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子どもとビデオゲームをめぐって

深谷昌志×野田正彰×稲増龍夫


のめり込む子は意外に少ない
稲増: 私は社会学というメディア論の観点からビデオゲームを研究しておりまして、実際の子どもとのかかわりは専門ではないので、実はきょうは両先生からいろいろとその辺に即した話を伺いたいと考えております。
 ファミコンが出てからちょうど10年ですけれども、まず、長年データもおとりになっていらっしゃる深谷先生の方から、ビデオゲームのこの10年間の子どもへの影響についての忌憚のない御意見をお願いしたいと思います。
深谷: 初めは、すごく大変な変化が起きるように、我々も含めて思っていましたね。実際に非常に爆発的な動きもあった。特に「スーパーマリオ」がそうでしょうし、「ドラクエT」がそうだったと思うんです。けれども、今は落ち着いてきたんじゃないでしょうか。
 つまり、子どももファミコンに慣れたし、大人も慣れたし、思ったほど大したことはなかった。無事に遊びの中の1つのタイプとして落ち着いてきて、子どもの生活とか大人の見方にうまく共存できてきたということで、現在のような関係がいいのではないかと思っています。初めに僕らがちょっと危惧し過ぎた感じがあるかもしれません。

深谷氏
稲増: 最初の危惧というのは、例えばどの辺にお感じでしたか。
深谷: 僕はそういうことは言いませんでしたけれども、教育関係者の間では、ビデオゲームばっかりやっていると、極端なことを言えば「目が変になる」とか「耳がおかしくなる」から始まって、「非行の巣窟になる」とか、「ソフトの貸し借りで金銭感覚がまひする」とか、ありとあらゆる危なそうなことがひと頃全部言われましたね。今考えてみると、何か「狼が来る!」という感じで、少し騒ぎ過ぎたような気がしますけれど(笑)。
稲増: 深谷先生は教育現場の先生方のことも大変お詳しいんですけれども、現場の先生方も、ファミコン登場から10年たって、今ではビデオゲームに対して特別な思いは持っていないという感じでしょうか。
深谷: またこれから新しい、奇想天外なソフトが開発されたら別でしょうけれども、もう何度かのソフトを経て、慣れてきているんではないんですかねえ。
稲増: 野田先生は、この10年間、子どもの問題とビデオゲームについてはどんなことをお感じでしょうか。
野田: 当初はファミコンそのものを問題にするよりも、ファミコン以前の、「子どもたちの生活環境が室内化され、細切れになり、人間関係が希薄になっていること」に対する苦々しい思いが、ファミコンをする子どもたちに代表されるという形で問題にされたところがあったように思います。
 ファミコンそのものよりも、室内化、時間の細切れ化の流れに対して「これではだめだ。何か抗議したいけれども、できない」という不満があって、それが「目が悪くなる」という別の形で表現されたのだと思います。目が悪くなるという非難に、受験勉強ができなくなるとか、そういうお父さんとかお母さんの意識がプラスされてゆがめられていった。当時を振り返りますと、時間を制限させる、そうしないと勉強をしなくなるといった主張がかなり強かったけれども、だんだん姿を消していったんですね。
稲増: 例えばファミコンをやり過ぎて勉強しなくなると言われて、現実にファミコンで遊ぶ時間が制限されたりしましたけれども、10年の流れで見たとき、子どもたちにとってのファミコンは、ある意味でピークが過ぎたという見方もできますし、それなりに定着して、細切れの時間をうまく活用するために使っているとも言われるわけです。深谷先生は、実態をよく御存知だと思いますが、生活時間の中に占めるファミコンの位置みたいなものについてはどのように認識されていらっしゃいますか。
深谷: ファミコンと漫画とテレビというのはみんなセットで動くわけですね。つまり、ファミコンがつまらなくなると、テレビか漫画かラジカセか何かに行っているが、ファミコンがおもしろくなると今度はそちらが減る。おっしゃるように、隙間の時間の中でのバランスの問題です。ですから、今の子どもたちは、そういう隙間の時間の使い方は非常にうまいんじゃないですか。
 ただ、テレビにしろファミコンにしろ、問題があるのは、それ以前の視聴態度なんですね。もともと友達がいなくて、内向的で、学校からエスケープしやすい子どもたちが、たまたま夜中までビデオゲームにしがみついてしまう。そういう子どもが一定の比率でいる。その問題が常にあるんじゃないでしょうか。もしビデオゲームに問題があるとしたら、今かなり増えてきている、内向的な、何となく落ち込みやすい子とのかかわり合いぐらいじゃないですか。
稲増: ただ、その子たちはファミコンがなかったらもっと不幸なのかもしれないという言い方もできるわけですね。
深谷: それはもう完全にそうです。ファミコンがあることで生活に一種の歯止めがかかっているわけで、それなりの、一種の充実した、自分なりに自己実現ができている時間が持てているわけです。ですから、その子の場合には、もう少し学校なり親たちが、その子がきちんと生活できるような体系をつくっていかないといけないんでしょうね。安易に「だから、ビデオゲームがだめ……」というのは、違っているような気がします。
稲増: 野田先生は『コンピュータ新人類の研究』の中で、コンピュータにのめり込んでいったハッカーたちを取り上げていらっしゃいますが、ビデオゲームにのめり込んでいった子どもの事例について分析なさったことはありますか。
野田: 何人か会ったことはあります。だけど、のめり込みがずうっと続く子はまずいませんね。一時的に半年やそこらはあっても、そのことばっかり続けている子はいない。
稲増: コンピュータのハッカーは結構続きますよね。やっぱり奥が深いからですかね。
野田: あれはつくるという作業がありますし、ネットワークも世界的ですから、そういう意味ではあるけれども、ファミコン、ビデオゲームは、受け身、待っているという立場ですからね。新しいものが出たり、やっていないソフトが幾つかあったときにはワァッと飛びつきましたけど、結局、だんだん「少年ジャンプ」並みになってきて、共通体験になってきましたね。「新しいもん、やってるか」、「おれはやった」と、それで終わり。そういう状況に変わってきたという気がします。
稲増: 結局、根本のところにあるのは、私もそう思いますが、深谷先生も野田先生も、ファミコンが問題なのではなくて、子どもが置かれている、ある意味ではファミコンそのものにのめり込んでいくようなことも含めた、状況そのものが問題で、それがファミコンの問題として析出しているということですね。
野田: 今の子どもは、生活のすべてがスケジュールで決められていて、自分で振分けられる時間がなくなってしまっており、非常に細切れの時間しかない。その細切れの時間を最初に突いてきたのが、テレビウオッチです。その後、わずかな時間で最大限の快楽を引出す道具を大人たちはずうっと提供してきた。子どもはそれに乗ってきたわけです。
 だから、本当は社会が、子どもの時間が細切れになっていることを、もっともっと真剣に考えなければいけなかったけれども、それは全然考えない。全体の流れとしては、子どもたちが自分で使えるまとまった時間を持ち、友達と遊びながら1つの社会性をつくることがなくなっていったわけですが、そのことについて日本の親たちはあまりにも無頓着だったと思います。
稲増: そして、それをファミコンのせいにしてしまった。
野田: ええ。日本の親たちは、何が起こっているのかに気づくべきだった。今の子どもたちの状況がファミコンのせいでそうなったということではなくて、ファミコンがその隙間を突いたということですね。


早期メディア体験は必要か?
稲増: 深谷先生にお聞きしたいんですけれども、僕なんかはビデオゲームは遊びではなくて、むしろメディアであるというとらえ方をしているわけです。
 つまり、表面上は遊びに見えるけれども、あそこでの体験にはメディアとの一種のインタラクティブなかかわり方がある。今までであれば、テレビモニターという映像からは、テレビにせよ、映画にせよ、一方向の映像で、我々受け手がその映像にかかわることは一切できなかったけれども、ビデオゲームでは初めて、たとえちゃちな動きとはいえ、その映像を自分から動かすことができた。そういうインタラクティブな体験も含めて――それは何も今のビデオゲームがインタラクティブの理想形だというのではなくて――その体験の延長線上に将来的な新しい映像メディアとのリンケージがあると僕は思うんですね。
 だから、僕は、遊びじゃないかというのに対しては、もうちょっと違う見方ができるんじゃないかなという気がするんです。つまり、遊びの中でそういうメディア体験が蓄積されていくことにすごく意味があるんじゃないかと僕なんかは感じているんですけれども、深谷先生は、教育という立場からすると、その辺はいかがでしょうか。
深谷: ようやっと稲増先生との意見の違いが出てきましたね(笑)、いいことだと思います。逆に、僕はむしろ意図的に「しょせん遊びだ」と考えたいわけです。ということは子どもたちの成長にとってマスメディアに早く接するのがいいかという考え方については、まだかなり否定的なんです。子どもというのは、生の直接体験の世界から、だんだん成長するにしたがって広い世界の間接的な情報をもらえばいい。今の場合には、もちろん子どもたちに直接体験が欠けている方の問題もあるでしょうけれども、小さな子ども、あるいは小学生にとってのメディア教育というのは基本的に要らないと思っているわけです。
 今の大人たちは、人生のある時期を経てからメディアに接したわけですね。そういう成長が幸せなんだと思うんです。小さなうちから、テレビもある、ラジカセもある、ビデオゲームもあるということで、みんなに接してしまって、自分の手とか足とか耳とかをほとんど使っていない子どもに関しては、成長のアンバランスが非常に心配です。
 ですから、僕がもし異論を唱えるとしたら、ビデオゲームに限っていえば「おもちゃだからそんなに期待しなさんな」と。逆に言ったら「ビデオゲームをやっていたらコンピュータに詳しくなるなんてことは万に1つもありません。それからあれが科学的な思考を育てるとは私は決して思いません」という形で、「あれはおもちゃだから」と位置づけて何とか妥協しようかなというところですね。
稲増: 例えば今の子どもたちは、ビデオゲームで遊ぶことで、テレビの画面の中にウインドウがあいて、別の情報画面が同時に提示されていくスタイルを自然と勉強していくわけです。コンピュータにおいて、マルチウインドウでマルチタスクができるということは、実際にコンピュータに触れる以前に、ファミコンで自然に経験している。また今はもうファミコン自体にもマウスがついていて、ほとんどコンピュータと同じ体験ができる。要するに将来コンピュータに進んだときに、機械というのは自分の言うとおりになってくれるんだという感覚を持つと思うんです。
 つまり、今のある世代から上の人は、機械というだけでもう言うことを聞いてくれないんじゃないかというふうに、機械に対してすごく恐怖感を持ったり、不信感を持ったりしますけど、そういうのが全然ない。コンピュータとのファーストステップをごく無意識に遊びの中で体験している。これはものすごく幸せなことだと思うんです。
深谷: ただ、大人にとってのプラスと子どもにとってのプラスとは、分けて考えた方がいいと思うんです。日本の場合、戦後のこの2、30年に限って言っても、子どもの視点から止めなきゃいけないことは、ビデオゲームに限らず、たくさんあったと思うんですよ。
 例えば日本の子ども部屋は、住宅条件が全体として悪い中で、少し優遇されすぎていますよね。子ども部屋にクーラーをつけるなんて、とんでもない。アメリカがすべていいと言うわけではありませんが、アメリカの家庭では、子ども部屋というのは非常に質素ですね。大人にとって便利なことと、子どもの成長にとって確保しなければならないこととは分けた方がいいと思うんですよ。
 僕は基本的にメディア、特にビデオゲームに象徴されるようなものは中学生から上の方へなるだけ持っていきたい。小さな子がああいうものに接するのは、子どもたちの成長のバランスを崩すと思っています。つまりファミコンか何かを使って数学的な能力を身につけるよりは、むしろ具体的な生のもので数概念を覚えていってほしいし、情緒的なものを友達同士けんかしながら身につけていってほしい。ですから、僕はかなりそれについては否定的ですね。それは子どもの成長を、もしかしたら大人の論理で壊してしまう可能性があるかもしれないと思いますね。
稲増: 野田先生は子どもの成長にとって、どうお考えですか。
野田: いい面があるというのは、稲増先生がおっしゃるように、挙げれば幾つか挙げられるけれども、そんなに本質的なことじゃない。やっぱりあれは、短い時間でできる大変楽しい遊びだと思うんですよ。将来の学習効果があるとか、特に言う必要はない。
稲増: 別に学習効果というプラグマティックな意味で言っているんじゃないんですけどね。僕が持ち出したのはメディアリテラシーですから。コンピュータに慣れるといっても、何も別にあの箱を自由に操れるようになるというんではないんです。嫌でもコンピュータによって制御される社会が来るわけです。それを拒否しようというのなら別ですけれども、今の子どもたちは、好むと好まざるとにかかわらず、そういう社会の中で生きていかざるをえない。そうであるならば、小さいころからコンピュータに対するメディアリテラシーが高まっていること自体は悪くないことだと僕は思いますがね。
深谷: ファミコンに限らず、一太郎でもマッキントッシュでも何でもいいんですけれども、あれは子どもだってすぐやれちゃうと思うんですよ。あれはすぐ打てますが、それが子どもたちの成長にプラスになるとは思えないわけですよ。確かにあれができたら、子どもたちは、さあっと文章も書けるでしょうし、図表もつくれるけれども、そうすると、このままだと成長の中で、考えていく力が伸びにくい気がするわけです。
 もちろん、先生のお立場からおっしゃることは十分わかるし、それなりに理解はできるんですけれども、特に小学生段階から、そういうメディアリテラシーみたいなものが必要だと言い始めると、こちらは「それはかなり危険な要素ですよ」という言い方になるような気がしますね。
稲増: ここから先は議論が複雑になるので、あんまり話を進めたくないんですけれども(笑)、極端に言えば、言語能力も基本的には非常に抽象的な記号を操作するという能力ですよね。言語能力も生身の体験ではなくて、言語による間接体験であって、長い歴史の中で人間はその意味でのリテラシーを獲得してきたわけです。とりあえずこのリテラシーについては、今のところ成長にとって不可欠なものとしてだれも異論を唱えないわけです。それは、基本的に言語を中心とする文化体系、文明体系ができ上がっていて、それをだれも否定しないからですよね。
稲増氏
 そういう意味からすれば、私の言うメディアリテラシーとは、これからはコンピュータを中心とする映像メディアネットワーク社会が進展していくわけで、その際の、ごく自然な生存要件であるというふうに感じているわけです。
深谷: これは御専門が違うからやむを得ないんですけれども、そこには子どもの発達という視点が入っていないんですね。例えば文字や言葉にしても、覚えていくときには、お母さんなり家の人とのコミュニケーションがあって、兄弟とのコミユニケーションがあって、そういう中から覚えていくわけですね。
稲増: もちろん、それを否定しているわけじゃないんですよ。
深谷: これは野田先生もおっしゃっておられましたけれども、今の日本の子どもたちの置かれている環境はいかにも貧しい。ですから、もし人間関係がもっと豊かになっていれば、ビデオゲームについて稲増先生が今おっしゃったことについても我々はそんなに気にしないわけですよ。ところが、今の状況ですと、人間関係が乏しいので、ファミコン中心に生活する状況に子どもたちがさあっと流れ込むような気がするんです。すると、多少ブレーキをかけるようなつもりで、子どもたちの生身の人間の成長をもっと大事にしようじゃないかと言わざるを得ないような気がしますね。


将来に向けてのコンセンサスを
深谷: これは別にメディア論に限らず、戦後の日本の子どもの成長ということを考えていくと、何か大人の幸せイコール子どもの幸せと、無条件に考えてきたような気がするんです。だから、大人が何か食べられるようになると、子どもにも食べさせちゃう。大人が着られるようになると、子どもにも着せてしまう。大人は楽しんでいればいいんだけど、子どもはもっと制限する。ただし、制限するかわりに特別に何か自由を与える。そういう子どもについての基本的なコンセンサスが欠落していたんじゃないでしょうか。
稲増: それは別にメディアのせいではなくて、社会的な規範がそういう風に変わってきているということですね。
深谷: 例えば、アメリカではビデオゲームの問題は、もちろんチェックもしておりますけれども、あんまり深刻ではないんですね。というのは、子どもたちは結構ほかに、何だか言いながらも、遊んでいますからね。
野田: しかし、お母さんたちの反撃は、日本より強いですね。
深谷: きついですね。
野田: だから、今の稲増先生のおっしゃったリテラシーとかシンボルを操るという面が非常に進んでいるというのはいいんだけれど、その意味では、ビデオゲームが悪いというんじゃないけれども、僕は、日本の子どももそうだし、大人もそうだけど、この社会が持っているひとつの特殊性、つまり、一方では、情緒的な人間関係を大切にするとか、子どもの文化を大事にするとかいうことが希薄になってきた社会であるということを問題にするのです。他の文化と比較した場合に、外に行ってみると、相当違和感を感じる。
野田氏
 確かに、パソコンでネットワークされる社会がくると言われているけれども、一方では、民族対立があり、貧困の中でのいろいろな問題があります。じゃあ、この国に育った子どもたちが、コンピュータとかビデオの映像を通して、彼らとコミュニケートできるだろうかということですね。パソコンの言葉では、それをデータとして引き出すことはできるけれども、彼らの悲惨さだとか、彼らの喜びだとかと感情的につき合うことができるだろうか。僕はこれから大変な状況が来るような気がするんです。
 ビデオゲームそのものが悪いというのじゃないけれども、そういう状況の中で日本の子どもがどう育っているのかをもう一回考える糸口として、ビデオゲームを取り上げる必要はあると思っていますね。
稲増: 今おっしゃった、そういう悲惨さがわかるかどうかというのは、別にビデオゲームの問題ではないわけですね。私も、ビデオゲームをしていたらそういうことをする必要はないと言っているつもりはないんで……。
野田: ただ、シンボルとか知識の能力をなるべく小さいときに開発したらいいという発想があり、日本の社会ではずうっとそれで来たわけです。ふるい分けすると、その流れに稲増さんの話も乗ってしまうのですよ。
稲増: 確かに、子どもたちの発達という観点からしてどこまでできるかという点では、私は別にシンボル操作能力だけを過大に評価するわけではなくて、要するにさまざまなメディアがつくるリアリティ空間があっていいと思うんです。例えば、母親との接触とか家族との接触とか近隣社会での接触というリアリティもある。社会学的な言葉でいえば、そういうマルチリアリティを生きていて、一種の回路の切りかえをしているわけです。
 例えばテレビの初期においては、テレビで起こっていることと現実との切りかえができなかった人も少なくなかったわけですけど、今はもう、3、4歳ぐらいの子どもでも、テレビのリアリティと現実のリアリティとの切りかえができるぐらいになっているわけですね。だから偉いというわけではないんですけれども、そういうふうに、メディアと接触していく中で自然にそういうリアリティの切りかえをしている。だから、僕は、メディアがつくり出すリアリティも、生の人間の接触のリアリティも、ともにバランスよく伸びていけばいいなあと、理想論としては言うんですよね。
野田: ただ、視点を変えると、子どもたちがその切りかえができるようになっていると言えるかどうか。表面的には切りかえができるようになったと見えるけれども、実際には、それに操られていて、させられている面も強くなっているところがあります。
 例えば、映像で常にシミュレートしていて、さまざまな人間関係がモデルとして提示されていますから、新しく人とつき合おうとしなくなっている。それから子どもが少なくなっているから、大人の側が過剰に配慮し、選択肢を決めておいて子どもに話しかけたりするので、子どもの方から能動的にかかわることができなくなっている。人間関係を自分でつくっていくことができなくなりつつありますね。
 だから、スイッチを押してたくさんのテレビを操ったり、あるいは自分の好きなものだけをビデオにとって何度も見たりするとか、一見、機械を使いこなしてはいるけれども、もう一皮むくとどうかなという面もあるんですね。
稲増: よく親は「我々の小さい頃は、みんなで元気に原っぱで遊んでいて、ファミコンなんかやらなかったよ」と言いますよね。でも、原っぱで遊んでいた子たちがみんないい大人になっているかというと、そんなことは全然ないわけですね。原っぱで遊びさえすれば、みんなよくなるわけでもない。その体験だけが別に子どもをつくっていくわけではなくて、子どもを取り巻く総合的な環境の中で成長していくわけです。
 郷愁派の人は「自分たちは原っばの中で遊んだけれども、今の子どもはかわいそうだ」と言うんですけれども、原っぱの中で遊ばなければ立派な大人になれないとは、子どもたちも思わないでしょうし、我々もそうは思わないわけですね。やっぱり、その時代の1つの共有体験みたいなものがある。僕は逆に今の子どもたちでファミコン体験を持たないで大人になっていく子の方が、むしろ不幸かなという気がするんですね。
 僕なんかは、同時代体験としてテレビの体験を同世代の人と語れるわけです。同じ世代を生きてきた人間たちの共有体験としてテレビは、物を考えたりある判断基準を持つときに非常に大事なんですね。同様に、今子どもたちに対して非常に人気のあるものが――だから非常に責任があると言えばそれっきりですが――共有体験のべースになっていくという構造そのものは変わらないんじゃないかなと僕は思うんです。
深谷: ですから、共有体験だったらわかるわけです。それこそ、どの時代にも共有体験になりそうなものは、世の中のいわゆる良識派のターゲットにされますよね。昔は「少年倶楽部」とか「立川文庫」というのがありましたよね。昔の資科を読んでいると、立川文庫を読むとみんな子どもが悪くなるって、大騒ぎをしますよね。それは絵本でもやりました。
稲増: 俗悪テレビ批判もすごかったですね。
深谷: テレビでは「8時だョ!全員集合」がしょっちゅう騒がれた。後になってみると、どれを見ても、こんなくだらないことで一喜一憂しなさんなとは思いますよね。もしかしたら、ビデオゲームで僕らがどうも心配だというのも、昔立川文庫を読むと非行になると言っていたのと同じことで、そんなに危倶しなくてもいいのかなという気はするんですが、ただ、そろそろ子どもたちの成長のあり方とメカニックな環境とのずれが余りにも限界に来ているんじゃなかろうかという気がしているんですよ。
 ですから、共有体験なら共有体験で結構なんですけれども、それは共有体験として位置づけておけばいいわけです。それをあんまり大きく評価をしないでいただければ、何となくお互いに折り合いがつくような……(笑)。あんまり、こういうメリットがある、これだけいいことがあると言い始めると、何かひっかかるような気がするんです。
稲増: ただ、基本的に、大人が無理やり押しつけてるわけではないんですね。もちろん、ビデオゲームは産業ですから、大人がつくったものだし、大人がおもしろがって提供するわけですけれど、つまらなければ子どもたちはそれに飛びつかないわけです。
深谷: ただ、その意味では子どもというのは抵抗力がありませんから、大人がかなり知恵を働かせてインパクトを持って迫っていけば、幾らでも子どもを操作できる。それはそんなに難しいことじゃないと思いますよ。
稲増: ビデオゲームトータルとしては確かにそういう面があるんですが、しかし、個々のソフトについては、見向きもされないソフトもあれば、圧倒的に人気のあるソフトもある。子どもたちのリテラシーは、そういう部分で一種の本物と偽物とを見分けているわけですね。
深谷: ただ、今のビデオゲームというのは、子どもが非常に熱中しやすいものだと思う。今までのテレビと違って、一応自分がチャレンジできますよね。ヒーロー感も自分なりに持てる。だから、ちょっといいソフトがあったらば、子どもたちがあれにかかわり合いを持つのは、ある程度当然だと思います。そういう意味ではよくできたソフトだと思っています。
野田: そういうことで言えば、極端な言い方かもしれないけれども、幾つかのプリミティブな社会が文明と接触したときに起きたアルコール中毒の問題と同じで、もし大人がお酒はいいもんだと思って子どもに飲ませれば、子どもの方はどのお酒がうまいか、ちゃんと子どもなりに判別力を育てるわけです。もし大人がそれは悪いものだと禁止しなければ、子どものアル中が圧倒的に増えていって、その民族の衰退を一気に進行させることもできる(笑)。
 僕はこれからは、メディアが子どもの世界に入っていくあり方が、今のままでいいのかどうかという問いかけをしないといけないと思う。ファミコンの次に、その延長線上にバーチャルリアリティとかいろいろな機器が開発されて、それがそのまま提供されれば、子どもは受身ですから全部それに乗っていきます。しかし、その現象をグローバルに見たときには非常に特殊な社全のことであって、そういう形で日本モデルが世界に広がっていっていいだろうかという問いかけが新たに必要だと思います。

(ふかや・まさし  教育社会学)
(のだ・まさあき  精神科医)
(いなます・たつお メディア社会学)

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