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小林 登文庫
小 論 ・ 講 演 選 集


医療・医学に関する小論・講演(1999年以前に発表)

優しさを科学する、看護の基盤理念を求めて
1995 Quality Nursing・別刷 Vol.1 No.6

 看護教育から離れて10年になるが、その間の発展には素晴らしいものがある。特に、この3年間に看護系大学が3倍近くになったことを知り、驚くと共に嬉しく思う。
 国立大学医学部に奉職中看護学校長を10余年にわたり併任し、欧米の看護学校を視察したり、立場上、国立大学附属看護学校長会議の世話役、また、看護視学委員などをつとめたりしたので看護教育のハードウェア、ソフトウェアをいろいろと勉強する機会があった。当時は、特にアメリカの看護教育からみると、わが国の実情は大幅に立ち遅れていた。われわれがレベルアップのために熱心に進めたのは、専修学校レベルを短大化することであった。在任期間中、多少なりとも進めることは出来たが、その後10年間の発展には目を見張るものがある。今や、大学化を超えて大学院化の時代のようである。
 せっかくの編集子の求めなので、日頃考えていることを述べさせていただく。看護教育の水準が高くなれば、当然のことながら看護の水準は良くなる。しかし、看護の看護学的な面、すなわち科学的な面、理念的な面のみが強調される危険が出て来る。その為、医師の行う医療との区別が明確でなくなる心配があるのではなかろうか。医師が批判されているように、疾病をみて患者という人間をみない、コミュニケーションに欠けるなどの過ちを犯すことを危惧するのである。
 医師は疾病を中心に、その担体として患者を捉えて医療を行う立場であり、看護婦は疾病を担う患者の生活を捉えて“医療”を行う立場であると私は考えている(勿論ここでは臨床に限るが)。したがって、医師と看護婦とでは、医療行為のベクトルは全く反対の方向から患者に向かっていると言えるのである。当然、この二つはお互いに表裏の関係にあり、相補的でなければならない。
 看護学が、疾病を担う人間としての患者の生活に対する医療行為の科学体系であるが故に、看護理論によって立つべき哲学は、分析論系、還元論的であるよりも、統合論的、全体論的でなければならないと思う。とは言え、疾病が起こす病態などは、生化学的、あるいは生理学的な反応として捉えるべきものであり、分析論的、還元論的立場を否定すべきではない。看護学の立場はむしろ、分析論、還元論の立場をとり込み乗り越えた統合論、全体論の立場でなければならない。これを、「ホロニズム」“holonism”と呼べる。
 ホロニズムでいう、「ホロン」“holon”とは「全体子」と呼ばれ、分析論、還元論の「アトミズム」“atomism”の「アトム」“atom”「原子」に対するものである。「全体子」は、全体的特徴“holos”と部分的、粒子的特徴 “on”(例えば、electron, proton)の二面性を有するものである。この理念は、科学哲学者A.Kestlerが提唱したものであるが、その体系付けにはシステムとか情報という考え方も必要である。
 この様な看護理論の哲学に立つ看護技術の基盤へのアプローチのひとつとして、「優しさ」を科学的に捉えることを強調したい。勿論この考えは、人間に関係する立場ならどのような場合でも、職業の技術基盤を支えるものとして重要であると考える。
 特に看護は、病に痛み、苦しみ、悩む患者の生活に対する医療行為になるが故、優しさで代表される人間的なもの、心が重要であることは言うをまたない。それは、患者の痛み、苦しみ、悩みを読み取る共感の心で、優しく勇気付ける、生き甲斐を持たせ、生きる喜びを一杯にするエモーショナル・サポートとでも言うべきものである。それは、看護の医療行為の中で、言葉からはじまって態度まで全体的に表され、そして治療効果に結びつくものである。
 呼吸停止、心拍停止、瞳孔反射の失意によって、一般的に定義される「死」に対して、私達はいくつの言葉を用いて表現しているであろうか。「死ぬ」「死亡する」「亡くなる」「逝かれる」等々、死者の社会的立場や年齢によってもいろいろな表現が用いられていることは周知の通りである。英語でも“die” “pass away” “be gone”と同じ様に、いろいろな表現がある。患者さんや家族の方々との対話の中で、どの言葉を選んで表現するかによって、感じ方が異なることはどなたでも理解されよう。言葉は心なのである。共感の心から出る優しさを持って、看護の現場では言葉を選ばなければならない。
 ここで問題になるのは心と体の関係であって、これは従来から心身医学でも論じられてきたことである。私の場合は、小児科医として情緒(または母性)剥奪症候群“emotional (or maternal) deprivation syndrome” の事例から、優しさを科学的にみたいと考えたのである。この症候群では、優しく可愛がられて育てられない為に、子どもの身長・体重の増加が見られなくなり、(身体成長の停止)、IQの低下、(知能発達の停止)が見られるのである。この階段状の身長・体重曲線を見ると、可愛がられないが故に、心のプログラムが円滑に作動せず、体のプログラムが乱れ、心と体のプログラムでチューニングされる発育のプログラムが不調に陥ると説明することが出来よう。
 さらに、1989年パリの国際小児科学会議で、チリのモンケベルグ博士は、栄養失調の子ども達を治療するにあたり、優しく世話をするボランティアの女性を付けると、同じ治療法でも体重の回復が良いばかりか、栄養欠損による免疫不全で起こる反復感染の頻度は約5分の1に低下し、死亡率は0になったと報告した。優しさによって免疫反応のプログラムも強化されるのである。
 そして、1991年のJAMAに発表された論文では、ドゥーラ(エモーショナル・サポートをする分娩介助のコンパニオン)が付くことにより、分娩時間の短縮、オキシトシン投与量の激減、出血などの分娩合併症、さらに新生児仮死などの合併症もその頻度が低下したのみならず、産褥熱さらに新生児肺炎・下痢症などの母子感染合併症の頻度も低下することを報告した。エモーショナル・サポートが分娩のプログラムを円滑に作動させると共に、母子の免疫反応のプログラムも活性化しているのである。
 重要なことは、これらの研究は看護記録などで得られる情報で行っていることである。勿論、研究である以上、充分に検討した良い研究デザインでなければならない。
 この様な「優しさ」という情緒的なものと発育とか免疫とかの生体機能との関係を検討するとすれば、血中のホルモンとかニュロ・ペプタイドなどの生理的活性因子、さらには免疫グロブリン、サイトカインとか、T・Bリンパ球数などの変化を定量的に評価する必要があると考える。正に分析論である。しかし、脳や関係する組織中でこれらの因子を追及することは困難であり、因子によっては破壊速度が速いので研究はいろいろと制約を受けるのである。逆に全体論的に見れば、体重測定などの簡単な方法でも、充分に評価に耐える研究は出来るものである。
 この様な考えを「優しさを科学する」と題して何回か発表する機会があったが、見落としているかもしれないが、医学側の反応は残念ながら弱い。「優しさによって、合併症や死亡率に差があるとは考えられない」として一笑に付した教授さえおられるのである。従来から言われている神経・心理内分泌学 neuro-psychoendocrinology、あるいは、急速に進歩しつつある神経・心理免疫学 neuro- psychoimmunologyの現状をご存知ないのである。今や、「優しさ」の生体に対する意義は、新しい見方で科学的基盤を得つつあるのである。
 最後に、私の希望を申し上げたい。看護大の大いなる飛躍が現実になっている現在、理念的にも実践的にも看護の独自性をますます強化していただきたい。医療の現場で、看護婦も医師と平等なパートナーシップを得つつあるが、そのようにして看護教育を強化し、充実することによってそれを加速し、患者の為により良い医療が出来るようになると思うのである。世界は、北のロシアから南のアフリカまで、わが国でも政治、経済から社会文化まで思想的にも実践的にも大きく揺れ動き、リストラが進んでいる。医療も例外ではない。看護が、そのリストラで大きな役を果すことは間違いない。この小文が、看護学の研究と教育に少しでも役立ち、それに寄与出来れば幸いである。


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キーワード: 看護教育 掲載: 2005/03/25