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幼児とコンピュータ
白梅学園短期大学保育科教授  八木紘一郎

 八木氏は、コンピュータによる学習(CAI)を始める年齢を幼児期に“すっとばして”早める、いわゆる「準備説」に疑問を抱いている。子どもの心身両面のマイナス効果はもちろん、現在の幼児とコンピュータの関係を見る限り、それは消費的娯楽型活用にすぎず、子どもは依存的で画一化された文化創造しかできなくなることを氏は懸念する。

 一方、逆に「幼児にコンピュータはいらない!」と、かたくなに拒絶し続けるいわゆる「純粋培養説」とも、氏は距離を置く。「こうした拒否的偏見によって、コンピュータという電子情報環境が、果たして保育文化になり得るかという、可能性の探求とその準備条件への検討がまったく遅れているのである」。つまり、氏は子どもとコンピュータがどのように出会い、どのような原体験をもたらすのか、ということにこだわる。「たとえそれがどんな機器であろうとも、幼児の創造的な自己表現活動の道具として創造性育成に寄与し、新しい文化の構築や熟成に寄与するのかを探求することが何よりも優先するということだ」。

 氏が強調するのは、「コンピュータは幼児の楽しい自己表現道具となり得るのか?」「コンピュータを使った幼児文化が構築できるのか?」である。これらが実現するためには、まず幼児が主体となって、他者と関わりを持ちながら、独自の状況設定とストーリーを作り上げていく力が必要となる。例えばコンピュータ・グラフィックスで描いた動物たちを、実際に粘土で形作り、さらに子ども自身がストーリーを作って物語遊びをするといった活用をしてこそ、コンピュータが幼児にとって有意義な媒体になる、と。「ただし、そうなるためには、まず何よりもコンピュータ以外の既存の情報環境を有効に活用していることが前提になると思われる。例えば、日頃から優れた絵本や紙芝居の読み聞かせをたっぷり味わっていること、ごっこ遊びなどの劇的な活動をしていることである」「子どもの心の内に豊かな物語スキーマを耕しておくこと。それが、新しい道具による新しい文化を生み出す基盤になるからである」


脳の発達と早期教育との関わり
京都大学名誉教授  久保田 競

 久保田氏は、脳が単に大きくなる「成長」と、大脳が働くようになり、高度な営みをし始める「発達」を区別する。大きさについては、生まれたばかりの時には約400グラムだった赤ちゃんの脳は、3〜4歳までには1200グラム(大人の脳の約8割)にまで大きくなる。一方、脳の働きについては、遺伝的に数の決まっているニューロン(神経細胞)同士をつなぐシナプスがどれだけできるかによって、神経情報を伝える回路が決まるという。「シナプスの数は、年をとるとだんだん増えるのではなく、胎児期の半ば頃から増え始め、生まれてからは急激に増え、生後8〜10か月に最大の値になり、それ以後は老人になるまで、ゆっくりと直線的に減っていきます」。氏はこのシナプス過剰形成期の意義について、「この時期に立って歩けるようになり、簡単な手の動作ができるので、この頃の赤ちゃんが一人で地上を移動でき、自分で食べ物を食べることができる、個体としての独立が起きる時期」ととらえている。

 このような時期に、赤ちゃんは外からの刺激や働きかけによって学習し、脳は発達していく。「赤ちゃんは、刺激にさらされることで、それが何かがわかって認知記憶します。感覚ごとに違った脳領域が、知覚・認知に関与し、記憶は特別の脳領域でなく、知覚の受容野、認知の領域で行われます。同じ刺激からの異なった感覚の関連(イヌがどんなものか見てわかるようになり、それがワンと鳴くこと、触ったときの感じ、イヌの概念もわかる)が脳の中にできていきます」。

 こうした脳の発達の基盤となるのは、幼児期の手足や五感を使った「感覚運動知能」だと、氏は言う。運動学習を繰り返すことで、脳の領域にシナプスの数が増えて、神経回路が安定して働くようになるからだ。「しかし、だからと言って、何でもかんでも早くからやらせるのがよいというわけではありません。その時期の能力に応じてやることです。というわけで、赤ちゃんには、難しいことを教えないこと、簡単なことからはじめてだんだんと難しいことを教えること、教えた運動ができたらほめてやることです」。


学校風になりすぎている日本の早教育
国立教育研究所教育指導研究部長  永野重史

 「子どもは教えれば伸びる」「早ければ早いほどいい」という価値観のもと行われている日本の早教育は、そもそも学齢期以降の学校教育の問題と地続きであると、永野氏は言う。子どものあらゆる能力を測定することに腐心する精神測定的哲学の影響を受けている、と。「小学校から上の教育には、精神測定的哲学の徴候は随所に見られる。だいたい早教育に悪いところがあるとすれば、小学校、中学校の悪いところを先取りしているところなのであって、学校教育を改めずに、早教育ばかりを非難してもしょうがない。親は、学校により良く適応できるようにと願って早教育の施設に通わせているのである」。

 子どもが環境と関わり合う中で自主的に学んだり、心身のいろいろな側面が相互に関連しあって発達するという理想は、確かに現在の学校教育においては完璧に実現できてはいない。「恐ろしいことは、そのような、型にはまった授業が教育のお手本になってしまって、早教育でも、いかにも教師が教えているという感じの『すずめの学校』の歌詞のような学校風の指導を受けると、『ああ、教育をしている』という満足感が得られる、倒錯的な雰囲気がしばしば見られることだ。ここでも、学校教育の悪いところが、早教育に持ち込まれているのである」。

 こうした悪影響を断ち切るために、氏は学校教育の「基礎・基本」の見直しを提案する。日常から切り離され、生活の匂いの消えた「国語・算数」が、その後に続く学問や学歴社会の入り口として子どもに与えられる限り、親も教師も、従来通りの早教育に躍起になるのも当然で、いまこそ「実物教育」「生活に役立つ知識」「体験重視」の価値を教育の基礎・基本に取り入れるべきだ、と。


早期教育の効果
国際基督教大学特任教授  藤永 保

 早期教育の効果を本当に確かめるためには、枝分かれしたままの論拠を整合的に体系化することから始めるべきだと藤永氏は主張する。そもそも、「早期とは何を差すか」「教育とは何を差すか」「早期教育と英才教育の関係は?」といった前提についての考察がないまま、一過性のトピックとしてしか論じられていないことを、氏は最初に指摘する。

 ある年齢を特定して教育適期とし、超早期教育論の根拠ともなる「絶対的早期教育」を氏は支持しない。「胎児や新生児の段階から意図的な超早期教育を行ってみても、その範囲はほぼ乳児が日常生活の中で吸収しているものにとどまると予想されよう」。

 また、常識的な「教育適期」よりも早く行われる「相対的早期教育」を、氏は「先まわり教育」と呼ぶ。「多くは、よい学校に入れる、入学後の学習に困らない、学習意欲や習慣を育てるといった、身近な目標への修正が行われ」、功利主義的な基準でのみその効果が判断されていることを、氏は“残念だ”と言う。「幼児期にはまだ未知の可能性が潜んでいること、その一つは映像情報処理とパターン認識能力からなることなどが示唆されている。これは、子ども一般の持つ財産であり、人類共通の財産として成長し得るものかもしれない。そうであれば、国民的課題として、今後真剣に、また公共的に取り組まれるべきものではなかろうか。もし、そうなればそれ自体が相対的早期教育のもたらした大きな効果と言えるだろう」。

 狭い教育観のまま、教育目標を喪失したままでは、真の意味での早期教育の効果は見えてこないと氏は言う。「早期教育の効果が真に検証されるためには、社会的教育体制の中にも、個性や独自性を受容し育てようとする寛大さがあり、早期の成果をさらに育てようとする姿勢がなければならない。それが欠けていれば、早期教育は必ずしも、英才や創造性と結びつくことはなく、せいぜい先まわり教育に終わってしまう」。


シリーズ対談<いじめ解体>4
「『子どもいじめの装置』をいかに変えるか」

 シリーズ4回目のゲストは、ノンフィクション作家の門野晴子氏。氏はわが子のいじ め体験などから行動を起こし、子どもの権利を守るという立場で、学校を批判する著書 を数多く執筆している。学校バッシングからは何も生まれないとする小浜氏とは、まっ こうから対立するスタンスである。議論は学校バッシングの是非からスタートした。

 門野氏は学校の教育問題と関わっていると、教師の弁明の場ばかりが用意され、親な り子どもなりの発言の場がほとんど用意されないことに気づくという。親や子に発言が 許されるのは、せいぜい何か問題が起こったときだけで、そのときには学校側の人間た ちは必死に隠蔽工作に走るという。小浜氏は学校が閉鎖的であることを認めつつも、マ スコミの学校バッシングの激しさや、一定のカリキュラムにしたがって運営している学 校に個別の利害を背負った親が入り込んでくることに問題があるとしている。

 また、いじめに関して、「子どもの自殺はすべて他殺だ」として「学校の教師の集団 的な子どもいじめ」や「いじめ装置としての入試制度」などを問題視する門野氏に対し て、小浜氏は被害者としての子どものことばかり問題にして、いじめている子どもの悪 の問題が抜け落ちていることを指摘する。

 両者の話が平行線をたどるのは、いじめの現状認識の違いである。門野氏は、子ども が学校や入試制度などの「子どもいじめシステム」によっていじめに追い込まれている とするのに対して、小浜氏はいじめは子ども集団の無秩序な活動から生まれてくるので あって、むしろ現代の多くの子どもたちは学校が用意するような立身出世競争から降り てしまっているとしている。対談は結局平行線のままで終わったが、現在の教育の現場 でより深く議論されるべき問題がさまざまに噴出した。

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