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消費社会と子どもたちの欲求の位相
法政大学社会学部教授  稲増龍夫

 近代における産業化の急速な発展によって訪れた消費社会は、子どもという存在の意味を大きく変えたことを稲増氏は指摘する。「一つは、彼らが、『生産』に従事していない『未熟者』という社会的負い目から解放されたことである。もう一つは、子どもゆえの『進取の気性』(それは反面『飽きっぽさ』でもある)から、彼らが、変動する市場のなかでの、潜在的な消費リーダーの役割を担うようになっていったことである」。

 経済が成熟し消費が高度化すると、モノ自体の消費から、イメージや感性といった「付加価値」の消費が主流になる。これがポストモダン社会における消費であり、消費者の価値観やライフスタイルの多様化にともなって、消費は「個性」をキーワードにした「コミュニケーション活動」そのものになった、と氏は言う。そこで見られる子どもたちの欲求は、細分化され洗練化された「すみわけ消費」である。豊かさのなかで磨かれた「感性」を核に、子どもたちは消費することで自分のライフスタイルを自覚していく。氏は「おたく」化現象も広義の「すみわけ社会化」の典型例だと言う。

 子どもたちが消費社会において、過剰な情報にさらしっぱなしにされることを「規制」する考え方に、氏は疑問を投げかける。「共通の社会規範や道徳が崩壊するという、ある意味でのポストモダン化が進行し、何でもありの『情報の渦』のなかで生活する子どもたちを考える場合、果たして『規制』という手段は、どの程度まで有効なのだろうか」「考えてみるに、学校文化が守ってきた『規範』=『禁欲的生産の論理』は、すでに社会においては、その役割を終えつつあり、『個性化』のベクトルに取って変わられようとしている。その意味で、安易に外部=『消費社会』からの情報を遮断しようとするのは問題であろう」。


学校文化と消費文化の相克
関西大学社会学部教授  岩見和彦

 近代の学校制度は子どもを「学校の子」としてとらえ、生徒役割を遂行させることで子どもを社会化するシステムであり続けてきた。ところが、今、この学校文化がゆらいでいると岩見氏は言う。「学校での知育も結局は受験知として手段視され、その面では塾などの専門機関のほうがより効率的に提供し出したものだから、子どもを囲い込んでおく力が相対的に弱まらざるを得なくなった」ことに加え、「消費社会に生きる子どもたちの欲望がその豊かさをバックに家庭教育と学校教育による社会化をはねのけ、その直線的な充足に向かい出した」という事情があるからだ。

 やせ細った学校文化と、肥大化する消費文化の間を行き来する子どもたちの欲望のありようを氏は読み解く。学力が人物評価の尺度となる学校文化において、高い評価を勝ち得ない子どもたちは、生徒であることに自尊心や自己評価を見出だすことはできない。つまり、「生徒アイデンティティ」を肯定的に持てないまま、自分がどんな人間であるか、何に優れているのかといった自己像を描くことができない。「学校文化の中では描けない自己像を求めて、生徒は消費社会へと離脱する。音楽、マンガやアニメ、テレビゲーム、スポーツグッズ、バイク……の世界が、彼ら/彼女らを歓迎する。彼らの生徒としての負の評価を癒してくれるのは、消費社会という、より大きな世界なのである」。

 その意味で、氏は消費社会を「自己そのものを欲望するシステム」だと言う。しかし、それも学校文化とど同様に、成熟した個人を育てる場としては未成熟で脆弱な文化に過ぎない、と。「バブリーな消費文化が幼稚な自己像しか描けない人間に対応しているとしたら、消費文化も消費主体の側もこの成熟という観念を再び見直すときが来ているのではないか」。


「校則」は市場の誘惑を阻めるか
スクールソーシャルワーカー  山下英三郎

 校則という学校規範と子どもたちの問題を論じる際に見落とされがちなのは「消費」という側面である。スクールソーシャルワーカーの山下氏は、「校則」は学校から「消費」の流入を防ぐ「防波堤」の役割を果たしているととらえる。

 学校においては、教師=教える者、生徒=教えられる者という明確な立場の違いが前提となり、前者は無条件に絶対的権力を有してきた。一方、消費活動は合意と契約に基づく水平的な関係であり、金銭を介在させれば、子どもと大人の境界はいとも簡単に消えてしまう。「ゆえに、権威や統制を重要視する学校が、消費にまつわる行動を容認することは、自らの立場を脅かされることを意味するので、教育の場において消費の雰囲気を漂わせるものを阻もうとする」。

 しかし、それでも子どもたちはめげることなく学校に消費のシンボルを持ち込み続ける。彼らの攻勢は、60年代に「産学共同路線反対」のスローガンのもと、キャンパスが市場化することに異議を唱えた全共闘の若者の動きと、教育と市場原理の関係を問いかけたという意味では共通すると氏は言う。現在の子どもたちからのゆさぶりはあまりに大きく、最近は校則を緩めるなどの譲歩を見せている学校もあるが、彼らのニーズはそんな妥協案では満たされない。いまや「学校」という看板を背負った自分自身をも商品化し、消費の対象としている。このまま行けば将来的には学校というシステムそのものが消費の対象となり、さらには義務教育制度が解体する日もやって来るかもしれない、と氏は示唆する。

 「学校が消費という概念を全面的に受け入れたときに、学校は自由に満ちた楽園となるのか、それとも秩序なきカオスが支配する場となるのかはわからない。だが、学校がこれからの時代に生き残ろうとするのであれば、消費というものを視座に入れて、それとどのように折り合いをつけていくかという課題に誠実に取り組むことが必要だと思う」。


日米高校生のアルバイト観
駒澤大学文学部教授  坪井 健

 日本とアメリカの高校生のアルバイト観を大きく分け隔てるもの――それは両国の持つ社会的成功イメージの違いだ、と坪井氏は分析する。つまり、日本では「出世」が、アメリカでは「自立」が重要視されているのだ、と。

 アメリカではアルバイトによって労働の価値を経験し、報酬を得ることは、精神的・経済的な独立にかかせないものとして位置づけられている。「日本の場合、組織目標への「忠誠」は、高校生の勉強を中心とした公式の学校文化への同一化を意味し、それによって進学や就職を有利に実現し、組織社会の中で『出世する』ことこそが、日本の文化目標に適合的なのである」。そこではアルバイトは勉強へのエネルギーと時間を奪い、学習意欲を低下させる「逸脱行為」とされる。にもかかわらず、実際に日本の高校生の6〜7割がアルバイトを体験している。いったい彼らは、それが規範からの逸脱だとわかっていながらも、なぜアルバイトをするのだろうか? 「それは、アルバイトが人間関係の拡大に役立ったり、責任感や礼儀や忍耐力が身につくというようなプラスの効用を持っているからではなく、彼らの消費生活のうえでの欲望を充足するという効用を手放しにくいからである」。

 アルバイトで稼いだお金の使い道については、日米ともに個人消費傾向は見られるものの、微妙な差異が読み取れると氏は言う。例えば日本では5.1%にすぎない「親におこづかいをあげる」という項目が、アメリカでは19.9%もある。日米高校生で「ほしいもの」を尋ねた金銭調査を見ると、アメリカでは「大学入学資金」がトップにくるが、日本では「洋服、靴、装飾品」が第1位である。「アメリカの場合、アルバイトでお金を稼ぐことは、経済的自立への第一歩になる。アルバイトをして金を得ることは、親から独立するプロセスであり、社会人になるためのトレーニングでもある。そうした自立への自助努力としてのアルバイト感覚が、同じ個人消費的アルバイトであっても日本の場合と微妙に違っている」。


キャラクタービジネスの現在
編集者  木村裕美

 「……私たちは日常のあらゆる場面でいわゆる『キャラクター商品』に出くわしている。わざわざお金を出してキャラクターを選んで購入している場合もあれば、ほとんど無意識に『オマケ』としてついてくることもある」。60年代以降の子どものライフスタイルの多様化とともに急速に成長してきたキャラクタービジネスは、子どもたちが生まれて初めて自分の意思で消費行動を起こす瞬間から関わってくると、木村氏は分析する。「そのとき選ばれたキャラクターは一生の思い出になるわけだし、その瞬間をいかにうまくとらえておくかをキャラクタービジネスにかかわる者たちはキーワードとしているのだ」。

 キャラクター商品は、今や単なる「商品」の域を越えている。「これは銀座の○○デパートで買ってもらった」「タレントの○○が持っていたから」「○○ちゃんのは偽物だからカッコ悪い」など、キャラクターに込められた子どもたちの個人的なストーリーや、自分のイメージを演出する手段としてのキャラクターの存在に出会う中で、氏はキャラクターを「子どもにとってのある種の自己表現手段」かもしれないと言う。

 一方、現在は子どもだけでなく、親子そろってキャラクター商品を身につけている傾向が見られる。氏の行った調査によれば、その傾向は郊外に行くにつれ多くなるという。「ファンシー文化の洗礼を受け、たかがトレーナー一枚に行列した世代(男女とも)にとって、キャラクター商品は子どもに買い与えるだけの物ではなくなっている」と氏はとらえる。キャラクタービジネスの巧みな戦略は、もはやブランドやキャラクターに親和性の高い若い親世代を含む親子にまで拡大し、新たなマーケットを生み出している、と。


シリーズ対談<いじめ解体>2
「子ども、教師、親 三者三様の変貌が学校を流動化させる」

 シリーズ第2回目のゲストは文芸評論家でもあり、現役の高校教師でもある佐藤通雅 氏。佐藤氏は、いじめ現象が語られる際に、子どもの変貌ぶりばかりが問題にされるが 、若い教師や親たちの変化にも目を向けるべきだという。トラブルを解決していく上で 前提となってきた精神的な枠組みが、子どもたちの間だけではなく、実は、まわりの大 人たちの間でも成立しにくくなっているというのである。

 子どもたちが既存の秩序感覚を失っているのと同じように、その延長である若い世代 の教師は、生徒と人間的に深く関わりながら成長を見守るというスタンスを取れなくな ってきている。また、親たちも学校との協力関係の中で子どもを育てていこうとするよ りも、権利の主張という形で、学校に依存しきってしまうか、学校を無視しようとする かの両極端に分かれてしまっているという。佐藤氏はこのような全体的な流れを「個人 主義の肉体化」という言葉でとらえている。

 本対談はこの「個人主義の肉体化」の問題をめぐって展開するが、小浜・佐藤両氏と も、その評価は両義的だ。いじめを悪化させている原因の1つであることを認めながら も、個人主義的な流れは否定しようにも否定できない不可逆的なものであり、むしろよ り大きな視野から見れば、肯定的な側面があることも指摘する。

 佐藤氏は、親、教師、生徒という既成概念が通用しなくなった時代で、三者三様にば らばらに見えるけれども、「個人主義の肉体化」という一点では共通しているとし、そ こを拠点に新しい関係を築いていく方向を示唆する。また、小浜氏は、いたずらにこの ような時代の流れを嘆いたりせずに、プラスマイナスを見据えた上で、個々のエゴイズ ムを調整するような新しいシステムなりルールを用意していくべきだと提案する。

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