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小林 登文庫
小 論 ・ 講 演 選 集


その他子どもに関する小論・講演(2000〜2004年発表)

「子ども学」によって21世紀こそ子どもの世紀にしよう ―パラダイムの転換を求めて―
2000 『子ども学』 第2号3-12 甲南女子大学国際子ども学研究センター

 スウェーデンの女性思想家Ellen Key(1849-1926)は、1900年に「児童の世紀」 "Barnets dr hundrade"を刊行し、20世紀は「児童の世紀」(子供の世紀)にしなければならないと論じた。すでに50歳に達した彼女は、1870年代ヨーロッパ各国で起こった、教育制度を整理・拡大・充実し義務教育化する動きを見て、20世紀こそ、子どもが幸せに育つ平和な社会を築かなければならないと考えたものと思われる。

 しかし、今20世紀を終わりつつある現在、わが国の子どもたち、さらには先進国の子どもたちにとって、今世紀は良い世紀だったといえるだろうか。もちろん発展途上国では、事態はさらに深刻である。筆者は、子どもたちの問題ばかりでなく、今世紀末の湧き出た社会の諸問題を考え合わせると、子どもを対象とする学問体系の専門家がパラダイムを転換して、一堂に会して話し合う必要があると考える。そのような、学問的な話し合いの場を形成する理念的な柱として「子ども学」を提唱してきた。

 本文では、なぜそれが求められるかを論じたい。


1.人間の歴史の中での「今」を考える。

2.20世紀末の兆候

3.パラダイムの転換を求めて

4.「子ども学」―子どもに関係する学問にもパラダイムの転換が必要



1.人間の歴史の中での「今」を考える。

 2000年、平成12年は、今世紀(century)最後の年であるとともに、新しい千年紀(millennium)の始まりの年でもある。"century"も"millennium"もキリスト中心に歴史の上で年を数える基準である。

 "century"は、キリストの誕生した年を元年として計算しているのは周知のとおりで、民族主義の立場をとれば、いろいろな世紀のあり方が出てくる。わが国では、明治5年(1872年)、初代天皇の神武天皇即位の年を西暦紀元前660年と定めて、これを皇紀元年としたが、現在は用いられていない。また、イスラム教徒は、西暦662年のヒジュラ(マホメット聖遷)をイスラム紀元元年としている。

 英語の"century"は、ラテン語の"saeculum"(世代・時代・100年)から派生したフランス語から始まり、12世紀には用いられていたという。しかし、現在の第何世紀という表示は、17世紀に入ってからで、意外に新しいものなのである。

 100年に対する1000年の区切りが"millennium"であるが、イエスの到来(または復活)から(再臨)までの期間を意味する。西暦1000年ごろに大きく取り上げられたが、現在は主として考古学で用いられている。

 "millennium"をどこから数えるべきかは難しい問題であるが、記録に残っている文化・文明の始まりから取るとすれば,第1の"millennium"は、紀元前、有史以前のそれであり、神話時代に始まりエジプト文明・ギリシャ文明に終わったものであろう。勿論、化石人類学から見れば人間には500万年の歴史があり、その前に"millennium"を何度も繰り返していたことになる。

 第2の"millennium"では、神話から脱却して、キリスト教を含めて世界宗教が体系付けられ、古典文化を創った時代である。もっとも、キリスト誕生からを厳しくとれば、第1世紀から始まるこれが最初の"millennium"になる。

 それに続くのが第3の"millennium"であり、それは、昨年の1999年をもって終わったことになる。この"millennium"では、国家が組織化され、文化が文明化された時代である。特にその最後の100年の20世紀は、科学・技術の進歩によって文明化は加速され、波乱万丈の時代となった。

 この"millennium"の中で最も重要なことは、人権が確立したことであろう。人権という考え方は、マグナ・カルタによって国王に対するイギリス貴族・僧侶の権利として始まった。その後、イギリスで何回かの市民革命を経て、人権は徐々に確立したのである。

 続いて、イギリスからアメリカにわたったピューリタンの人々による200年前のアメリカ独立戦争、続いてフランス国内ではじまったフランス革命でやっと「市民の権利」になった。しかし、それは「男性の権利」であった。国際連盟に続いて国際連合によって、第二次世界大戦後やっと、女性や子どもにも、それが認められるようになった。子どもの権利は1989年で、人間の権利として最後のものであった。権利の確立は、まさに第3の"millennium"の大事業であったと言える。

 そして第4の"millennium"が今年始まったことになる。

2.20世紀末の兆候

 宗教的に"century"や"millennium"は、その終わりとか始め、特にいろいろな出来事がおこれば特別な意味を持つことになる。特に今年は、20世紀の最後の年であり、新しい"millennium"の始まりで、その思いは強い。わが国で最近起こっている社会・経済・政治・宗教などの混乱は、「世紀末」という言葉に結び付けて論じられているのは、それによろう。

 この「世紀末」という言葉は、そもそも前世紀末期、1886年パリで上演された風俗喜劇のタイトル、"fin de siecle"の「世紀末」である。19世紀末のヨーロッパの思想・哲学にみられた特徴を広くまとめて、デカタンスやスノビズム(退廃趣味や俗物主義)を世紀の終末の兆候や意識の代表としてみたのである。19世紀を通じて流れていた文化の中に潜在していたものが表面化したものと言えよう。

 現在の我々の周囲に起こっている子ども達の問題も、20世紀の世紀末の兆候のひとつとしてみるべきかも知れない。勿論、社会のいろいろな混乱状態とも関係しよう。そこには、10前には想像もできなかったような現実があるのはご存知のとおりである。

 20世紀最後の年にあたり今世紀を省みると、想の深いものがある。その前半で2つの世界大戦を経験し、その後半では科学・技術の進歩のおかげで、少なくとも先進国は豊かな社会を作り上げた。しかし、発展途上国では、局地戦ではあるが、石油資源、さらに宗教や領土の問題による戦争が続き、貧困と飢餓に苦しんでいる。

 今、世紀全般の2つの大戦で、戦争の形式が科学、技術により非戦闘員、特に女性と子どもを巻き込むようになったことも忘れてはならない。

 わが国についていえば、第二次世界大戦の荒廃の状態から考えると、現在の生活の豊かさは想像をはるかに越える。有り余る物資や食糧、発達した交通・運輸、そして自動車・新幹線・飛行機と国内ばかりでなく外国まで広がり、宇宙旅行の話さえも出ている。また、テレビは勿論のこと、携帯電話や、インターネットの普及からみると、最近の情報化も目を見張るものがある。そして情報機器のデジタル化は、さらに大きな変化をもたらすことに間違いない。エネルギーも、石油ばかりでなく、原子力を利用し、生活に必要な夏の冷房、冬の暖房までの電力をまかなっている。医療でも、難病を含めて、いろいろな病気をコントロールすることが可能になり、子どもも少死化し、長寿社会が進んでいる。

 しかし、身の回りには、産業廃棄物ばかりでなく、生活廃棄物の山、廃車をつぶしたみにくい金属板が山積みになり、原子力燃料から出た放射性廃棄物は捨てるところがなく、最近になっては、臨界事故まで起こしている状態である。

 先の"millennium"に確立された人権についても、わが国の人権問題はまだ少ないが、現在世界あちこちの民族紛争では、第二次世界大戦のナチス以上の大量殺人が行われている。戦争はますます女性や子どもたちのような非戦闘員を巻き込んで難民を作り出している。戦争と関係ない豊かなところでも親による子どもの虐待、そして殺人まで多発しているのである。宗教によってでさえも、同じことが起こっているのは、ご存知のとおりである。

 このような出来事を見ると、21世紀に向かって社会のあり方、生活のあり方を、何か大きく転換しなければならないということを我々に教えている。



3.パラダイムの転換を求めて

 20世紀の世紀末の兆候の根源はどこにあるか。その答えを出すのはきわめて困難である。清水らによれば、現在の社会の混乱の基本は、デカルトの考え方、すなわち西洋の伝統的カルテシアン哲学の破綻にあるという。デカルトの哲学は自分と他人を分けて客観的に考える自他分離がすべての出発点であるが、それが、行き詰まり、逆にいえば、包括的、統合的、また学際的に考える、さらには我々東洋人が持っている東洋的な考え方も、考え直して取り込まなければならないという発想である。

 インターネットで世界を結んでしまうというような現状から見ても、関係とか、共生とか、共創とか、さらには西田哲学のいう場とか場所とかいう考え方を取り込んで、我々の考え方を再編成しないといけない時代になっているというのである。

 ご存知のようにデカルト(1596-1650)はフランスの哲学者で,"discours de la methode"を1637年、亡くなる10数年前に発表した。要するに、学問において、真理を追求するための方法は、自他分離にあり、客観的に見る、科学的に見ることとは何かを論じた。"cogito ergo sum"と我々が昔習った考え方である。

 自分と他人を分けて客観的に見なければいけないという考え方は、要素還元主義、そして分析論を体系付けた。それは、まず無機化学を、ついで物理学を発展させ、つづいて有機化学、そして生命現象を追求する方法に大きく関係し、生物学でも分子生物学とか遺伝学へと、400年近くかけて現在の自然科学体系に広がった。現在我々が物を考えるときには、分子・原子まで、体を考えるときには細胞、さらには遺伝子まで考える時代に入っている。

 そういう分析論的な考え方、atomismー原子論的な考え方、あるいはreductionismー還元論的な考え方が、科学技術を発展させて、私たちの豊かな社会を築いた。たとえば、動物組織から抽出したインシュリンを使っていた我々は、人間のインシュリンの遺伝子を取り出して、培養細胞の中に組み込み,それを培養するという遺伝子工学による方法でインシュリンの大量生産を可能にし、多くの糖尿病患者に貢献していることは明らかである。

 しかしながら、冒頭に申し上げたように、現在我々の身の周りでは生活廃棄物や産業廃棄物の山、医療廃棄物の輸出問題、さらには我々の生活空間までもがいろいろな化学物質によって、汚染されている。グローバルに見れば、南米やアジアの森林の伐採から始まって環境破壊まで、生活の豊かさを求めるが故にいろいろな問題が起こっているのは周知のとおりである。

 従って、ここには自他分離では済まされない現実がある。今我々は、関係とか共生とか共創、さらに場とかいう考え方も取り入れてこれからの道を探りなおす必要がある。自然と共に生きる、他者・異文化の人々とも関係を持つ、などが求められているのである。それには、学問のパラダイムの転換が求められている。

 このような問題について、外国でも関心があり、ドイツの哲学者、心理学者、数学者、物理学者が参加した会議も何回か開かれ、ドイツでは「場」に準ずる考え方として、"syntopy"「場を共にする」という考え方の提唱さえもしている。それこそ要素還元主義の伝統的な国であるドイツでも、学問的にはそういう新しい方向を求める力が強くなっているのである。

 第二次世界大戦直後、ドイツはまず第一に子どもたちの教育だと考え、学校のあり方を変えたという。先生が教壇に立って生徒に教えるという従来のクラス形式から、先生も生徒も一緒に学ぶという方式に小学校から変えたという。やっとわが国でも最近になって、従来の私たちが習った先生と生徒という関係でやるような授業ではなく、「総合的な学習」も含めて、授業のあり方を変えている。そういうようなことを終戦直後にドイツは始めている事実は、ドイツのグループが"syntopy"という発想を持った事と関係しよう。

 しかしながら、生命現象については、一般的にもreductionismのみではすまされないと考えられてきた。しかし、分析論的な考え方を否定したら、今の豊かさをつくる科学・技術の基盤は失われるわけで、それを否定することなく取り込み、乗り越えて、統合論的というか、関係とか共生、場とか場所ということも考える理論に転換しなければならないのである。

 生命は、ビッグバンから始まって、元素、原子、分子が出来、物質そして地球が出来、その原始の海の中でたんぱく質、核酸が出来、そして原始的な単細胞ができたと考えられている。その原始的な単細胞が出来たときに、ミトコンドリアとの共生があって、多細胞動物に発展したともみられる。生命は、誕生という点からみても、共生が出発であったといえる。

 したがって、生命とか人間を考える場合には、いつも対立する考え方、つまりreductionismとholismー還元論と全体論、分析的に見ると統合的に見る、決定論的に見ると確率論的に見る、さらには、ダーウィニズムに対するラマルキズムという考え方、教示的な考え方と選択的な考え方もあるという様に、常に2つの対立する立場から、私たちは生命現象をみてきた。生物としてのヒトと文化を持っている人間、セックスでも、ジェンダーという考え方、あるいは心と体というように、生命あるものは常に2つの側面があるのである。

 生命体には階層構造があって、原子、分子から高分子になり、細胞内の小器官になり、細胞ができ、組織ができ、器官ができ、器官系ができ、個体ができる。さらに集団ができ、社会ができ、生態系ができ、地球というように生きている状態は広がっていく。この生命体の階層構造を上から下に向かえば分析論的、下から上に向かえば、統合論的になっていく。従って、生命体は常に2つの側面を持っている。その2つの側面をどのように統合して考えていくかということが今私たちに問われている。

 この2つの立場を統合するという考え方は、この20年ぐらい、科学哲学の中で大きな論争であった。それを整理したのがArther Kestler、ハンガリー生まれの左翼的な哲学者で、スペインの反フランコ闘争などにも参加したが、最後はイギリスで尊厳死協会に関係し、自らが安楽死の道を選んだという。

 彼はホロン(holon)という考えを提案している。"holos (whole)"はホロニズムー全体論の「全体」という意味で、"on (particle)"は「粒子」という意味である。ホロン(全体子)は分析論的側面と全体論的側面とをあわせ持つような状態で、それが生命ある状態であるというのである。生命は、全体と部分の2つの顔、双面の顔を持ったヤヌス的存在なのである。ヤヌスというのは2つの顔を持った神で、ヨーロッパに行くと良く見る像である。

 上述の階層構造は、organic hierarchy (有機的階層構造)で、自然に自己組織化されるものである。人間の場合は、受精卵から出発して、父母から受け継いだ新しい遺伝子の組み合わせの情報によって自己組織化され、生きているヒトなり人間ができるといえる。stableでself-controllingなorganic hierarchyを持ったシステムが、生命だといえる。


4.「子ども学」―子どもにも関係する学問にもパラダイムの転換が必要

 現在、我々は、それぞれの立場で、子ども達のいろいろな問題行動に対応せざるを得なくなっている。登校拒否・不登校、いじめ、校内暴力、せいの逸脱行動(女子)、それぞれ異なったパターンがあるが、家庭や教育現場で明らかになる以前、頭痛、嘔吐などの身体症状を訴えて、小児科医を訪れることも多い。医学までも巻き込んでいるのである。喫煙・飲酒問題は別としても、その上性の逸脱行動には、援助交際などの新しい問題も加わり、21世紀の社会はどうなるかと危惧される。

 このような問題を解決するためには、それぞれの専門家のみでは解決できないことは明らかである。心理学・教育学・社会学・保健学など子どもの問題に関心あるすべての学問分野の研究者が、自他分離を乗り越えなければならない。

 教育とか育児とか保育とかに共通するのは「育つ」ことである。保育は、施設で、あるいは集団で育てることの意味で、育児はどちらかといえば、母親や父親が育てるという子育て、教育は教え育てるという学校が中心で育てることである。お互いに深い関係にある。

 それぞれの専門分野の学術のパラダイムを転換して新しい理論を体系付ける必要があると、教育・保育・育児の実践的な立場からも言えるであろう。その基盤となる体系を「子ども学」とし、それを体系付け、普及することが求められる。

 子どもを捉えるには、いろいろな立場がある。子どもをヒトの一生のライフサイクルやライフステージの中で育つ人間的存在として、生物学的な側面と社会的な側面を持つという立場で見るのがひとつである。他は、親というか、先行世代が作った人間的な存在、これも当然のことながら、生物的に見ると共に、社会的に見なければいけないといえる。

 重要なことは、単にライフステージではなく、ライフサイクルの中で見た子ども、という考え方を忘れてはならないという点である。現在子どもたちに対して行っていることは、この子どもが将来結婚して子どもをつくった世代にも影響することである。

 遺伝的な病気は勿論、しばしば目にするような子どもの虐待も、親から虐待された子どもが、大人になって子どもを生み育てるときに、同じ問題が起こるということは、周知のとおりである。従って、現在の大人の役割はきわめて重要であって、単にライフステージで、その子どもの一生に対する責任ばかりではなく、ライフサイクルを介して、次の世代にも関係があることを忘れてはならない。

 次に、子どもというものは、生物学的存在として生まれて、社会的存在として育つということで、「子ども学」ではその基盤も必要である。

 生物学的存在というのは、我々から見れば遺伝生物学の立場であり、社会的存在は、生物学で言えば小児生態学―チャイルドエコロジーという考え方になる。

 子どもの役割は何か、それは父親や母親の遺伝子によって受け継いだ遺伝形質を次の世代に伝えるということ、「内なる伝承」である。遺伝子から見れば実際的には、パートナーの遺伝子が半分入るので、半分ずつ伝えることになる。これは「身体内遺伝」"intracorporal heredity" ということが出来る。これに対して、もうひとつの伝承は、「身体外遺伝」"extracorporal heredity" 「外なる伝承」である。つまり、先行世代の文化を、次の世代に伝えることである。社会生物学者のドーキンスの考えであるが、その伝承には遺伝子と同じ因子を考えミーム(meme)と呼んだ。筆者はそれを「摸伝子」と訳した。脳の、真似るとか学ぶとか考えるとかいうような能力によって、次の世代に伝えていく。子どもはこの2つのものを伝えるからこそ、子どもを育て立派な大人にすることは極めて大切である。

 この2つの側面を学際的に専門を問わずよく理解できるようにするために、子どもをシステム・情報論から捉え、共通の基盤にすることを考えている。

 つまり、遺伝生物学的に捉えるということは体を、遺伝情報を元に細胞を組み合わせた組織、組織を組み合わせた臓器、臓器を組み合わせて自己組織化された生体システムと捉えることであり、生存を目的とする臓器系のそれぞれを働かせる、心と体のプログラムをもっていると考える。

 システムというのは工学の言葉で、ある目的を達成するために、お互いに影響しあうエレメントを組み合わせたものを指す。つまり、先ほど申したように、人間は生きることを目的としたシステムであり、脳は考えるというような高度な精神機能を働かせるニューロンのネットワークシステムであると考えるのである。そして、それぞれのシステムを働かせるプログラムも存在するのである。

 人間の体はいろいろなプログラムを持っているが、その体のプログラムを機械化したのが、自動車とか飛行機だと考えることが出来る。自動車は歩くことを目的としたもので、それを機械化して能力を高めたものである。心のプログラムを機械化したものがコンピューターであるが、現在は計算能力という限られた面しか機械化されていない。

 こういうシステムは1個の受精卵から細胞分裂して、2個になり、8個になって、自己組織化されて出来る。自分で組織化する力を持っているという点が生命の本質である。それと同時に、プログラムも自己組織化されて作られている。 プログラムは、あるシステムの目的を実現させるために、情報の伝達や交換を遂行するのに必要な、あらかじめ作られた手段、手順、あるいはそれを達成するためにコードを組み合わせたものである。

 人体の細胞や臓器を組み合わせたシステムは、その目的を達成するために、遺伝子、神経、ホルモン、酵素などのレベルで多様なプログラムがあると考えられる。

 産声と共に呼吸運動が始まるのは、呼吸というシステムにプログラムが作動して呼吸運動が始まる。あるいは音楽を聴いて美しいと感ずるのは、脳の中に美しいと感ずる神経細胞のシステムがあり、音楽でそのプログラムにスイッチが入るから、美しいと感ずるのである。

 胎児期や新生児期などの行動を見れば、教育や環境の影響を受けていないにもかかわらず、いろいろな行動をとることから、プログラムとシステムの存在は明らかである。システムは解剖学との関係、プログラムは生理学との関係で、だれにもすぐ理解できるものである。

 一方、社会的な存在としての社会は、人間を取り囲む、家庭・学校・社会などで、生態システムとして捉えられる。その生態システムは、自然因子、生物因子、物理化学因子、そして社会文化因子から成り立っている。しかし、人間の生存にかかわる生態因子は、つきつめれば物質と情報である。物質は体を作っているものでもあり、我々が生きていくために食物として取り込むものであり、さらに必要な水と空気もあるという意味のものである。人間生存には同時に、社会文化も必要で、それは情報として整理できる。その情報は、大きく分けて、知性(又は理性)の情報と感性の情報(logical information とsensitive information)に分けられる。

 感性の情報は、心のプログラムに作用し、それが体のプログラムにも影響する。知性の情報は、外からは心のプログラムにも関係するが、体の内ではインシュリンが糖の取り込みを支配するのは、ある意味では、インシュリンという分子がもっている知性の情報と言える。

 今、重要なのは、感性の情報の意義を考えることにある。感性の情報は、心のプログラムを動かし、体のプログラムを動かし、子どもの成長、発達、行動に影響する。かわいがられない子どもは、育ちが悪く、問題行動を起こすことは周知のとおりである。

 子どもは、生活の中で、心と体のプログラムが円滑に作動すれば「あそぶよろこび一杯」、「学ぶよろこび一杯」になり、「生きるよろこび一杯」"joie de vivre"になって、心も体もすくすく育つといえる。

結語
 Ellen Keyは、「20世紀を児童の世紀に」と論じたが、今世紀の終わりに近くなって子どもの権利は認められたものの、国内外をみると問題は山積みし、20世紀の最後の年になって省みると、Keyの言うようになったとは思えない。「21世紀を真の、あるいは新しい子どもの世紀」にするために、我々は過去のmillenniumに作り上げたものを取り込み、乗り越え、新しいパラダイムを求めなければならない。この立場から、子ども達の問題解決の柱として、「子ども学」を提唱したい。

(註)
 それぞれの文献は省略するが、拙著「子ども学」、(日本評論社 、1999)は参考になろう。また、人間の社会的諸活動の基盤について、科学技術庁の班を主催し、現在金沢工業大学「場の研究所」所長をつとめ、この方面の研究を展開している清水博の意見を参考にした。


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キーワード: Ellen Key、「児童の世紀」(子供の世紀)、「子ども学」 掲載: 2003/10/30