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脱モノリンガル時代の英語教育

東後勝明×ジョン・カビラ×佐々木瑞枝 司会あわやのぶこ


モノリンガル時代は終わった
司会: 現在、語学をめぐる状況はずいぶん変化してきています。東後先生は著作『英会話最後の挑戦』の中で、モノリンガル、つまり単一言語の時代はもう終わったんじゃないかと書いておられましたが、ずっと現場にいらっしゃって、ではどのように変わってきたかというところをまずお話し願えますか。
東後: ええ、約10年前からでしょうか。少しずつ様子が変わってきましたね。と言いますのは、それまでは現場でも、学者や知識人といわれる人の間でも、英語教育は常に従来のものでいいのかという反省はされながらも、言語習得というのはコミュニケーションのたんなる手段ではなくて、最終的にはもっと深い意味があるんじゃないかという観点が主流だった。僕のように、言語を手段として、極端に言えばぞうきんみたいに使っていかなければいけないんだという考え方は、言えば言うほどマイナーな立場に立たされるという雰囲気があったんです。それが80年代の半ば頃から、知識や教養、あるいは知性の一部としての外国語習得や外国語教育も重要だけれど、それだけではだめだ、何か欠落しているものがあるんじゃないか、という考え方が表面化してきたんですね。
東後勝明氏
 例えば、現在の状況、つまり外国の方がどんどん日本語を使って、日本語教育が盛んになっているのを見ると、言語や文化が違う、構造が違う、あるいは社会組織が違う、そういういろいろなファクターのために、そもそも日本人が英語を使えるようになること自体が極めて難しいことだという考え方がどんどん崩れてきたんですね。文部省もそれに対応せざるをえなくなってきたし、あと世論の動きです。実際に大学を卒業して、仕事をしている方々が、現場で切実に困っている。教養も結構だが、とにかく使えなければどうしようもないということです。これまでずっと潜在的にあったものが、ついに表面化してきた。
 今、すごく大きな時代の流れみたいなものの中で、もう一度外国語学習というものを見直そうじゃないかというときが来たんじゃないかという気がするんですよ。文部省の大学設置基準自由化やAETの導入も、それが今定着しつつあるということは、世論がそれを間接的に支えているという感じがするんですね。学校現場でも英語部会の主流にある30代半ばから40前ぐらいの人に、新しいものを取り入れていこうという動きがあります。
 それから、世界的な大きな流れでも、私が69年にロンドンに留学したときには、バイリンガル、バイカルチュラルの子どもたちの発達過程や心理状態が心配だということで研究対象になっていました。ですが最近では、逆にモノリンガル、モノカルチュラル、モノレイシャル、いわば双眼鏡と望遠鏡の違いみたいなこと。単一言語、単一民族のほうが、物の見方、考え方にバイアスがかかって、問題が起きるんじゃないかということで、研究対象がそちらのほうに向いている。日本人、韓国人、アイスランド、それから広い意味での英語圏の人が、1つの価値観だけで一生終わってしまうんじゃないかということが逆に問われているんですね。
カビラ: 僕はまったく教育の現場にいた経験はありませんので、英語教育についてはわかりませんが、もともとこのFMジャパンのDJ(ナヴィゲイター)の仕事につくことができたということ自体が、バイリンガル時代の要請、そしてマーケットがそれを魅力と感じているということの現れだと思いますね。
 というのも、放送現場の場合、まず85年に開局したFM横浜が、バイリンガルということをかなり意識的にステーション・アイデンティティまで持っていこうとしたんです。ただ、この時点ではまだ、海外制作の番組、もしくは100%モノカルチャーなアメリカ人のディスクジョッキーの起用ということだった。けれども、その後88年にFMジャパンが開局したときには、バイリンガルのみならず、バイカルチュラルな人たちを起用しようというマインドがあったんですね。すると、それは若い人を引きつけて訴求効果が期待できるということで、アドバタイザーが魅力的だと思ったんです。そういう意味では、FMジャパンは、まさしくその80年代という時代の要請を受けた1つの形が結実したものではないかという気はしますね。
東後: 社会的にそういうものが受け入れられるようになったんでしょうね。
カビラ: ええ。それと、あと、曲紹介だけ英語でいいのかということもあるんですね。バイリンガルの人たちにも、音楽に乗せるときは英語で、情報は日本語にしようという考え方が昔からあって、でも、それは演出的な効果の域を超えない。じゃ、我々は英語を使って何ができるのか。雰囲気じゃなくて、英語を使って情報を引き出せるのか。リアルタイムにそれをお伝えできるのか。ライヴのインタビューを採り入れるなど、もうちょっと進めた形で、まさしく、英語を道具として使おうと。雰囲気からの脱却というか、実際の機能として使っていこうじやないか。それが、たぶん90年代なんじゃないかなという気がします。
東後: 僕もそれが1番重要なポイントだと思います。日本という国全体が、英語をコミュニケーションの手段として使って、何ができるのかということを問われている。英語そのものを研究対象にするという時代から、一歩先んじてなきゃいけないんですね。


自己表現の言葉を獲得する土壌
佐々木: 私はもともと都立高校や日大で英語を教えていたんです。その後、日本語に移ったんですね。そのときあったのが、とにかく英語教育の犯した間違いを日本語教育では犯すまいということです。だから、まず日本語を勉強する外国人が、1年で日本語でプレゼンテーションできるようにというのがありました。少なくともニュースを聞いたときに、その中のいくつかの大事なキーワードを使って、そのニュースをネタに話せるように。
 では、そのためにどういう方法があるか。今までの日本が英語教育でしてきたオーディオリンガル・メソッド――文型があって、それをドリル練習させる――のミスをとにかく正していこうじゃないかと。オーディオリンガルの部分は多少悪くてもいい。タスクスピーキングやフィールドワークなどを盛り込んで、きちんと内容のあることを表現させよう。彼らはモチベーションが高いというか、興味ある話題を持ってくれば、絶対に日本語が出てくるわけですね。

佐々木瑞枝氏
 英語も同じだと思うんです。まずモチベーションを持たせること。それからオーディオリンガルと、コミュニカティブの融合を図っていくということ。最終目標はプレゼンテーションとか、もちろん、日本人ときちんとした話ができることですね。
 言葉というのは、「ペラペラ」じゃだめだと思いますね。内容がないと。内容についての語彙を与えて、それについてどう考えるかをまとめる力というのは、オーディオリンガルではちょっと無理かなと思いますね。
東後: 彼らは、かなり内容のあることでも限られた言葉でもって表現をする。コミュニカティブなアプローチをしてどんどんついてこられるというのは、やっぱり自己を表現しようとする、日本人よりももっと強いエンジンがあるような気がするな。
佐々木: ええ。もともと教育システムが違うと思うんですよ。子どものころから話すという訓練――去年、カナダの小学校に招かれて行ったときの話なんですけど、あるとき子どもが遅刻してきたんです。すると、先生が「どうして、あなた遅刻したの」と聞いたのね。そしたら「お母さんが起こさなかったから」と。えっ、と私は聞いたんです。そんな言い訳があるのかと。「どうしてお母さんは起こさなかったの」と聞くと、「きのうの夜、パーティーがあって、お母さんがその後片づけでとても大変だったから疲れていたの。だから起こせなかったの」「あっ、そう、じゃ、しょうがないわね」って。その子はごめんなさいなんて一言も言わないですっと座っている。先生に、あれでいいんですかと聞いたら、きちんと自分の主張ができたからあれでいいんだ、って。日本だったら「何を言っているの。そんなこと言わないで、黙って謝りなさい」でしょう。
 やっぱり子どものころからきちんと子どもなりの主張を言わせることで、大人になって言いたいことが言えるようになるのであって、いくら日本語がしゃべれても、みんなの前で発言ができるかというと、そうではない人が多いですね。英語教育も、英語ができるようになっても、発言ができるとは限らない。
東後: 自己表現するエンジン、パワーがないんです。
佐々木: そこですよ。それはもう子どものころから培っていくものです。英語だけの問題ではなくて、すべてにね。
東後: 教育全体の問題としてね。
佐々木: ええ。きのう、たまたまセネガルとブラジル、韓国、タイの学生でニュースを見ていたんです。今、北朝鮮の核査察の問題が出ているんですけど、いくつかニュースを見せたら、彼らがまず言ったのが、どうしてどの局も同じことしかやらないんだ、オピニオンがないじゃないかと。ニュースなんか20%しかわからなくても、そこからキャッチしてね。では、日本人の学生にそういうことを言わせるには、一体どういう教育をしたらいいのかと。
カビラ: リスぺクトという言葉がありますね。日本語では尊敬という意味ですけど、英語の場合はあらゆるレベルで使います。立場を尊重するの尊重もそうですし、あまり目下の人に向かって言う言葉じゃない。
 僕が小学校5年でアメリカのカンザスの小学校に留学したとき感じたのは、そのリスペクトというのが非常に重い意味をもっているということでした。なぜこんな話をさせていただいているかというと、アメリカの学校では先生対生徒という意味での生徒側から求められている先生のリスペクトがあるし、先生の生徒に対するリスペクトもあります。でも日本の場合は、立場とか関係とか、非常にタイトな上下関係という線が引かれていて、管理するものとされるものという図式ができあがっていますね。

ジョン・カビラ氏
 例えば、日本の小学校では「ハウ・ディド・ユー・フィール」「ハゥ・ドゥ・ユー・フィール」つまり「どういうふうに感じたの」という言葉はあまり出てきませんね。そういうこと自体、生徒をあまり構ってくれていないんだなということがわかります。そういう意味でカンザスの学校は新鮮でした。もちろん僕らは大人じゃない。子どもということはわかってるし、ある程度のコントロールはされる。ルールもある。その中でしか僕らは言っちゃいけないというのはあります。子どもだからときどき脱線するけど。ただ、その関係がアメリカでは非常にやわらかく、温かい。そして、どんなに小さい子どもでも、ある程度のリスペクトは必ずされる。たぶんキリスト教的なヒューマニティに基づくものだと思うんですけど、その違いはものすごいと思いますね。
 アメリカにもいじめは当然あります。ただ、いじめが発覚したときの先生の対処の仕方は、もう容赦ないわけです。いじめたものは、何を言おうと問答無用。カの強いものが弱いものをいじめることは、どんなサーカムスタンスでも許せないと。ところが、日本の場合は、子どもの世界のことだから、というわけのわからないものになってしまっている。
東後: そこが問題ですよね。
カビラ: 責任をとってない。コントロールをしないで、タイトなルールで縛ろうとしている。まったくケアしてない。
佐々木: ケアしないで、管理してるんですね。管理社会が自由な空間を奪っている。だから、リスペクトも全然ないですよね。
司会: そういう管理下の人間関係の中で、英語習得以前に、日本の子どもたちがどうやって自己表現の言葉を身につけていくかということが問題になってきますね。
東後: 基本的に日本の社会土壌を変えなきゃだめだし、そのためには人間が変わらなきゃならないわけでしょ。結局は人間の意識改革。人がお互いを認めあう教育というか、姿勢がない限り難しいですね。
 そういった教育全体の問題を今、英語教育に全部背負わせようとしているんですよ。言葉と自己表現をどういうふうに扱っていくかということは、当然国語教育でもなされなきゃいけないし、社会科でも、あるいは学校全体、大きな教育の問題として、全学的に考えなきゃいけないのに、ついコミュニケーションというと、英語の授業の専売特許みたいになっちゃう。それはやっぱり絶対おかしい。英語にそれだけのものを背負わせると、ますます英語教育が窒息死しちゃいますね。


ヴィークルとしての英語
佐々木: うちの娘がイギリスのダラムの大学院に行くときにブリティッシュ・カウンシルでテストがあったんですね。
東後: エルツとかいうんでしょう。
佐々木: ええ、あれは非常にいい試験だと思うんです。あのスピーキングで普通のイギリス人が7点のところ、娘は9点取ったというんです。それはおもしろいなと思ったんですが、内容が話せるかということで取るみたいですね。ペラペラ話せればいいというんじゃなくて、きちんと相手に対してディスカッションができるかということで、高い点がついたと言うんです。娘には英語というのは自分の考えを表現するコミュニケーションの道具だという認識がきっとあったと思いますね。
東後: これからは、英語を勉強の対象そのものにしている人と、英語を手段にして何かをやっている人との英語力を比べると、英語を対象にしてやっている人はよほど頑張らないと負けちゃいますよ。というのは、英語を対象にしている人は、英語についてはレクチャーできるんですね。ですが、英語を実際に使っている人は、いわば、タクシーの運転手のようなもの。人を運ぶことが目的で車を運転している人と、車が好きで趣味で運転している人の違いみたいなものが出てきますから、運転技術にかけてはとてもじゃないけど、タクシーの運転手に勝てないでしょう。それと同じですね。ですから、やはり目的を持つことによって馬力が増す。この日本語は適切かどうか僕はわかりませんけど――言語の徹底的手段化。
佐々木: 要するに、ほかに目的を持つということですね。
東後: そういうことです。言語そのものを対象にする人、言語学者は一握りでいい。
佐々木: それは全面的に賛成ですね。
東後: でも、英語の先生はみんないつのまにか英語学者になっちゃっているんですね。英語を使って何か話したり、書くという訓練ができてない。とにかく話せないというのは、スキルになってないんですよ。いや、話すことはうまいのかもしれません。ただ、その内容を自分の持っている英語というヴィークルに乗せたことがないから、結局、話ができないということで孤立しちゃうんですね。内容を運ぶように言葉を使ってないんですね。だから、英語をぞうきんみたいに使わなきゃだめだって。
佐々木: 日本人はちょっと文法に気を使い過ぎますね。私は文法はめちゃくちゃでもいいから、とにかく話すことだと思うんですけど、どうなんでしょうか。
東後: それについて、忘れないうちに話しておきたいんですが、すごく重要なことなんです。日本人が今でもいかに英語を目的として競っているのか、つまり手段として使っていないかという例なんですが、先日、英検の表彰式があったんです。そこで1級、2級、3級を取った人が表彰されまして、1級の中のとびきりすばらしい人のモデルスピーチというのがあったんです。スピーチを全部暗記して、壇上に上がったんですね。ところが、途中で忘れちゃった、2分ぐらいたったときに。
佐々木: 真っ白になっちゃった。
東後: そう。ところが原稿を持ってなかった。仕方がないから、英語で、「自分は忘れました、原稿を取ってきてもう一度やっていいですか」と言って、壇上をおりた。そして、原稿を持って、再び壇上に上がってもう一度スピーチを始めたんです。その間、そこに参加している先生方とか関係者はシーンとして。もう何と言ったらいいのか……とにかく、みんな彼の「英語」を聞いているんです。内容じゃないんです。「これが1級の英語なのか」って。だから、彼はますますあがっちゃうわけですよ。彼はアメリカに20年住んでいて、英語はペラペラなの。だから、話の内容を聞いてくれているんだったらコミュニケーションになるから、少しぐらい忘れたって大丈夫でしょう。ところが、彼も英語のデモンストレーションをしなさいと言われているから、パーフェクトに覚えて、パーフェクトに忘れた。その後、僕は5分ぐらい祝辞の時間をもらったんだけど、あまりシーンとしているからもう胃潰瘍になりそうで、話ができないんです。わかりますか、忠臣蔵の松の廊下の雰囲気なんです(笑)。怖い顔で見ないでくださいと僕は言った。だれも笑わない。にこりともしない。
 そういうところに、日本人の持っている本質的な国民性みたいなものを感じたし、英語というものをまだ大切にショーケースに入れて、眺めて鑑賞して評価しているという縮図だと思いますね。それを僕は一気にぞうきんだと言ってやったのね。
佐々木: 向こうの学会が、どれだけ楽しいジョークで始まるか。それなのに、日本人の学者がどれだけまじめにやっちゃうか……。
東後: そのまじめさが、かえってネガティブになっちやうのね。
佐々木: そういう意味では、外国人のプレゼンテーションて、日本語が下手でも上手ですよね。


コミュニカティブ・アプローチを考える
司会: ただ我々が英語を考える場合、どうしてもそのシステム、つまり学校英語、受験英語という枠を考えないといけないんですが、それらと、ほんとうにコミュニカティブになっていく英語を学ぶというニつがどういう関係にあるのかということについてご意見をお聞かせいただけますか。
佐々木: 今の受験が変わればいいんですよね。
司会: だけど、今の状態ですと受験英語に相当縛られている学校英語というものがあって、じゃ、その中に、例えば今までのアプローチじゃないコミュニカティブ・アプローチをやっていこうというのはわかるんですけれども、そうすると、矛盾が生ずる……。
東後: 僕はこういうふうに考えるんです。学校英語と受験英語があって、また一方に新たなコミュニカティブ・アプローチがあるという、そういう並立の関係ではないと思う。コミュニカティブの考え方というのは、両方にじわっと浸透していって、最後には受験英語、あるいは学校英語というものが、本質的に変わってくるべきで、やはり受験の英語、学校の英語というものは残ると思うんですよ。今、ものすごく非難されているのは、その受験英語、学校英語そのものの持つクオリティのおかしさだけで、そういう枠組みがあること自体は別に問題ではないわけですね。
 今回の大学設置基準の自由化で、各大学が今カリキュラムの検討をやっていますね。そうすることで、大学が高校生に求めている語学能力というのは何かということを再確認しながら、試験問題が少し変わっていかなきゃならない。すると、受験英語は変わってくる。僕が一番希望しているのは、受験英語が変わると、それに合わせて先生方は子どもを指導されるわけですから、学校英語というものの内容も変質してこないかなということです。
 だから、コミュニカティブ・アプローチというのは、少しずつ底辺から彼らの意識を変えて、結果として今の受験英語、学校英語の質を変えていくという性格のもので、これが出てきたら、これとこれがなくなるという、そういうものではないと思うんですよ。
佐々木: 変化していくために、どのぐらいの時間がかかりますか。
東後: 50年。
佐々木: 私もっと早いと思いますけどね。
東後: いや、僕は50年。
佐々木: この間、東大でビデオを使った授業が始まりましたね。それから、国立大学の入試問題が随分変わってきました。受験そのものが。受験が変われば、予備校が変わって、予備校が変われば、学校の先生が変わっていって……。
東後: 50年かかりますね。
佐々木: 私は10年ぐらいの短いスパンで変わってくるんじゃないかと思いますが。
東後: 10年では無理だな。
カビラ: そういう現場にいないもので印象でしか言いようがないんですけれども、いったい中学校が何校あるんだ、高校が何校あるんだと考えて、それにいったい英語の先生は、何人いるんだ……万単位ですよね。変わらないですよ。
佐々木: そんな……全然、希望はない?
カビラ: いや、希望はあるんですが、僕は50年説です。
 結局、受験は選別のためにあるわけですから、それはもうなくならないですね。ほんとうに使いたい人は、自分で投資してやるしかないんですよ。これは要するに、なぜアメリカにベルリッツがあるのかというのと同じですね。アメリカのスパニッシュやフレンチらがいくら英語を話せても、英語で仕事をしていこう、もっと深いレベルにもっていこうとするためには、やはり自分で高い投資をして勉強しなくてはならないんですね。
 逆に、受験をそんなにいじくってもらっちゃうと、教育の現場は全然対応できないと思いますよ。結果的にどうなるかというと、みんな塾に行くだけですよ。要するに、それをTOEFL的に変えたとしても、TOEFL用の塾が全国にワーっと広がるだけで、急に明日からTOEFL用に学校の英語を教えてくださいって言っても、先生方はパンクしちゃうんじゃないですか。
佐々木: どこからどういうふうに変えるかっていうと、まず大学受験の問題を、いわゆるコミュニカティブ、例えばグラフリーディング――グラフを見て、英語の文章を読んで、これからどうなるだろうと推測させる――とか、タスクスピーキングをもっと課すとか、そういうふうに変えていけば……。
東後: それはかなりの効果はあると思いますけどね。
カビラ: インセンティブとしては最大級のものだと思います。
佐々木: 高校、中学の先生たちが、まずそういう生徒をつくらなければいけないから、自分たちが勉強を始めると思うんです。やっぱりそうやって変えていくべきだと思うし。
カビラ: それは全然反対しません。ただ、50年はかかると思う……。
佐々木: 50年なんて先の長い話。
東後: 戦後50年ですから、あっという間ですよ。
カビラ: 自分でモチベーションがあって、何かをしたいと思う人たちは、必ずしゃべるようになりますよ。これは全然疑っていません。ただ、そういう人たちを輩出する学校のシステムができあがるのは、大変なことだと思います。
東後: ただ、モチベーションのある人も、やっぱり学校時代に、少なくともきちっとした線路の上を走らせておいてあげないと。卒業してから、線路を自分で敷きながら走るというのでは、ものすごいエネルギーのムダがあると思うんですね。
 私がロンドンに留学していたとき、恩師のウィドゥソン教授が口を酸っぱくして言っていたことがあるんです。言語教育、つまり工デュケーションというものと、トレーニングというのはまったく別なんだと。トレーニングというのは、教えたことをそのまま子どもが再現すれば、それでいい。車の運転だとかいうものはトレーニングでいいんだ。だけど、エデュケーションというのは、教えたものが子どもの中に入って、それが10年後、20年後に同じ形で現れなくてもいい、ずっと長いスパンで見ていくものだと。だから、あなた方は決してランゲージのトレーニングと工デュケーションを混同してはいかんよということをよくコースの最後に言ってましたね。
 ですから、日本の教育制度が変わって、英語ができる先生をいっぱい輩出して、卒業生は全部先生と同じように英語が使えるようになるということは、むしろエデュケーションからは外れちゃうかもしれないですね。
 それで、じゃ、どうすればいいかといえば、学校でやっていることと、外で、仮にベルリッツに行ってやっていることが、少なくとも同じ方向を向いていてほしいなと。スピードは違ってもね。ところが、学校ではこっちを向いて、自分でやるときは、こっち向かなきゃいけない、おいおい、これはどうなっているんだというのでは、やっぱり大変無責任なことで、そういう意味では、国が外国語政策を打ち出すべきだと。小手先というか、技術的なものだけでは到底解決しない。とっても大きな問題なんですね。
佐々木: でも、それはちゃんと提言すれば動くんじゃないかしら。
東後: そろそろね。時代が少し見えてきたかなという感じはしますけどね。ただ、僕はやっぱり意識改革に時間がかかると思うな。
佐々木: つまり、自分たちの発想を自由に表現できる社会ができていって、そしてそれを発表できる社会ができたときに、英語でも、日本語でも発表できる人が育つ。問題は根が深いし、そんな簡単に英語でコミュニカティブというようなものではないという気がしますね。でも、学校教育で、東後先生の教科書でコミュニカティブ・アプローチを取り入れた、あれは1つの契機だと思うんですよ。
東後: 要するに、子どもたちは変わるんですよ。あの教科書で教えれば、目がらんらんと輝いてきて、とにかく非常にいい結果を出すのを、私は何度も見てきているんです。変わらないのは先生のほうなんですよ。
 1つの例を挙げますと、文部省は、今まで文法のストラクチャーのプレゼンテーションの順番をきちんと決めていたんですね。1年生はbe動詞から始まって、一般動詞に行って、規則動詞……と。それを今度、自然の英語を教えるためには、そんなものは必要ない、3年間で例えば250なら250のストラクチャーを教えればよろしいというふうに指導レベルが自由化されたんですよ。みんな喜んだ。僕なんかテキストを書くときに、あっ、これで自由に書けると。
 ところが、それを現場の先生に見せたところ、これでは教えられませんと。それでも、一生懸命説得して、ここは物語がつながらないから、ここで過去形が出てきてもいいでしょうと言うと、ここで過去形が出てきたら、もう授業は止まっちゃうと。それでも、そんなことを言っている先生は多分一握りだろうと思って、それをどんどん進めた。ところが、実際に教科書ができ上がってみたら、言語材科の配列順がほとんど変わってないんですよ。僕は愕然として、何のために自由化にしたんですかと言ったら、現場の先生の考え方が変わらないからと。何度も議論したんだけど彼らは言うんです。「先生、未習事項を次のレッスンに送らないというのが我々の今までのやり方で、その線が崩れたら、みんな教えられなくなります」と。
佐々木: 既習語彙で教えるというんですね。日本語教育でも同じことはありますね。
東後: で、僕はそのとき言ったんです。じゃ、発音はどうするんですか。次に送らないといったら、1つずつ教えなきゃいけないじゃないですか。でも、先生方、発音はそんなにしないで、次にどんどんいっているじゃないですか、同じように考えてくださいと。……これを説得するのに、5年ぐらいかかると思う。結局、先生が自分で自分の首を締めるようなことをしているんですよ。
司会: 確かにありますね。子どもではなくて、大人が変わらなくちゃいけない。
カビラ: それはもう当たり前でしょうね。
佐々木: 子どもが目を輝かせて学ぶことがほんとうの勉強ですよね。
東後: 子どもの視座、子どもの目線で大人がきちっと対応してあげて、しかも先生自身の中で何か燃えてないと、やっぱり子どもはついてこないですね。じゃ、今の教える立場の人が燃えるような環境が整備されていくためには、やっぱり社会が変わっていかなきゃいけない。そのためには、人間の気持ちが変わらなきゃいけないという、最後は宣教師みたいなことになったけど(笑)。
カビラ: 少しずつ変わっていくような気がしますけどね。でも、皮肉なことに、社会を変えるためにまず教育を、といつもいわれてしまいますよね。
東後: ねえ、どちらが先かわからないですよ。でも、やってできないことはないでしょうね。

(とうご・かつあき 応用言語学)
(ジョン・カビラ  ニュース・キャスター)
(ささき・みずえ  日本語教育)
(あわや・のぶこ  異文化ジャーナリスト)

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