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小林 登文庫
小 論 ・ 講 演 選 集


医療・医学に関する小論・講演(2005〜2010年発表)

わが国でもドゥーラ制度をつくろう
2005 チャイルド・リサーチ・ネット

 「ドゥーラ」“doula”とは、そもそもはギリシャ語で「奴隷」という意味であるが、現在では妊娠・出産・育児をする母親を助ける女性のことで、ギリシャの社会では尊敬されている。男性について、現在使われているかどうか知らないが、下働きの人をさすようである。
 5年程前、ギリシャからきた女性ジャーナリストにドゥーラという言葉を出したら、何故知っているのかと驚かれた。したがって、現在でも存在しているに違いない。
 ドゥーラに関心を私が持ったのは1970年代の後半、国際小児科学会の理事会がパリで開かれ、帰途にその昔留学していたロンドンの小児病院を訪問した事があった。その折、行きつけた医学書店に出かけ、何気なく買い求めたDana Raphaelの本“Tender Gift, Breastfeeding”がそもそもの始まりであった。その本で、母乳哺育で最も重要なのはマザーリング・ザ・マザー(母親に対してその母親のように優しくする)であり、エモーショナル・サポートである事を学んだ。そこにドゥーラが紹介されていた。

 Danaさんは、コロンビア大学でMargaret Mead教授のもとで学んだ文化人類学者であるが、学生時代から医学人類学に関心を持った。卒論のテーマに「母乳哺育」を取り上げ、文化人類学的手法を用いて研究し、エモーショナル・サポートの重要性を見出したのである。
 ある時、ギリシャ移民の友人の家を訪問し、その事を得々と話したところ、暖炉の脇でロッキングチェアーに座って、それを揺らしながら聞いていたおばあちゃんから、それをする人を、ギリシャではドゥーラと呼ぶのだと教わったのである。
わが国でも、その昔いたお産婆さんが、ドゥーラの役を果たしていたのであろう。そして、伝統文化を含めたそれぞれの文化の中で、同じような女性が、日本やギリシャ以外でも居た、あるいは今でも居るに違いない。生命のバトンタッチの妊娠・出産・育児における女性の助け合いこそが、「女性の英知」と言うべきものである。

 当時、わが国にもドゥーラが居ないだろうかと思っていたところ、母乳哺育に熱心だった群馬大学小児科教授の松村先生が桶谷さんを御紹介下さった。桶谷さんは助産士で、乳房のマッサージ術を考え出し、それを生業にされたのである。彼女を高岡に訪ねたのは、30年以上も前の3月初めだったと思う。クリニックに参上し、お仕事ぶりを拝見して外に出た時、まだ沢山残っていた屋根の上の雪が、春の日差しで溶けて流れていた。澄きった明るい快晴の青空をバックに、雪水が太陽に輝きながらポタポタと落ちていた事が、現在でも目に浮かぶ。わが国で、今でもドゥーラが活躍しているという感慨が、私にとって大きかったに違いない。

 桶谷さんは、勿論ドゥーラとは直接関係なく、助産学とマッサージ術を組合せて、独特の素晴らしい乳房マッサージ法をあみ出したのである。しかし、母乳哺育している母親達の乳房を優しくマッサージしながら、子育ての悩みを聞き、色々とアドバイスしている姿は、正にドゥーラだと思った。悩み事の中には、子育てに直接関係する事ばかりでなく、「夫婦関係」や「嫁姑」の事まで色々あったに違いない。正にマザーリング・ザ・マザーである。

 マッサージによって乳房の苦痛を取り、話し合いによって、子育てに関するストレスを取り除き、母親を精神的・心理的に安らぎをもたらす。その結果オキシトシンやプロラクチンの分泌が良くなり、母乳分泌を良くするのである。マッサージ中に射乳反射さえ見られる事は、その証左であろう。
ドゥーラの考えは、1980年代に入りアメリカで母子医療に持ち込まれ、母子相互作用という理念を立てたKlaus, Kenellなど 2、3の研究者によって紹介された。私も重要だと考え、書いた小児科学教科書にはそれを入れた。しかし、わが国には、この考えが実践の場で余り普及しなかった。おそらく、保険点数などにならないからであろう。

 驚いたことに、上海では「ドゥーラ」がちゃんと制度として存在するのである。2003年の3月、上海の中国福利会平和婦幼保健院を訪問する機会があった。それは、国家名誉主席であられた栄慶齢女史が、1952年にソビエトからノーベル平和賞に対比される国際平和賞(スターリン賞とも呼ばれている)を受賞され、それをもとに設立した、女性・小児の健康を守るため保健と臨床を組み合わせた370床程の病院と施設である。

 この病院は、臨床部と保健部に分かれ、臨床部には、産科(産科と新生児科)と婦人科(一般婦人科、腫瘍科、乳腺科)があり、新しい検査・治療の機器を具えていて、わが国の新しい病院にもおとらない、近代的な医療施設である。保健部は、上海市ばかりでなく中国全土の専門家に、産児制限や人工妊娠のなどの技術の専門家の研修・養成事業を行っている。いわば、わが国の愛育病院・愛育研究所を大きくしたような施設である。

 その病院のVIPサービスと称する病棟には「導楽」という「ドゥーラ」のサービスがある。特別料金を支払うのであるが、入院した時それぞれの導楽(助産婦)が個人的な考えを述べている写真を見て、その中から産婦さんが好みの導楽を選び、契約するのである。陣痛が始まったら、腰を撫でる、優しく勇気づけるなどのキメ細かいサポートを受けながらお産をすることができ、その効果は素晴らしいものであるという。分娩時間の短縮、出生合併症の激減、出生した子どもの殆どは問題を起こさないのである。

 20世紀は科学・技術の時代、わが国を含めて先進国は豊かになった。しかし、世紀末になって、物質中心の社会では生活・産業廃棄物の山、大気・水・土壌の汚染などの問題ばかりでなく、大人も子どもも心理や犯罪などの行動問題など、多様な問題が多発するようになった。妊娠・出産・育児に関係する問題も例外ではない。わが国でも、ドゥーラのような庶民に根ざした、さらには女性同士の助け合いシステムが消えてしまった事が、社会の優しい心の力を弱くし、妊娠・出産・育児に関係するいろいろな問題を起こしているのである。それがある意味では、少子化とも関係しているにかもしれない。

 現在、豊かさを支える科学・技術を否定してはならないが、それを取り込み乗り越えなければならない時にある。わが国でも、ドゥーラのような考えを拡大し、それを制度として取り入れ、妊娠・出産・育児をより良いものにしなければならないことは明らかである。それは、世の人々の考え方、すなわちパラダイムを大きく変えることになり、21世紀を「心」の時代、「人間」の時代にする力にもなると思うのである。

 同じ様な考え方が、妊娠・出産・育児だけではなく、最近は医療にも熟成して来たように見える。アメリカでさえ、代替医療Alternative Medicine、あるいは補完医療Complimentary Medicineと呼んで、従来全く認められなかった東洋医学などを、西洋医学と組み合わせ、医療を人間的なものにしようとしている。正に「心の医療」を求める「医療の人間化」は、世界的なトレンドなのである。


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キーワード: ドゥーラ、Dana Raphael 、東洋医学 掲載: 2005/06/10