつしながら遊びながらじゃないと、本当の成長は得られなかったんだと言ってしまうのは、余りにさびしい。私自身もそれはしたくない。
 ですから、何とか現代の中でバーチャルだといわれているような空間の中でも、人間がうまく成長したり、基本的な問題をうまく解決して乗り越えていける自分を育てていくことができないだろうかということを私は考えているんですね。
 そういう意味では、今藤田先生がおっしゃったように、バーチャルな世界と、その中で人間が苦しんだり、悩んだり、問題を抱えて病院に来なきゃいけないという、今のところリアルと呼ばれている空間との関係、その間がどうつながっているのかということ、あるいは、その間に、もしかしたらイマジナリーという空間とか、私どもの世界だと、もう一つ、妄想の世界、デリュージョナルな世界というのもあったりする。そういう幾つもの世界との間にどういう関係性、どういう因果関係があるのかということを考えていかなければいけないかなと私は思っています。
竹村:  それにつなげてちょっと言いますと、さっきの親子プロジェクトをやったという話で、具体的なところまで言い切れなかったんですが、それに参加した親子たちの間で、「今まで、子どもとこういうレベルで体験を共有したり、情報を共有したことはなかった」とか、子どもも「背中さえ見えなかったお父さんの姿がよく見えてきた」というような……
あわや:  本当の親子なんですか。
竹村:  そうなんです
あわや:  バーチャルな親子じゃないんですか。
竹村:  そうなんですよ。「同じ家に住んでいるんですけど、そんなコミュニケーションは今までしたことはなかった」と。しかも、別の子どもが出したものに対して、自分のお父さんがある反応をしたので、「へえー、こんな面もお父さんにはあるのか」と思ったとか、自分の子どもがほかの子どもとオンラインでやりとりしている姿を見て、お父さんが子どものある面を再発見したとか、そういうことがあるわけですよ。
 つまり、リアルな対面関係でも同じで、さっき言ったように、若い世代は一所懸命やった仕事に対し、自分のやったことをどう受けとめてもらえるのかなあと思っているのに、上司は機構的の発想で、「無視された? そりゃもう当然、自分も若いときはそうだったよ」みたいな感じでいるわけですね。
 ところが、そういうときに、あるプロジェクトで電子掲示板みたいなのが用意されると、そういう若い連中から、愚痴ではないんだけれど、こういうことがもっとあっていいんじゃないかなという意見が出てくる。また別の若いやつから、同じような書込みがあり、それがどんどん増幅してあるアイデアに育っていき、上司が考えてもみなっかたような形になったりする。そして、こいつのアイデアはもっとこんな形で生かせるかもしれないなとか、こいつにはこんな側面もあるのかなということになる。つまり会社であれ家庭であれ、オフラインの生身のコミュニケーションでは、お互いなかなかうまく伝え合えなくて悪循環になっている関係、そこにオフラインのコミュニケーションがすごくいい風穴を開けるという例を僕はいっぱい知っているわけです。
 それからもう一つ、イマジナリーな世界というのは、本当にすごく重要だと思うんです。僕は、現代では一番それが欠けていると思っています。しかし、その事の重大さは単にメルヘンとか神話とか、そういう世界がなくなった。物語空間がなくなったという意味だけじゃないんですよね。
 たとえば、さっき話題に出た、伝統的社会にフィールドワークに行きますと、「私」というのを多元的な関係の結節として説明するんですね。確かに、私はお父さんとお母さんの血が混ざってできている。肉体的にはそうである。しかし、一方、霊的(スピリチュアル)には、森の何とかという動物と兄弟関係にあるようだし、先々代の母方のおばあちゃんの生れかわりだそうだし、それから何とかという星の影響も受けているしとか、そういう感じなんです。
 こういう話は皆さんもどう思われるかわからないけれども、「私」を説明するとき、あるいは「私」の行動を自他ともに解釈するときにその文脈(コンテクスト)が多元的なんですね。だから仮に悪いことをやったとしても、場合によっては、彼が悪いんじゃなくて、「ああいう関係のあの霊のせいでこうなっている」みたいな形で少し風穴があく場合もありますし、それをみんなで認識しながら、「じゃあ、その霊との関係をうまく調整してみましょう」ということで悪魔ばらいの儀式が行われたりする。極端にいうと、そういうことも出てくるわけです。
 いずれにしても、悪魔ばらい云々を信じるかどうかは別として、自分というアイデンティティーを、イマジナリーな世界に踏み込んだ、多元的なネットワークでとらえているということは、実は精神医学上でもすごく大きなことなんじゃないかと思うんですね。僕もかじった程度の知識で無責任に言いますけど、現代の精神医学とか心理学が突き当たり、どうしても突き破れないところは恐らくそこじゃないかと思うんです。
 つまり、「あなたはあなたでしょ。だから、あなたが悩みをかかえている」とか、あるいは「悪いことをしたとか、悪い想念を抱くのは、要するにあなたの問題だから、あなたの内部の問題として解決しましょう」みたいな形でやっていくと、どうしてもすごく限界が出てくる。一方、今度は、そういう精神分析的な「個」(自我)の文化への極端な過剰反応、その反動から、アメリカの裁判なんかでは、その人を責めるかわりに、「あ、この人の中のベトナム戦争体験が悪かった」、あるいは「この人は砂糖をずうっと小さいころから食い過ぎてきたから、砂糖のせいだ。この人のせいじゃない」という感じでとらえるような風潮が出てきているようなんです。これも自分というものを多次元的に位置づけていくイマジナリーなネットワーク世界がないゆえの分裂だという気がしています。
あわや:  お話は尽きなくて、非常な広がりをもって進行しているようですけれども、このことからも、デジタル社会についての私たち試行錯誤が本当に今始まったばかりだということがいえると思っています。いろんなお話をこれから先もしたいんですが、このお話をみんなの中でシェアしながら、将来の子どもたちと自分たち、また大人としての自分たちのいうことを考えていただければと思います。きょうは長い間、どうもありがとうございました。

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