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ビデオゲームはマスメディアとディズニーの呪縛から逃れられるか
国立放送教育開発センター助教授  浜野保樹

 浜野氏はストレートにビデオゲームの内容と表現にこだわる。ビデオゲームは欲望主導型(=マスメディア)の、子どもを対象とした(=ディズニーランド)商品だと指摘する。そのためかビデオゲームのビジネスに参入している企業のほとんどが、顧客対象を低く見なしている印象を持つという。氏には、ビデオゲームの大成功によって、マルチメディア社会全体が多様な可能性を捨てて、特定の表現に向かっているという危惧がある。

 「ルーカスの『スター・ウォーズ』はアーケードゲームの感覚を活かしたものであるし、ビデオゲームのように何の脈絡もなく、次から次へと事件の起こるような映像が増えている。MTVの短いカットをつないだめまぐるしいばかりの映像にも、ビデオゲームと共通するものがある。テレビ番組が、皮相な感覚を重視し、注意の持続時間を短くしてしまったように、ビデオゲームも知らないうちにわれわれの意識や認識の仕方そのものを変えつつあるのかもしれない。それは、何もゲームで遊んでいる子どもだけでなく、すべての人に及んでいるのである」

 ビデオゲームというと、私たちはめまぐるしく移り変わる刺激的な映像ばかりをイメージしてしまうが、もっとさまざまな映像表現を試みる道もあるのかもしれない。氏はビデオゲームに批評的にかかわることで、新たな可能性を示唆する。
「かつて、映画やテレビが登場した時も、今のビデオゲームのように批判ばかりされていた。しかし、少なくても映画に関しては、古典といわれる作品を生んだではないか。新しいファンタジーの表現の手段が子どもたちにいきわたっているのだ。あとは内容を待つだけだ」


パーソナルなメディアの可能性
映像作家  岩井俊雄

 映像作家として活躍する岩井氏は、パソコンやビデオゲームの魅力が“インタラクティブ”という言葉に集約されている現状に疑問を投げかける。インタラクティブ”という言葉は“相互作用”と訳されて終わってしまい、コンピュータとのやり取りがもたらす結果まで表現し切れていないためだ。

 「あるアイディアがひらめいて、それを形にし始めると、その途中にはさまざまな試行錯誤があります。紙の上に書いたり、コンピュータで絵を描いたり、プログラムしたりとかいろんな過程がある。それが本当の意味でクリエイティブな体験と言えます。そしてその過程を丸ごと誰かに伝えられたら、まさしくそれは自分にとってそうであるように、相手にとっても魅力的な体験であるはずです」

 クリエイターが踏んでいく過程をビデオゲームのように追体験させることができれば、今までの芸術作品では絶対に伝えきれなかったものが、多少でも伝えられると氏は言う。例えば、フジテレビでかつて放映されていた子ども番組「ウゴウゴ・ルーガ」は、受け身で鑑賞を強いられるテレビをつくりかえてみたいという氏の欲求が形になったものだ。テレビがたんに情報端末としてあるだけではなく、別の価値観を生み出していくような掟破りの仕掛けを一番に考えたという。

 「映像メディアは大衆のために作られたメディアなのですが、その大衆とは何かといったら、それぞれちがった個人の集まりなんですね。ひとりひとり情報を得る方法も、映像を楽しむ方法もちがうわけだから、その人にとって最高の伝達手段を自分で見つけだせるのが、もっとも好ましい在り方ですね。その意味でビデオゲームを含めたパーソナルな映像メディアの可能性は大きいと思います」「例えば、テレビを買ったときに、チャンネルとは別にテレビ君モードみたいなのがあって、それをポンと押したらテレビ君の顔が出てきて、それが自分としゃべってくれるような存在になったら、テレビというものがただの窓ではなくて、親しみのもてる友達のようないとしい存在に変わると思うんですね。そういう世界を僕はいつも夢見ています」


大人のたじろぎとビデオゲームの実像
精神科医  小西聖子

 ビデオゲームに夢中になっている子どもに対して、漠然とした不安を抱く大人は多い。それに対して小西氏は、「ビデオゲームの影響など大したことはない」と言う。その理由の1つは、「大人は子どもの遊びの内容にではなく、熱中することそのものに対して不安を感じている」に過ぎないからだという。つまり、「熱中する子どもの統制されないエネルギー自体が大人の不安の源泉なの」であり、大人の不安の正体は大人自身が作り出しているものだと言うのである。さらに、「テレビがもたらした子どもの精神生活の変化に比べれば、ビデオゲームのもたらした変化は小さいものである」とも付け加える。

 さらに、氏はビデオゲーム中毒の子どもがいるのではないかという大人たちの疑心暗鬼に対して、「ビデオゲームはまだ『道具』であって『世界』にはなっていない」ことを指摘する。「ビデオゲームには、その中に引きこもってしまえるほどの世界はない。もちろん一日中ビデオゲームに熱中することはしごく簡単である。マリオをやったり、テトリスをやったり、ドラゴンクエストをやっていればすぐ時間は過ぎる。けれども、それは操作と画面の応答が面白かったり、課題を達成したかったり、パズルが面白かったり、……いずれにしても『ゲームをやること』が面白いのである。コントローラーを握っている自分が失われてしまうことはない」と。

 ただ、本稿の最後に氏は、もしビデオゲームの中に子どもが本当に夢中になれる仮想世界が実現したら、そのときには大人の不安が現実のものになるという可能性も示唆している。「ある世界で行き詰まったらまた次の世界へと、ちょうど、一炊の夢を繰り返し繰り返し見るように、ゲームの世界から離れられなくなるのではないか。この態度はアルコールやコカインの中毒と同じである。これこそゲーム中毒」なのである。


ビデオゲームのもたらしたもの
教育評論家  斉藤次郎

 ビデオゲームに関して、評論家の斎藤氏が最も注目するのは、ビデオゲームに子どもが没入していることなどではなく、ビデオゲームが「値段に見合うだけの、おとなの観賞に耐え得る内容を獲得した」ことである。「これは子ども文化史上画期をなす事柄」であるという。しかし、氏はその出来事に功よりもむしろ罪を見ている。「ボーダーの消失は、制限された立場としての子どもの不利益を、多少は減らしたかもしれないが、同時に大人なみの不利益をも子どもたちにもたらしたはずである」と。

 子どもの遊びが「児戯に等しい」ものとして、大人から省みられなかった時代には、「子どもはおとなの同意を求めず、むしろ彼らの干渉から逃れて、独自に遊び世界をつくりあげてきた」。ところが、大人が無視も軽視もできない質に達したビデオゲームによって、周辺に追いやられていた子ども世界の栄光は最終的に終わったのだという。

 さらに言えば、「試行錯誤のプロセスを遊ぶ」ビデオゲームはもともと子どもに向いている遊びであり、「子どもがおとなを凌駕する可能性」を持っている。高度なテクニックで煙に巻かれた大人は、子どもにコンプレックスを抱くという事態まで発生する。そうなると、子どもたちは「おとなが見向きもしないことに夢中になることを、なんとなくダサイと感じ始め」、さらに子ども世界から遠ざかっていってしまう。

 「おとなの子どもの境界が消えたのには、子どもがおとな化した側面とおとなが子ども化した側面の両方がある。そして両者は道具や情報の消費者として一元化されていく。それはこの社会のあらゆる行為が消費という一項目を含まなくては成立しなくなった事情とも無関係ではない。元来『意味の体系』の埒外にあった子どもの遊びまでが、いまや経済社会を構成する一要素に盛り上がったのである」。


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