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学校内の逸脱こそ問題である
評論家  小浜逸郎

 窓際でぼけっとすること、これが学校的なものからの逸脱の気分の始まりを象徴している、と小浜氏は記す。学校から空間的にはなれることや、学校の中で破壊的な行動に走ることだけが「学校的もなのからの逸脱」ではない。氏は、逸脱を促す最も基礎的な兆候は、授業中における身体と意識の剥離にこそあると考える。

 「この状態は、学校の外部にはみ出たかたちでの逸脱、たとえば不登校とか、中退とか、街なかでの非行、あるいは学校の外でなくともあからさまな校内暴力などのように、マスコミなど外部者の目に留まるような目立ったかたちではあらわれない。だから、名前さえつけられていないのであるが、私はここで、この状態を『授業無視』と名づけて、あえてその重要性を強調しておきたい」

 小浜氏によると、「授業無視」は他の逸脱状態を集団心理的に支える基礎的な役割を持っている。ごく普通の生徒によって演じられる、無意識・消極的な態度様式なのである。よって、子どもたちは、明確な反抗や不満の意思表示として「授業無視」という逸脱状態を表しているのではないということになる。ではなぜ、こうした普遍的な逸脱が生じたのか。氏は、偏差値競争の重圧の結果ではないと繰り返し否定し、こう推察する。

 「子どもたちは、ある歴史的条件に沿って、自然に『学校的なるもの』への倦怠を表出しつつあるのである。しかし、そのような倦怠を、ただちに学校拒否という明確な意思表示にまで高めようとはしない。それは、全員高校に進学すべしという、世界でもまれにみる平等社会の黙契が、ひとつの見えざる圧力として彼らの存在と生活を規制しているからである」「人並みの資格を得るという機能的な効用と、何かにはならなければならない将来に備えての、一応の心理的安定、それに、集団に参加していることのそれなりの人間的手ごたえ。おそらくこんなところが、今の平均的な子どもたちをかろうじて学校につなぎとめている要因である。なぜならば、とりあえず『そこ』を通り抜けなければ、人々が自分を大人とは認めてくれないからである」


性のゆらぎと逸脱
上智大学文学部心理学科教授  福島 章

 福島氏は、「性の逸脱」の概念に疑問を投げかける。この30年で、だれしもが逸脱だと考える強姦や強制わいせつで補導される男子少年の数は減少の一途をたどり、女子少年の「性の逸脱」と警察がとらえている、条例による「みだらな性行為」や特別法による売春行為などの不純な性行為も半分の数値を示している。氏はいくつかのデータを用いて、男女とも約2割の子どもしか高校時代に初体験をしていない現状と、8割近くの子どもが「愛さえあればセックスをしてもかまわない」と答えている現状から「逸脱」を考える。「子どもの性行動は子ども自身の性意識とは大きく食い違っている。これは、数字だけを見ると、親の規範意識とはほぼ一致している。これは、先ほど指摘した、思春期まで続く密着した親子関係と無縁ではなかろう。言葉をかえて言えば、日本の子どもたちの間には『生物学的なプログラムと比較した性行動の大きな遅延』と表現できる『逸脱』が起こっている。しかし、日本の子どもたちには、思春期を迎えてから約10年間を禁欲的に送ることが、親を代表とする社会によって強く期待されているのである」

 さらに福島氏が日本の子どもの性行動として着目しているのは、“情報とのセックス”である。自分の心と肉体を使って異性にかかわる「行動」から、頭の中に情報を入力して刺激や満足をうるという「情報の消費」にその重心をシフトしているという。

 「女子にとって、感動的なラブストーリーを読み終えることは、自分で実際に恋愛を体験するのと同じ種類の感動や満足感をもたらすものである。一方、ビデオやアニメの中で視覚的に女性と出会い、さまざな刺激的な性行動を疑似体験することは、本当の異性と接触したり成功したりするのと同じように、性的満足とエネルギーの発散をもたらすことが可能である」「こう考えてみると、ビデオや活字を通じての性的(疑似)体験がふつうの性的体験となっている主流派の少年少女よりも、衝動に駆られて性犯罪に走る非行少年や、繁華街に集まってナンパや不純異性交友を求めているコギャルたちの方が、生物としてのヒトの本能に正直な子どもたちと言える、という逆説さえ成り立つ」


非行少年たちはどこへ行ったのか
科学警察研究所・防犯少年部犯罪予防研究室室長  清永賢二

 非行少年の数は10年前の68%にまで減った。大人たちが封じた非行エネルギーは、内へ内へと向かい、暴走族の時代→校内暴力の時代→いじめの時代という変遷を辿り、結果として少年の群れは木端微塵に打ち砕かれ、私たちの視界から消えた。しかし清永氏は、もともと少年というものは押しつけられた社会規範や秩序に反抗するもので、「逸脱」の無い社会こそ逸脱しているという。

 「今、非行少年が消えた、という。ただ、かつての非行世界を支え続けてきた犯罪少年たち、アンダー・ボスたち、そして中間少年たちは、現在でもこれまでと同じ割合で存在することは確かだ。しかし、彼らは、大きく群れることを否定され、良くて4、5名のグループ、あるいは全くの単独行を取る一匹狼となって彷徨っている。大きく群れることができないから、非行少年の姿も大人の視界に入り難くなり、群れることで相乗的に高まったエネルギー量も激減している。その結果、非行問題は発生しなくなったのが現状なのだ」 果たして、今の非行少年たちの実態はどうなのか。清永氏は、「今、渋谷には、少年たちの間から消え去った『群れ』がある」と指摘する。「(1)擬似的仲間集団」「(2)ナンパ集団」「(3)抗争集団」の大きく三つの種類に分けられる群れの中には、確かにかつての非行世界に形成されていた群れの論理が温存されている。

 「抗争集団に見たように、少数ではあるが、戦闘的で暴力的な少年群が生存しつづけている。また、その周辺に、ナンパ集団に見たように、時間を持てあまし『何か面白いことないか』と徘徊し、欲しいと思う物があれば簡単に手を出してしまう、社会的規範意識は未成熟で、自己規制力の希薄な少年たちの群れが在る。この二つの群れが結びついていった時、少年非行は、現在の拡散し分散した状態から、再度、校内暴力の時代に見たような粗暴なエネルギーに満ちた状況を再現すると思うのだ」「いずれにしろ、非行少年のいないSF的な社会を想定し、またそれを実現しようとするよりも、彼らとどのような関係を保っていくべきなのか、そのことを私たちはこれからも考え続けていかなければならない」


少女は郊外で浮遊する
東京都立大学助教授  宮台真司

 「郊外は、伝統的共同体とも都市的空間とも異なった、いわばコミュニケーションチャンスから『二重に疎外された空間』」であると宮台氏は規定する。その郊外では、女子高校生のテレクラに代表される「電話風俗」をはじめ、都心のそれよりも圧倒的に風俗の「過激」度が高い。氏はこの郊外を「コミュニケーションの空白地帯」という。
「郊外における『電話風俗』の異様な高まりは、まさに郊外という空間におけるコミュニケーション環境のありようを示している。『電話風俗』は、郊外住宅の自分の個室にいながらにして、無数の匿名者との間の偶発的なコミュニケーションが織りなす『都市的現実』へと、若い身体をいざなう。郊外がコミュニケーションチャンスの空白地帯であるからこそ、『都市的現実』へと通じる個室の電話や人目につかない公衆電話に女の子たちが群がる。それを『都市の孤独』と昔ながらに表現してしまうとするなら、凡庸すぎるだろう。彼女たちは郊外において宙づりになり、都市においてこそ癒されるのだから」

 記号として登場する電話風俗では、誰もが個体としては現れない。記号化された平坦な世界である「都市的なもの」に、彼女たちはまるでカメレオンのように自らの身体を紛れ込ませようとしている。それがまるで「個体としての死」への欲望のように見えると、氏は語っている。

 「いずれにしても、彼女たちは役割の『こちら側』を、つまり役割を担っている内面を消去しようとしている。役割の向こう側(相手の内面)や役割のこちら側(自分の内面)を一切問わないコミュニケーションへと、徹底的に『純化』したがっているのだ」「学校内での役割、家庭内での役割、バイト先での役割……。そうした『役割の保護膜』を取り去ったときに残る『自分』が重い……。奔放な振る舞いでオジサンの眼を眩ませる少女たちの『背後』には、脱ぎ捨てられた『重さ』の死骸が散らばっているような気がする」


インタビュー・逸脱を支えてくれたもの
映画制作者  羽仁未央

 22歳のときに日本を離れて以来、香港暮らし8年目を迎える羽仁氏は、ドキュメンタリー映画制作会社の社長兼監督として活躍している。小学校四年生のときから学校に行かなくなり、パリ、東アフリカなどで海外生活を送る。日本の子どもとはかなり違った子ども時代を過ごした氏は、「逸脱」を地でいく人である。

 「私、小学校がつまらなくなってきた過程に、友達がつまらなくなったというのがあるんです。最初のうちはそうは思わなかった。みんなそれぞれの性格を持っていた。ところが、だんだんみんな同じことを言うようになってきた。それは大人になるっていうことなのかもしれないし、賢くなるということなのかもしれない。つまり、聞いたようなことを言うようになった。それがすごいショックで、裏切られたような気がしたんです。小学校4年生でした。私のイメージでは、大人と子どもには常にある種の対立があって、子どもには子どもの正義があって、大人の手先になることはないって考えがあったんです。先生が言ったことを自分の口で反復する子どもは裏切り者だって。でも、周囲に裏切り者がどんどん増えていったときに、なんてやつらだと思ったのね。

 私がアジアの歴史が好きな理由の一つに、独立を勝ち取るということがあると思うんだけど、私が学校をやめることもきっと自分の独立を勝ち取ることだったんだと思う」

 羽仁氏の生き方を大きく支えたのは家族である。親がもし、「自分」よりも「世間」を大切に思っていたら、その親を子どもは信用できなくなると、氏は語る。

 「だから、もし私がそういう家に生まれていたら、こんなふうに自分の人生を第一に考えることがしにくかったと思う。うちの家族は、私がどういう人間になりたいのか、どういう人生を歩んでいきたいのかに興味を払ってくれる。何か問題を起こしたときに、それは自分たちの考える正義ではない、正しい人の道ではないという話はしたけれども、世間にみっともないとは言われなかったことが、一番裏切られなかったと思うんですね。そういう意味で大人になれたことがすごく幸福だった」

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