男性3: |
私は、今日の話を伺って、母親が子育てに関する情報を早く知り、目の前の子どもからも情報をとって、いい子育てにしていただければいいなあと思いました。そして、ゆとりや保育の質の話からすると、育児休暇が取りやすい体制、お父さんが早く帰って子どもの面倒を見れる体制、行政の面からの支援も当然必要ですね。また「いい保育の先生にめぐり会うともう一人育てたいと思う」という話に非常に感銘しました。
質問があります。フリードマン先生に、日本で17歳の問題がいろいろ起こっていて、アメリカでも同様に若い子どもの犯罪が起こっていますが、そのような犯罪を起こした子どもたちの保育の状態についてのインフォメーションをおもちでしたら教えてください。
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フリードマン博士: |
保育と非行、あるいは少年犯罪の関係を示す研究はないと思いますが、人々は頭の中でこのような関係があると考えているようです。と申しますのは、こうして皆様に東京でお会いしているように、いろいろな人たちとお話をする機会があるときに、この問題が出てくるからです。母親が働いているから、子どもが悪くなるのだと考えるのです。私は、これが大変心配です。裏付けるデータというものは存在していないのです。それからもう一点、犯罪そのものに焦点を当てるよりも、むしろ反社会的行動、不適応の原因を調べるべきなのではないかと思います。注目されるのは、反社会的行動や不適応が極端に走ったケースだからです。不適応の、あるいは反社会的行動をとる子どもが皆、銃を持ち出して人を殺すわけではありません。あくまで極端なケースです。武器が手に入りやすいかどうかにもよります。子どもの社会的発達と社会的発達に影響を及ぼす家族の状態について、研究した情報があります。不適応や反社会的発達、あるいはマイナスの影響に片寄らせるその他の条件がもたらされる、家庭内外の環境を見ることができます。私どもの研究に、犯罪行為にまで走ったケースが1件でも見つかるかどうかわかりません。少なくとも、そうしたケースがないことを願っています。しかし、予見できるものでもありません。問題が起こったときに、さかのぼって、こうした原因があったのかもしれない、ということはあるでしょう。結論を引き出すには、前方視的かつ長期的な研究で、関連付けが必要になります。今までのところ、これを裏付けるデータはありません。
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牧田さん: |
ありがとうございました。
日本には「育児」と「保育」という二つの言葉があります。アメリカでは「チャイルドケア」という一つの言葉だそうです。冒頭で小林先生が「チームによる子育てをしようよ」とおっしゃいましたけれど、この「チャイルドケア」という言葉を、保育者と母親をつなぎ、社会全体で子育て支援する言葉として広めていただきたいと思います。
スクリーンに「質の高い保育」を考えるたくさんのキーワードも出ました。各先生方のアドバイスとともに、明日からの保育の場で生かされることを期待しています。
最後にフリードマン先生に、どこの国でも普遍的に保育で大切なことについてコメントをいただきます。よろしくお願い致します。
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フリードマン博士: |
ひとつ申し上げておきたいことは、保育は家族と同様、人が作り出したものです。それ自体がよいとか悪いとかいうことではなく、成功や失敗は、私たち次第なのです。このことは、非常に重要な点として考えるべきことだと思います。と申しますのも、保育は何か悪いもので、子どもの世話をしなくてはならないのは母親だけだという考えられることが、しばしばあるからです。
2番目に、保育は、家族の子育てを支援するためのツール(道具)であるということです。保育は家族にとって代わるものではなく、家族が子どもに対して負う非常に大切な責任を、すべて担うことはできません。
3番目の点は、パネリストの先生方、また会場からも指摘された点です。保育を有用な、また成功させる仕組みにするためには、社会全般、また個々の家族レベルでの作業が必要となります。もう少し詳しくご説明いたします。社会が女性の労働力を必要とするならば、その社会の価値観や目標に沿った形で、安全かつ子どもの発達を促すような保育の仕組みを提供しなくてはなりません。社会の価値観や目標に沿った、というところが非常に重要です。どの社会も同じ目標を持っているわけではありません。米国のような国では、異なる人々の集団は子どもの発育、特に社会的発達に関して異なる目標を持っています。特に、個人主義に対して、自らの意志を他に委ねるチームの一員、という捉え方の問題があります。人の発達、養育という点で、何を達成したいかによるわけです。子どもたちにどのような人間になってもらいたいのか。それぞれの社会が自ら決定を行い、提供される保育がこれらの価値観をサポートするようにしていかねばなりません。
米国では女性の労働力が必要とされていますが、それぞれの州や連邦政府は、働く母親の子どもたちの安全や福祉のための資源に、十分な投資を行っておりません。女性の労働力が必要なことに疑問の余地はないのですが、社会資源の分配をめぐる政治的な問題による理由が大きいのです。保育にどれほどの投資をすべきか、まだ社会で結論が出ていません。母親が働いている間、子どもたちには質の高い保育が必要だという認識はありますが、どの程度が十分で必要な質かという点で、政策立案者や乳幼児発達研究者の間でまだ意見の一致が見られておりません。研究に携わるものとして、ひとつの問題は、どの程度の質の保育を提供する必要があるのか、もしくはどの程度までなら提供できるのか、という点です。行政当局では、子どもの最適な発達を促す投資をするというより、子どもの発育に悪影響が出る手前で、どのあたりの質の保育を提供すればよいのか、程度しか考えていないところもあるようです。また、女性の労働力を必要としているのは、社会一般に限りません。もちろん、雇用主も女性労働力が必要です。保育を提供する、あるいは女性が保育費用を払うことができるだけの手当てを認めることで、有能な女性を採用、確保できると、認識され始めています。しかしながら、大多数の雇用主は、従業員が質の高い保育を見つけるための支援はほとんど、あるいは全くしていない状態です。女性が安心して働けるために、保育はとても大切です。子どもがよい保育を受けていれば、母親はより仕事に集中し、企業により貢献できます。しかし、雇用主はこれを認識しつつ、多くの策を講じていません。
しかし、よい保育を可能にするために調整が必要なのは、社会のレベルだけではありません。個々の家族も調整が必要です。母親の就業と子どもの福祉という目標を結びつけるために、生活を調整していく必要があります。日本の母親たちは、自己中心的になりすぎている、という話を先日耳にいたしました。自分たちのためになるものばかり欲しがるというのです。私にはわかりません。母親たちが本当に自己中心的とは、私には信じられません。ただ、以前と同じ目標のまま同一の生活をすることはできませんし、昔のような活動や経験をそっくりそのまま、子どもたちに必ずしも提供できるわけではないのです。母親が働いている、という事実に合わせ、すべてを少しずつ変えていかねばなりません。
まず、子どもたちにとって、家庭内外における質の高い保育、質の低い保育とは何かを認識せねばなりません。親たちが質の高い保育が何であるかを知らない、という調査結果もあります。この点を教育することで、家族自らが直接に質の高い保育を行い、また子どもたちに質の高い保育を受けさせることが非常に重要です。現在、親は質よりも利便性や有用性、ということで保育を選んでいます。そうではない方向に親の教育をすることが大切です。
家族の調整という意味では、子育ての責任分担、また親が働いていないときの時間の使い方での調整が必要です。父親が母親を十分にサポートしていない、という話が多く出ました。しかし、もし母親が働いていれば、母親にすべての負担を負わせるのは不可能です。子育てやそれ以外の仕事の分担を、家族が一緒に考えなくてはなりません。従来のように母親が家のことをすべてやり、なおかつ外で働き、家計や家族の幸せに貢献することを期待するのは、難しくなります。
また、親が家を離れて仕事をする時間についても調節が必要です。子どもの心を読みとり、反応する時間を持つことが大切だとわかっているからです。労働時間について考え直す必要があるでしょう。母親は働かず、父親がフルタイムで、あるいはそれ以上で働きに出るといった、すべてかゼロかの選択ではなく、父親も母親も働くことができる、ただ少し労働時間を短く、ということです。口で言うのは簡単ですが、仕事上は多くの圧力がありますし、社会の圧力もたくさんあります。しかし、社会もこれらの問題を考え直すべきです。基本的に申し上げているのは、保育は単に家族の問題ではない、ということです。次世代を担う子どもの発達に焦点をあて、多くの関係者がやり方を変えていかなければならない、社会的な問題だということです。
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司会: |
ありがとうございました。それではここでパネルディスカッションを終わりにさせていただきます。本日はみなさまありがとうございました。
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