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「欲しいモノがとくにない」子どもたちと
「教えたいモノがとくにない」学校

千石 保×佐藤 学×香山リカ 司会=稲増龍夫


生徒も教師も消費社会型に
稲増: 「消費社会と子ども」という特集で3人の専門家の方々をお迎えいたしまして、これから対談を進めていくわけですが、ここではとくに学校と消費社会という視点を強調しながらやっていきたいと思うんです。
 今まで学校文化論と消費社会論が一緒に話されるということは、ありそうでなかったんですね。消費社会論は消費社会論で派手に展開されていて、学校文化論は学校文化論で独自に展開されてきたわけです。その意味で今回の討論は画期的なものですし、1つの問題提起となって、各方面に広がっていくことを期待しています。
 それでは、まず、今回のテーマについて、各先生方から一言ずつ、感じられていることをお話しいただければと思います。
千石: 消費社会の前には産業社会があったと思いますね。そこでは、勤勉、努力、まじめという体制文化があって、子どもの文化とほとんど乖離はなかったと思うんです。
 ところが、消費社会になって、勤勉、努力、まじめは色あせたといいますか、それほど輝きを持つ言葉ではなくなった。それで、一時、大はやりだった記号論的な価値が子どもたちの間にも入ってきて、それが今の子どもたちを支配しているサブカルチャーの基本になったんじゃないかと思うんです。そのために学校の文化と生徒の文化とが乖離するようになってきた。
 学校はやっぱり産業社会での道徳が根っこにあって、よく勉強する子はいい子だというふうに考えているんだと思いますが、生徒のなかでは必ずしもそうではなくて、勉強のよくできる子はどちらかといえば嫌われ者になりやすい。クラスのなかの人気度みたいなものを調べてみますと、ユーモアのある子とか消費社会そのもののような子の人気が非常に高い。

千石保氏
 また、先生を見ましても、今は生徒の目の高さで冗談を言って、生徒の気持ちをよく理解しようという消費社会型先生が増えている。
 かつて中野富士見中学でいじめがあって、S君という子が自殺したんですが、あのとき、葬式ごっこに名前を連ねたのは、実は、生徒たちにはかなり人気があって、消費社会型の価値観を持った先生たちだったんじゃないかと思います。
 当時、私はちょうど臨教審の専門委員をしていまして、委員のなかには富士見中の先生にお灸を据えてやろうというパワーがみなぎったんですけど、そう簡単には判断はくだせないように私には思えました。
 ああいう葬式ごっこに名前を連ねたのは、かなり生徒の中に入って、生徒文化に溶け込んで、そのなかから生徒を指導していきたいと考えるタイプの先生たちだったと思うんですね。
 それで、たとえば、学校ではいじめ問題などをめぐって、体制文化と生徒文化のずれが起きて、従来の産業社会型の教育観を持った先生と、消費社会型の教育観を持った先生とが2派に分かれ、学校は対応に非常に苦しみつつ、今日に至っているんじゃないかと思うんです。それで、新しい消費社会における道徳理念というのはいまだに確立されていなくて、学校にはどういう秩序が必要 なのかという問いかけがなされている、という状況なのではないでしょうか。
佐藤: 僕はとても難しいテーマを引き受けたなという思いがあるんですね。と同時に、もしかすると、見えてはいないんだけど可能性を秘めた分野でもあると思われるんです。
 それで、2つのことを考えたんですけれども、1つは、明らかに1980年代の半ばから教育をめぐる語り口は、消費社会型に移ってきているということです。つまり、千石先生がおっしゃったような産業社会型でずっときた教育の語り口が一挙に転換したという感じがするんです。
 そこには大きな問題がさまざまあると思うんですけれども、教育サービスが商品化されていくなかで、学校の学習が知識の所有と消費にからめ取られたという実感があります。いわば学校文化とか学校の営みそのものが消費のメタファーとして動いている。子どもにしても、教師にしても、そこに何かを印しづけたいんだけど、その仕方がわからなくなっているということを強く思います。それが1点です。
 もう1つの問題は、子どもたちの消費行動そのものが変化してきていることです。モノを手に入れるとか、あるいはモノを金銭と交換することの持っている意味そのものが1980年代に至ってかなり変わったし、とくにバブル崩壊後、また少し変わっているように思うんです。
 そういう、子どもたちの持っている消費感覚に対して、学校の消費者教育がほとんど対応しきれてないんじゃないか。どうして対応できないかというと、消費をはなから悪と見て、学校は善であって、それを前提にして、賢い消費者を育てるという考え方で教育しているからです。
 ですから、学校教育で追求すべき、消費倫理のようなものにしても、今、子どもたちが消費を媒介にしながら探っている世界が持っている可能性を通してもう1つ突き抜ける必要があるような気がするんです。
 そういう消費者教育の実践がないかと思って探してみたんですけれども、なかなか説得力のあるものがなくて、この座談会が最終的にその問題提起になればおもしろいのではないかと思っています。
香山: お2人は教育のほうから消費する子どもへの接近の方法ということをお考えだと思うんですけれども、私は逆に精神医療という場で、教育の場からはずれてしまった子どもとか、消費の場からなんとか学校に行こうとしている子どもとかを見ることが多いんです。
 それから、病院でいろいろ子どもと接して実感するのは、今の子どもは消費社会をいかにシャットアウトしようとしても、それにまみれずに暮らすことは不可能だということです。
 実は、私、2年前まで北海道のある地域の病院に勤めていて、その後、埼玉県の郊外の病院に勤めているんですけれども、どちらも私が診る子どもたちの示す精神的病理はほとんど同じなんですね。
 一見、普通に考えますと、北海道で伸び伸びと自然の中で育つ、学校と家の間に田畑や海があるようなところに住んでいる子どもはピュアで、消費社会とは無縁に暮らしていて、埼玉県なんかで育つ子どもはその真っ直中で生きていて、それによる弊害を受けているだろうというふうに思われがちなんですけれども、実はそこで示す子どもの病理はほとんど変わらないんです。
 よく考えてみますと、北海道にいて通学の途中では自然を見て育っていたとしても、うちに帰ればテレビを見て、そばにあるビデオのお店でビデオをレンタルして、またコンビニエンスストアに行けば雑誌を買ったりお菓子を買ったりするというように、点と線ではほとんど都会にいるのと変わらない生活をしているんですね。
 そういう前提で考えた場合、では、それは子どもにとっていいことか、悪いことかという話になりますけれども、病院という現場で子どもと接している限り、そういう消費環境がいかに間口が広くてやさしい(やさしいというのは easy でも kind でもあるわけですけれども)ものであるかということがわかります。
 私たちの場合は、実際にそういう消費社会の産物である商品とか情報そのものとか、何とかそこを糸口にして、ほかのどの方法でも接近できない、精神的な病を抱えた子どもに接して、お話をしていくということが多く、むしろ、学校とか教育を接点に子どもと話すということはほとんどないんです。
 ですから、今日は教育のほうから私が今、扱っているような分野を照らしていただいて、今の教育の考えがどうなっているかというお話も聞きながら、そこで両方が有機的に接して、そこから生まれるものはないかと期待してきたわけです。


学校は子どもに何を与えるのか?
稲増: 昔であれば、子どもにとっては学校のプレッシャーが非常に強かったわけですね。そして、それから逃れるために精神的な病に陥ったりということが割とあったんですが、香山さんの世界から見たときに、病院に病んだ子どもたちが来るというのは、学校のプレッシャーとか、学校の規範によって縛られているからなのか、それともそういうものは実際もう関係なくなって、悩みの次元も違うところにいっているのか。その辺はどうでしょうかね。
香山: いわゆる紋切り型の、受験勉強でそうなってしまったというような典型的な症例に遭うことはむしろ少なくて、学校以前の問題で部屋に引きこもっているとか、そういう子どものほうが多いかもしれません。一方で、非常に根源的な悩みを持っている子どもが学校には淡々と行っていたりとか、そういうこともありますしね。そもそも子どもたちの視野に学校というものが入っていない感じもありますね。
稲増: それは消費社会のせいなのかどうかという問題だけではなくて、先ほど佐藤先生がご提起されました消費行動自体が変化していることともかかわってきますね。
 先日あるテレビ番組のインタビュー調査を見ていましたら、子どもたちへの「何が欲しい?」という問いに対して、その答えのほとんどが、「とくにない」だったんですね。これはもう有名な問いで、大人たちは、最初のうちはテレビゲームだとか、そういうものだろうと思う。そのうち、ちょっと気のきいた人は時間だとか言うだろうと思うんですけれども、やっぱりいつも「とくにない」ですよね、今の子どもたちは。要するに、もう欲しいモノがないんです。だけど、欲しいモノがないから満たされているのかというと、決してそうでもない。そういう非常に不安定なところがあると思うんです。
 消費社会と学校というのも大きな問題なのですけど、それを超えたところにも非常に問題がある。昔は学校がいろんな価値を注入して、生き方に指針を与えてくれたんだけど、今学校は自信を持ってそのようなものを与えてはくれないんですかね。
千石: うーむ、そうですね。何を教えたらいいのかわからない。だから、算数や英語などの科目を教えるだけなんです。それで、「今はそれをやっていたほうが得だぞ。やがて得になるぞ」ということしか言えなくて、こうでなければならないという教育はないですね。できないんじゃないですか、先生たちは。
香山: 登校拒否に関して「登校拒否児には(登校を促すような)登校刺激をするな」という原則がまずあるわけですけど、休んでも、今の学校の先生は、あまり「来いよ」と言ってくれないんですよ。「来たくないなら来なくていいよ」って(笑)。それは、登校刺激をしてはだめだというのが行き渡っているからではなくて、学校の先生にも「おまえ、どうしても来いよ」と言うだけの動機がないからです。「来たくないのなら、おまえにとってはそっちのほうがいいかもしれないな」というふうに、変に物わかりがよくなってしまったというか、そこで子どもたちも何か拍子抜けしたような気持ちになってしまうということがありますね。
稲増: 消費社会型の教師というのは今の子どもたちに割と理解があるわけですね。子どもたちはそれぞれみんな個性を持って、好きにやろうとしているんだからということで、あんまり命令をするとか規範を植えつけるとかいう意識はない。とすると、消費社会型の教師という新しいタイプの先生は何を教育したいと思っているんでしょうかね。
佐藤: 子どもたちは、欲しいモノは「とくにない」って言うんでしょう?同じことが教師にも起こっていると思うんです。
 今、「モノが氾濫している」と言われるんだけど、昔我々が駄菓子屋で出会った生々しく欲望を刺激するモノではなくて、みんな無機的な商品になってしまったという感じが僕はするんですよ。
 そういうモノと出会えないところで、欲望のすべてがすごく抽象化されてしまっているものだから、モノや人とかかわっていても、絶えず出会ってないという思いがある。教育の場面でもこれは同じで全部すれ違っていく。すれ違いながらしか生きられない。これは「とくにない」ということの1番根っこにある問題に、たぶん直結しているんだろうと思うんです。

佐藤学氏
 そして、そのような状況に問題意識を持った先生は、はっきりした態度をとれるけれども、そこに何らかの課題が見つけられない先生は、いつまでも態度が揺れている。だから、生徒にやわらかく接していくんだけれども、向こうからは「来ないでよ」っていう感じの反応しか返ってこない。あるいは、先生に来てもらっても何か全然すれ違ってしまうというようなインタラクションになってし まうんじゃないんですかね。
千石: 学校は、現実に消費社会になって、どういう教育をすればいいかっていうことをすごく悩んだわけですよね。それで、さっき言ったまじめや努力というのが非常にむなしい響きを持つようになったものですから、1番手っ取り早い、今の時勢に合うものとして個性主義であれという教育になったんじゃないですか。個性豊かな子どもになってほしいと。
 だから、「おまえの好きなように。来たければ来ていいし、来たくなければ来なくてもいいんだよ」と。こうでなければならないんだよということは言えなくなった。言えるとすれば「個性的でありなさい」と。そういう相対主義的な考え方の教育ですね。
稲増: そうすると、結局、「個性的に生きなさい」と言ったときに、教師のほうは指針を与えられない。じゃあ、何が個性を与えてくれるのかというと、今、消費社会が、企業が、個性のバリエーションとして多様な商品を用意するという構造になっていくわけですね。
 だから、企業のほうがはるかに考えている。まあ、考えているというのは本質的なことを考えているのかどうかわからないけれども、とりあえず選択のバリエーションは用意しているわけですね。
 たとえば、制服についても一時期、制服廃止というのが学生の声として非常に強かったわけですね。実際、制服を廃止しているところはいくらでもあるわけですけれども、今、世の中は逆で、制服のいい学校が人気がある学校になっていくというふうに、制服の付加価値が高まっている。
 そういう消費社会的な論理と結びついていくと、非常にアピールできる学校が出てくるわけで、制服を変えた学校も、ある種消費社会に対応しているような部分がある。
香山: いわゆる制服なるものというよりも、やっぱり個別の、あの制服はどこの学校であるという、そこら辺の価値が高まっているんでしょうね
稲増: 上のほうはね。でも、結構、偏差値の下のほうの学校だと、それによって偏差値が上がるというのが確実に起こってますよね。
香山: ああ、服自体でねえ……。
稲増: はい。あれも一種の学校側の消費社会に対する対応かなと。
香山: なるほどね。
千石: 見事、ブルセラショップでも偏差値の高い学校の制服はよく売れるんですよね。
稲増: はっはっは。
千石: 今おっしゃったように、制服を変えるというふうに消費社会に適合した学校は、受験する生徒たちも多くて繁盛しているわけで、もうまさに1つの企業ですよね。そういう社会ですから、生徒たちも学校もその限りでは一致したということになるんでしょうかねえ。
稲増: 高校じゃないんですけど、大学なんかでは、ゴルフコースがあったり、自動車の免許が取れるとか、非常に消費社会的な付加価値を用意する教育をやっている女子大なんかもあって、そういうところに学生が集まることも確かなんですけど、一方でそういうのには批判もあると思うんです。
佐藤: 学校の消費社会化という現象については、80年代の、とくに臨教審以降の自由化、個性化ということが非常に気になりますよね。学校側は目玉商品を準備するということを必ずカリキュラムでやっていて、しかも、それを「目玉商品」と名づけている。そのこと自体、学校の消費社会化をよくあらわしていて、それが個性ある学校ということになっていますよね。


気分転換のための消費行動
佐藤: 初めに言った消費行動が変わっているということが、僕はすごく気になっているし、おもしろい問題だと思っているんです。
 たとえば今、テレビゲームで遊んでいる小学生って、もう8割になっているんです。要するに小学生にとって商品というものはテレビゲームであり、それからもう1つはキャラクター商品ですね。この2つをめぐって消費行動が展開しています。
 中学生、高校生になると、コンビニエンスストアの商品です。今、高校生たちが1番たむろするのはコンビニですからね。
 そして、高校生と大学生が消費しているのは電話代です。中学校のときには、一通話当たり10分ですます電話が、高校生、大学生は今や一通話当たり30分が平均だと言われている。平均がそうですから、もっと長く、1時間とか2時間とか話す人もいる。僕なんか、学生に電話するとき困りますよ。いつも通話中だから(笑)、かけても通じない。そういう状態です。
 小学生のキャラクター商品にしろ、テレビゲームにしろ、コンビニにたむろすることにしろ、電話にしろ、1つの気分転換になっているんです。ある区切りをつける癒しですね。そういうふうに子どもたちの間で気分転換として消費行動が行われていることと、学校の先生たちが消費と思っている概念とがすごくずれているような気がするんです。
 つまり、欲しいモノが「とくにない」というのは、子どもたちが消費社会から距離を置いているということじゃなくて、むしろ消費社会の真っ直中で消費の意味が違う生活世界をつくっているということであって、それと教育とが全くすれ違っているという感じがするんです。
 それで、今言った気分転換になっているものの、共通性は何かといえば、僕は、均質性だと思います。言説のうえでは個性化と言われるんだけれども、それが果たして個性化になっているかどうか。まさしく商品が表層では差異を強調しながら深層で画一化するのと同じような、何か非常にデーモニッシュなものに巻き込まれて均質化されていく怖さを感じてしまうわけです。
稲増: しかし、じゃあ、それは子どもたちのせいなのかと言うと、子どもたちのせいとも言えないですよね。
佐藤: ええ。
稲増: そう選択せざるを得ない状況があるわけです。
佐藤: そこで、下手な先生は説教するわけだよね。テレビゲームはくだらないとか……。でも、それは全く無力だと思うのね。
稲増: 基本的に言うと、お金に対する感覚の変化がずいぶん影響してきていると思うんですよ。いわゆる少子社会で、子どもが少なくなって、お小遣いが結構豊富に入るとか、アルバイトによってもお金が得られるということがある。さっき言ったように買いたいモノはない。でもお金だけはいっぱい持っているというわけですよ。
千石: 金銭感覚が決め手になるというのは、私も同感でして、旧来の道徳からすると、お金は額に汗して稼ぐものとなるわけですが、今の子どもたちの金銭感覚を見ますと、その辺に落ちていた1万円は交番に届けないという調査もあるぐらいで、お金は楽して稼ぎ、楽しく使うものと考えている。
 そんな感覚から、学校での盗難もすごく多くなって、そして盗られた子も盗られたとは思わないんですね。つまり、モノが盗られた、あるいは盗みっていう感覚ではないんですね。
 子どもたちは、消しゴムをいっぱい持っているのに、消しゴムをよく盗るんですよ(笑)。その消しゴムには記号がいっぱいついている。自分が出会ったりしたさまざまなキャラクターがついている。それを盗るわけです。
 私は法律畑の出身なのですが、学生の頃「電気は物か」なんてことを問われるわけです。「物トハ有体物ヲ謂フ」と法律書に書いてあるものですから……。それにならえば、「記号は物か」ということになるんですね。それで、学校での盗難はほとんど記号盗だと思うんですよ。ですから、他人のモノを盗るというのは、旧来の価値観から言うと窃盗、泥棒、万引きになるのですが、今の子どもたちの感覚からすると、モノを盗んだということにはならないんですね。
 学校での盗難はやっぱりよくないことです。ただ、よくないということをどうやって説明するか。学校の先生はできないですね。私もできない。非常に困ります。
 そういう意味から言うと、本当に金銭をめぐる考え方や行動が、すっかり変わってしまっていて、象徴的な出来事として盗難が起こる。それはもうモノを盗るという意識ではないという大きい問題を我々に突きつけているんじゃないでしょうかねえ。
稲増: 学校の備品とかの盗難は、ほとんど犯罪意識がないですよね。
千石: 男子の大学生の寮へ行くと、盗んで、いや、盗んできたんじゃないんですよね、ちょっと拝借してきた自転車がその辺にいっぱい転がっています(笑)。法律専門用語で言いますと使用窃盗というんですけどね。
香山: 今の人たちは、金銭感覚だけじゃなくて、1つ1つの行動、とくに消費をめぐる何かの行動と、その人の全人格的なものとが何の関係もないと思うんですね。
 たとえば宮台真司さん(都立大学・社会学)が扱っているような、自分のパンツを売ってしまうようなブルセラ少女がですね、全く倫理観のないような、ふだんの性生活も非常に乱れた子かというと、全然そうではなかったり、ふだんはとても優しい普通のまじめな子が平気でそういう行動をしてしまうとか……。個々の行動と全人格的な何か精神性とかそういうものとは、全く関連がなく、脈略もないと思いますね。

香山リカ氏
 とくにお金をめぐるものにおいては、今、それこそパソコン通信の回線で、ソフトウエアをシェアして、それに対して銀行にお金を振り込む。何か目に見えないものが換金される。まだブルセラだったらモノがあって、それがお金になるから、このパンツが1万円とかって、わかりやすいんですけど、もうそれすらない。モノさえない。回線を伝わってくるソフトウエアに対してお金が発生する。一体何に対していくらのお金が発生しているかという仕組みが全くわからなくなってしまっているわけです。
 ですから、何もないところに非常に多額のお金が現れるかもしれないし、非常に手の込んだ大きなものに対しても万引きというような形でただで持ってきてしまってもいいんではないかと考えてしまう。その辺の混乱は、ちょっと人に説教したり仕組みを説いたりしてわかってもらえるようなレベルのものとは違ってしまっているような気がします。
 ただ、それ自体が全く悪いことかというと、私なんかから見るとそうでもなくて、たとえば対人関係はある程度全人格的なかかわりなわけですけれども、それはとてもできない、その能力はないというような子どもとか若者でも、最初に言ったようにモノなら買える。
 それこそコンビニエンスストアの消費なんかも気分の消費ですけれども、匿名性の非常に高い消費行動ですよね。パソコン通信も同じだと思うんです。まあ、万引きももしかしたらそうかもしれません。そういうことなら辛うじてできる。しかし、それしかできない。そういう人たちもいるわけですね。
 そういう人たちは、そこを抜かしてしまって「やっぱりコンビニエンスストアには行かないで、ちゃんと地域の小売り店の人とコミュニケーションをはかりながら、欲しいモノを賢く選びなさい」と言われても、それはできないわけで、何かモノとか人とのかかわりは、匿名性の高い行動とか、断片的で脈絡のない、全く個々の行動とかいうパターンでしか、もうとれないわけですから、そこ すら奪ってしまうということはちょっと乱暴な気もするんです。


消費社会における学校文化の可能性
千石: 私は、さっき、学校には2つの先生のタイプがあって、1つは、生徒の目の高さでものを見る先生で、もう1つは、非常に規則にうるさい先生というようなことを言いましたが、大きい目で見ると、もう今は学校の先生たちは、生徒にあまりかかずらわない。それこそ生徒を記号なり商品なりとして見て、それぞれ受け入れて送り出していくだけで、生徒と全人格的にかかわり合いを持とうとする先生は非常に少なくなってきている。それから生徒たちも、できるだけ人間的な触れあいを金銭的なもので解決して、必要以上に近づかないようにしているし、それこそプライバタイゼーションみたいなものがどんどん広がっている。
佐藤: そうそう。
千石: だから、できるだけ離れている。離れるのに1番いい手は「おまえの言うのももっともだよね」ですね。”DA,YO,NE”というラップ・ミュージックの歌詞みたいなもんですが、今の消費社会の構造は、そういう形になっているんじゃないでしょうかねえ。
香山: そういうかかわり方だったら、学校にいる時間て、長すぎますよね。もっと学校にいる時間自体が短くなるとか、勝手に子どもが選んで好きな授業だけ行くとか、学校とのかかわり自体を断片的にできるんなら、そういうやり方でもいいかと思うんですけど、朝8時から夕方何時かまではずっと過ごさなければいけないんですよね。そこで、そういう希薄な関係を繰り返しているとしたら、無意味なような気さえしてしまうんですけどね。
稲増: かつては、学校文化というのは、どっちかと言うと、禁欲、抑制の文化だったわけです。逆に、消費社会は、基本的にモノを買わないと成立しないから、どんどん欲望を解放していく。一方で抑制し、一方で解放しようとして、そのバランスをとってきたんですけど、もう学校文化が完全に抑制力を失っているわけですから、きっと欲望がどんどん肥大していくだろうけれども、それでいいんだろうか。それをとめられるとしたら、その可能性としては学校があると思うけれども、しかし、前のように、ただ「やめなさい」と言ってもむだなわけですね。もしも学校文化が、消費文化に巻き込まれない、新しい、別のアナザー文化圏みたいなものをつくるとしたら、可能性はどういうところにあると思いますか。
稲増龍夫氏
佐藤: 今、マーケットそのものがすごく無機的な市場になっちゃってるわけでしょ。学校そのものも一種のマーケットになっていると思うけれども、それをもう1回もとのにぎわいの市場に戻して、個別の子どもたちの持っている好みのモノを持ち寄って、それを突き合わせて考えてみたらどうだろうかと思うんですよ。
 好きなモノの突き合わせによって、消費行動のなかにあらわれている個別の子どもたちの世界が見えてくると思うんです。
 たとえば、僕の娘はよくバービー人形で遊んでいるんだけれども、日本で買ったバービー人形とアメリカで買ったバービー人形の2種類があって、アメリカで買ったバービー人形はどこか生々しいのね。人間の体臭がするような人形なんですよ(笑)。日本のは、すごくニュートラルになっているよね。これ、いつも並べて話をするのね。そういうところで1つの商品の世界が開かれていくし、商品を介して僕らがかかわっている広い意味での生き方が見えてくる。
 だから、消費社会の膨張にしろ、学校の規範力の衰退にしろ、全くそのとおりだと思うけれども、それに古典的なものを対比させてぶつけていくとか、何か対抗するものをつくるというよりも、消費の意味の編み直しが必要じゃないかなと思うんですね。
稲増: だけど、自分の趣味をぶつけていくと、「あいつ、そんなのが好きなのか。ダサいな」と、逆に溝が深まるということもあるんじゃないんですか。つまり、彼らは、そういう商品とかモノとか現象に対して非常に研ぎ澄まされた差異感覚を持っているわけだから。
佐藤: それは初期に起きる現象にすぎませんよ。音楽の授業で僕はある先生に勧めたんだけど、自分が好きな歌を紹介して、どこが好きかとか、いつ好きになったかとか、その生活のほうを語らせてみる。つまり、象徴のレベルで「ダサい」というふうに意味付与してたり序列化してたものを、もうちょっと別の次元で1人ひとりの独自なものというか、特異なものとして表現させて、「なるほど。あの好みはあいつらしいぞ」と思われるように、解体し直してみる。
稲増: なるほど。
佐藤: 今やられているのは、「ダサいぞ」のぶつけ合いでしかないけれども、その裏に込められているものを、お互いに出していく。これはやっぱり教育の役割じゃないかなと思うんですよ。
香山: ただ、その場合、かかわる側には相当なテクニックが必要ですね。さっき稲増先生が言われたように、私たちのような精神医療の現場でも「あなたどんな音楽が好きなの?たとえばロック?」とか言いますよね。そこでうかつに「尾崎豊?」なんて言ってしまうと、ロックにしても非常にいろいろな分類があってセグメント化されていて、彼らはそのなかの知識がすごく深いわけですから、そこで「すごくダサいね」と思われてしまったら、もう完全に馬鹿にされてしまって、そこで話が終わってしまうわけですね。それなら、「全くわからないけど、それ何? 教えて?」と言うほうがまだ救われるような感じがあるんですね。
佐藤: だから、そういう音楽の裏を取ろうというわけですよ。つまり、このロックのここが好きという、その子が持っているオーラみたいなものがその裏側にあるわけだから、そのオーラの部分を1回引っ張り出さなきゃだめなんですね。ところが、これはお互いに秘密だからね。ものすごい秘密の部分だから、それとつき合う教師のほうも秘密を一緒に突き合わせるしかないね。
香山: そうですね。
佐藤: 1番秘密の部分とつき合っていかなきゃいけない。だから、互いに傷つくわけだけれども、そこの可能性にかけてみる価値はありますね。たぶん僕らが消費行動でやっている癒しとか気分転換というのは、もしかすると、これなんじゃないかと思うんですよ。モノを選んで、ぱっと買って、それでふっと何かが切れていくような感じね。
稲増: そういう意味では、ある程度情報も持っていないと、そういうことはできない。消費社会型だけを知っている教師には確かに弱い面もあるんだけど、そこで自分をさらけ出せば逆転する部分もあるわけですね。
佐藤: そこにしか個性がないというふうに、個性という概念をもう1度つくり直してみる。商品の象徴のままじゃなくて、自分たちが抱えている秘密のほうに持っていくような、そういう教育をしたいね。
香山: でも、大変ですね。精神科医は限られた時間のなかでの1対1のつき合いだから、いいんですけれど、学校の先生だと、1人で40人とか50人とかの担任をなさってらっしゃるから……。
佐藤: 1対全体という教室の構造を変えない限り、無理だよね。ともかく、子どもたちの個と個がすり合わされていくような教室空間をつくることが大切だと思うんですよね。
千石: この消費社会における教育ということで、1番大きい問題は、先生と生徒の間が非常に離れたということですよね。かといって、1対1になったら、先生が疲れてしまいます。
 しかも、家庭がどんどんみんな学校へ押しつけているものだから、ますます学校は大変になっているわけで、理想から言えば、本当は先生は消費社会型の先生であって、もっと生徒と一緒につき合うのがいいのだろうと思いますけどね。
稲増: 結局、個性化というベクトルと、学校教育における画一化というベクトルとは、どうしても矛盾してくるわけですね。
千石: そうですね。
佐藤: 今の子どもたちにとっては、貨幣というものが極端に資本主義的になっていて、透明になっているという感じがするのね。執着も何もない。つまり、直接表象と結びついていたり、直接的な意味交換になっていて、人格的な行動にならないわけです。
 そうじゃなくて、もっと、商品やモノが触発してくる生々しい人とのかかわりとか、内からこみあげてくる言葉にならないものとか、そういう無意識の部分を信じて子どもと向き合っていく必要があると思うんですよ。
 そうすると、たぶん消費社会型の先生の枠を超えてしまうと思うけど、そこでもう1度子どもとの回路をつくり直さない限り、僕は今の学校が消費社会の中に巻き込まれている状況は救えないなという思いがあるんですね。

(せんごく・たもつ 社会学)
(さとう・まなぶ  教育学)
(かやま・りか   精神医学)
(いなます・たつお 社会心理学)

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