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シンポジウム セッション1 少子化時代の親と子

 「少子化時代の子ども」というテーマで始まったシンポジウムの第一部は、子ども学研究会の代表である小林登氏の開会の辞で始まった。子どもの問題に関心を持ったさまざまな分野の人々が話し合いをし、できれば共通の考える基盤を作りたいというのが「子ども学」の基本的な考え方である。「子ども学シンポジウム」もその趣旨のもとに行われ、経済学、社会学、心理学、文化人類学、小児科学、システム工学、大脳生理学など、さまざまな分野の研究者がパネリストとして参加した。

 オープニング講演は石井威望氏の「マルチメディア時代の子ども学」である。氏は、親子の未来を考える場合には、未来の生活がここ数年のディジタルメディア化で大きく変わることを前提に置くべきだという。マルチメディアの時代においては、子どもたちは質的にも量的にも拡大するネットーワークの中で生きることになる。将来の社会問題を考える際には、以前の時代の感覚で考えるのではなくて、新しい条件のもとで考える必要があると指摘する。

 セッション1のテーマは「少子化時代の親と子」。児童文化を研究されている東洋氏は、「少子化によって、親との関係において、いわば親の期待や管理や、そういうものが強くなりすぎる」ことを懸念している。親よりも子どもの数が多かった時代は、子どもは小さいけれども数が多いので、バランスが取れていた。しかし、子どもの数が少なくなると、「大事にはされるけれども、何だか家のお客様か、大人の世界の居候になっているような感じ」があるという。

 大島清氏は、専門の大脳生理学の立場から子育ての質について発言した。現代は子どもが少なくなり子どもと向き合う時間が増えたにもかかわらず、人間的な触れあいを中心とした子育てが行われなくなり、動物的な感性から遠ざかる傾向にあるという。子どもが「少なければ少ないように、多ければ多いように、家族の絆を強くすること」が大切だとした上で、さらに「少子化そのものをただ不安がっていては末梢的」すぎるとし、「次世代の子どもたちのために、人間本来の力を取り戻すような子育てを」と訴えた。

 発達心理学の内田伸子氏は、少なく産んで大事に育てようという現代の風潮が母子関係をゆがめているところがあるとして、「早期教育の過熱化」や「子どもを愛せない親の増加」について報告した。「早期教育の過熱化」については、ゲゼルという心理学者の一卵性双生児を使った調査例について、3歳前の幼児に組織的、系統的な勉強を持ち込んでも、長い目で見れば効果はほとんどないだけではなく、弊害さえもあるという観察結果を紹介した。また、「子どもを愛せない親の増加」については、恵泉女学園大学の大日向雅美氏が約3000名の専業主婦に対して行った調査で、その9割が育児をつらく思うことがあり、8割弱が子どもをかわいく思えないことがあることを紹介し、少ない子どもと向き合っている育児が母子関係を不安定にしている現状を訴えた。

 文化人類学者の箕浦康子氏は、子どもを産むことが自明視されている第3世界では多子化が起こり、選択できる先進国では少子化が起こっていることに注目し、少子化問題を「子どもを産む」ことの意思決定の問題としてらえた。そして、システムと意味体系という観点を持ち込むことで、子どもを産むことを選択できる社会が出現した背景を明らかにする。社会システムとしてはバースコントロール、意味体系としては子を産むことへの社会的圧力の変化、性と生殖の分離、子ども観の変化、女性の生き方の変化など、「子どもを産む」ことの意思決定を支えている構造的な要因についてまとめた。


シンポジウム セッション2 少子化時代と社会

 セッション2のテーマは「少子化時代と社会」。経済学者の飯田経夫氏は、戦後の日本が追求した「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」が行き詰まったことで、豊かさの指標が失われ、そこで少子化についても議論されることになったのではないかという。「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」に代わる新しい豊かさなり、新しいライフスタイルが見つからない限り、少なくとも少子化問題の答えも出てこないのではないか、というのが氏の考え方だ。

 日本では少子化が問題になっているが、世界レベルで見てれば、少子化よりも多子化、つまり人口爆発の方が問題としては深刻である。厚生省人口問題研究所の若林敬子氏は、中国の一人っ子政策について研究することで、世界の人口問題への何らかの示唆を得ることができるのではないかと考えている。中国の一人っ子政策はいわば国家のコントロールによる人為的な少子化だが、同じ少子化と言っても、個人の選択による少子化とは人権上の意味が大きく異なっている。一人っ子政策は、産む権利の侵害、農村の労働力の不足、出生性比のアンバランス、急激な人口の高齢化、子どもの貴族化、扶養制度のゆらぎなど、さまざまな問題点を抱えている。

 文科人類学者の原ひろ子氏は、少子化を過剰に問題視するマスコミなどの姿勢に疑問を感じるという。まず、そこには産まない選択をしているのは女性だけではないこと、また、産む産まないは個人の選択の自由だという視点が欠けているという。さらに、世界規模で見れば、エネルギー消費量の多い先進国が少子化になっていくのは好ましいという見方も可能だという柔軟な考え方を示している。

 シンポジウムの最後の討論では、少子化でさまざまな社会システム上の問題が起きたとしても、産む産まないは個人の選択の問題であり、国家などによって出産を強制されることがあってはならないという意見が出された。また、その一方で女性の産む権利の大切さについても触れられ、出産および子育ての支援体制を整えるべきであることも確認された。


少子化社会の到来と学校教育
お茶の水女子大学助教授  耳塚寛明

 少子化社会のもたらす学校教育への影響は、過去に学ぶことのできない「新しい危機」であると耳塚氏は予見する。1994年に186万人いた18歳人口は、2010年には120万人へ激減する。大学への合格率90%の時代を迎えることになる。この数字は「実質的な無選抜状態」を意味し、氏は学校教育の冬の時代が到来すると危惧する。

 「人口減による脱受験競争時代の到来は、高校以下における『勉強しないと大学へ行けないぞ』圧力の低下をもたらす。大学教育が特色化され、入試が多様化していくことによって、これまでの偏差値による一次元的な大学の序列は崩され、高校生の、上昇移動欲求に基礎づけられた学習意欲は確実に低下する。入試科目を異にする大学を比べたり、さらには学力によらない選抜方式をとる大学を序列づけることは不可能だからである。これらは、高等学校格差をある部分あいまいなものとすると同時に、高等学校以下における学習への動機づけを小さくし、全体としての学力水準の危機を招く」

 氏はこの現象を、大学による“選抜”の時代から、学生による“選択”の時代への移行と表現する。大学は偏差値以外の選択基準として、カリキュラム編成、施設・設備の充実、厚生事業など、様々な学生サービスに凌ぎを削ることを余儀なくされる。しかし、学校教育の冬の時代の到来は、学校の社会化機能の危機の時代でもある。「チャイルド・ショックは、これまでの学校教育が持っていた青少年の統制力の1つを失わせ、よい意味でも悪い意味でも、子どもたちを管理する能力を喪失させてしまう」「この意味でチャイルド・ショックがもたらす学校教育の危機は、私たちの社会自体の成立にかかわる重大な社会問題でもある」「だがそれが冬の時代とばかりは言い切ることはできない。チャイルド・ショックの到来は、『本来の教育』とは何かをあらためて問い、それを行うための条件整備を可能とする契機ともなり得るからである。受験という殺し文句を失った時代に、学校は何ができるのか。受験に有用でない学力の有効性とは何か。こうしたことを否応なく問わねばならない状況に私たちは直面する」


「個と個の子」は社会の子
異文化ジャーナリスト  あわやのぶこ

 女性の議員が41%を占めるスウェーデンでは1995年の秋、国会内に託児所が開設された。このような姿勢からもうかがえるように、スウェーデンにおいては子どもという存在が公的に積極的に認められている。「スウェーデンは『子ども大国』」と形容するあわや氏は、先進国に多くみられる少子化をスウェーデンが吹き飛ばした理由として、いくつかの法が制定されたことを示しながら、最も画期的な法制度の一つとして「両親保険」と呼ばれる出産時の有給休暇制度を挙げている。

 「スウェーデンでは子どもが生まれると、育児休暇として全体で360日間休むことができると法律で定められている。そのうち10ヵ月は給料の80%が保障され、あとの2ヵ月は父親と母親がそれぞれ1ヵ月ずつ取り、その間はそれぞれの給料の90%保障の有給休暇である」「超進歩的な政策を打ち出したスウェーデンでは、確実に子どもは増えてきた。女性の職場進出や高学歴化によって、90年代に一度は落ち込んだ出生率も、80年代半ばからはぐんぐん伸び、すでに90年代に入ってすぐ2.14という数値を示した。もう、有職の女性が子どもを持つことに何ら抵抗がない」

 また、氏は「スウェーデンの子ども人口の特徴は、出産率だけではない」という。それは、子どもたちの半数が非嫡出児であることに現れている。“婚姻率は低く、婚外出産率が高い”スウェーデンでは、結婚そのものの考え方が日本とは異なり、子どもを産むために結婚する必要はない。同棲法によって、結婚と同じ権利が守られているのだ。スウェーデンの多様化する男女関係から、氏は日本の少子化社会にメスを入れる。

 「スウェーデンの場合、結婚も同棲も、個人個人の関係がベースとなっている。もちろん大人の男女の関係は、別れることも多い。そのとき、財産などで大変な争いはなく、子どもたちも両親を失うことなく育っていく」「その考えからすると、むしろ、旧制度に縛られて、流動性がない、狭い世界に囲われる日本のほうが不自由で不健全である。子どもたちが、広く多くの接触を持つ、これも教育なのではないだろうか」


エンゼルプランと子どもの未来
ジャーナリスト  熱田恵美子

 社会的な環境変化が子育てしにくい状況を生み出したのだから、社会的に子育てしやすくしようと、厚生省が打ち出した「エンゼルプラン」も一応その構図をとっている。けれども、果たして国はどこまで本気で支援の手をさしのべようとしているのか、と熱田氏は疑問を投げかける。「子ども未来財団」や「緊急保育対策等五ヵ年事業」によって民間企業が子育て支援事業に進出するための財政的援助を行ってはいるが、もともとその要因となる土壌を生み出したのは、国の公的保育サービスの不十分にある。エンゼルプランの中で特に氏が問題とするのは、保育所入所について「措置入所」から「直接入所」方式導入をうかがわせる「保育所制度の改善・見直し」という一文である。

 「公立・民間を問わず、認可保育所であれば市町村が子どもの保育単価を保育所に支払う義務があり、国と県・市町村が保育所運営費の約50%を負担する義務がある」「直接入所が導入され、保護者と保育園との自由契約方式になれば、契約厳守は当然で、文句を言うなら金を出して契約変更せよという関係になりかねない。それではいけない。適正な保育料と保育の『質』の確保は、保育サービスを提供する国や企業の社会的責任なのである」

 経営主義的な保育園だったら、万が一のときどんな対応をするだろうか。氏は、地域住民生活と密着した保育園があるから、保育園が「公的に保障」されているから、親も安心して子どもを預け働き続けられるという。そして、働く母親の権利と同様に、子どもの権利もまた保障されらなければいけないと訴える。

 「全国で約1万2000人もの乳幼児がベビーホテルに入所している。国の指導基準に適合しているベビーホテルは全体の33%でしかないのに、である。夜型の仕事につく母親は不備な保育施設でも利用せざる得ないという現実、そして福祉施策の谷間に放置されている子どもたちの問題を、国はもっと真剣に考えるべきだろう」「エンゼルプランがこうした問題にどう応えていくか、あるいは応えないのか、私たちは目を光らせてチェックしていく必要があるだろう」


少子化で小児医療はどう変わるのか
日本総合愛育研究所主任研究員  加藤忠明

 1990年頃から都市部の大病院では小児科の廃止や縮小の動きが見られる。その大きな原因が、病院経営の悪化であり、中でも少子化のために患者が集まらない小児科は病院内で問題とされている。さらに、医学部卒業生の小児科入局数の減少や、子どもが病気になりにくくなった現状がこれに拍車をかけている。加藤氏は、大病院で小児科が廃止・縮小されるのはある程度やむを得ないとしながらも、「小児科医の役割は今後、社会から求められる面も大きい」と提言する。

 「少子化に伴い、子どもをますます大事に育てたいと願う親は増えているが、周囲に子どもが少なくなってどう育ててよいかわからない親は多い。子どもの年齢が大きくなれば教育や心理面での心配が多いが、年齢が小さいうちは健康面での不安が多い。そこで乳幼児をいかに健康に養育するかに関して保健指導や育児相談を行ったり、各種の講演や教育の現場で小児科医が果たす役割は大きくなっている」

 アメリカでは小児科医としての仕事の7〜8割が保健指導に費やされている。日本では従来、小児科医の数が少なかったせいもあり、どうしても疾病の治療だけに専念する小児科医が多かった。氏は、少子化と子どもの疾病構造の変化により、今後、どのような小児医療の政策が望まれているか示唆する。

 「第一は、少なくなった出産に対して小児科や産科への公的バックアップである。新生児の救急搬送に対する配慮など、母子保健医療施設の整備費が運営費として国家予算に計上されれば、新生児医療や周産期医療はより充実されるであろう。ただし、地域差が生じないようにしてほしい」「少子化に伴ってますます社会的に大事にされる子どもたちを、より健全に発育・発達させるために、小児医療を幅広くとらえていきたい」


シリーズ対談<いじめ解体>1
 「社会は何が起きているのか見極めていない」

 評論家の小浜逸郎氏をホスト役に、1年間にわたって、「いじめ」について行われた シリーズ対談の第1回目。ゲストは刑事法学の立場から、現代人の責任の問題を問い続 けている佐藤直樹氏。対談で強調されたのは、子ども問題全般を、単に教育論の枠内だ けで考えるのではなく、もっと広い視野の中で、「大人−子ども」問題として見つめ直 すべきだという点である。

 小浜氏は「教育評論の枠組みの中で横行しているのは、近代的な枠組みへのはまり込 みすぎ」だと指摘する。そして「近代的な主体を育てるために大人が子どもを未熟な存 在として囲い込んで理性を涵養する、育てるんだという枠組みで、不登校なり、いじめ 現象なり、学校現象を見ていく」という思考パターンそのものに問題があるという。子 どもに起こったトラブルはすべて大人が解決できる、または解決しなければならないと いう立場からでは、問題の本質は見えないというのだ。

 佐藤氏も「現在は、教育自体、公教育自体が解体するという歴史的な段階に入ってき ている」として小浜氏に同意した上で、「20世紀の終わりの現代という時代になって、 もう一度、子どもが『小さな大人』になりつつある」という見方を示す。近代的な枠組 みの中で、いい意味でも悪い意味でも、特別扱いされてきた子どもが、中世社会のよう に大人に戻りつつあるというのだ。とくに、「映像の時代には、大人も子どもも、理解 する、しゃべるという点ではかわりがない」「お金を持っていて消費者として立ち現れ る限りは(子どもも)大人と同じ」などの点を指摘する。

 そのような近代的な「大人−子ども」関係の枠組みが崩れかかった今、子どもの世界 ではゆがんだ大人化が進行したり、近代の子どもであり続けるようにと抑圧が加えられ たり、昔ながらの「歴史的・伝統的システム」である「世間」が露出してきたりしてい る。そのはざまで「いじめ」のような子ども問題が起きているというのが両者に共通し た考え方だ。

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