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子ども同士の世界 ―その展開基盤の現代的特質
東京大学大学院教育学研究科教授  藤田英典

 いじめの頻発、プリクラやベル友と呼ばれる新しい友人関係、一人遊びをする子ども―こうした現象を指して「子ども同士の世界が変わった」と言われるが、藤田氏はその背後にある構造や特質、そして「子ども同士の世界」のもつ意味を読み解いていく。

 子どもの生活基盤にとって最も大きな変化は、メディア環境の発展と多様化だと氏は言う。多様なメディアは子どもの限られた時間を取り合うため、子どもの対面遊びや読書時間は必然的に減少する。またメディアの変化は、人間の知覚・思考の習慣形成や人間関係の作り方、さらには知識の蓄積や入手の仕方にも変化をもたらした。その結果、子どもにとって価値ある知識源・情報源は学校だけではなくなったわけだが、氏は子どもの人間関係作りの基盤として、学校(=制度)が相変わらず大きな役割を担っていることを指摘する。つまり、今の子どもたちは家庭や地域といった包括的集団ではなく、学校・クラス・クラブ、さらにはお稽古事や塾といった、特定の目的・競争原理をもったグループに分節化され、そうした制度的枠組を媒介にして人間関係やアイデンティティを作らざるを得ないのだ、と。

 同時に、子どもの人間関係作りを媒介するもう一つの要素は「モノ」であると氏は言う。「モノの保有者・利用者は、モノに自己を投影し、あるいはモノを通じて自己を表現する。例えば人形遊びや合体ロボット・変身ロボットで遊ぶ子どもを見ても明らかなように、子どもはそれを媒介にして、演技し自己を表現する。プリクラを収集することで、友達の輪を広げ、その輪の中に自分を位置づける。アクセサリーや服装のスタイルは自分の身体を飾り自分を表現するものであるが、もう一方で、特定のアクセサリーを身につけている〈自分・自分たち〉とそうでない人たちを区別するシンボルにもなる」。

 なんらかのシンボルを必要とする根本には、今の子どもが〈剥きだしの個人〉として他者と対面せざるを得なくなった事情があると氏は強調する。社会が民主化し学校が均質化していくにつれ、能力・責任の有無は、階級・貧富の差や伝統的な職業文化や地域文化という〈属性〉のせいではなく、すべて〈個人〉の特質とみなされるだらだ。「学校における個性主義がこうした傾向に拍車をかけていることは想像に難くないが、今日、子ども同士の世界はこうした〈剥きだしの個性〉がぶつかり合う傾向を強めている。それは、時には好みが合う仲間同士が集まるという形をとるが、この〈剥きだしの個性〉としてのあり方が日常化しているところに、現代の子ども同士の世界の難しさの重要な源泉があると考えられる」。


子どもの生活世界 ―時間の問題を軸にして
花園大学教員  浜田寿美男

 発達心理学者の浜田氏は、子どもの生活世界を枠づけする軸である時間の流れに着目する。乳幼児期の子どもの世界は、身体の直接的な働き(感覚や運動)で構成されており、過去・現在・未来といった時間軸は存在しない。その後、学齢期に至るまでの間に、子どもは模倣や言葉を獲得し、生活世界にはイメージや概念、思考の世界、現在に過去や未来を重ねる世界の二重化が起こる。しかしながら、この頃の子どもの世界は圧倒的に〈いま〉が大きいと氏は強調する。「学齢前後にはまだあくまで〈自分のいま〉が軸で、その周辺をほんわりと過去と未来がくるんだようなイメージだといえばいいだろうか」。

 その状況が変わる境目は、学齢に達する10歳前後であり、そこで大きな役割を果たすのが「制度化された時間の梯子=学校」だと氏は言う。この頃、子どもは自分の〈いま〉と対等に他者にも〈いま〉があることを理解し、自分の明日を現実のものとして〈いま〉の延長線上に考えざるを得なくなる。「あるいは時間が一本の梯子としてしっかり固定化して、その梯子を自分も人も渡っていくのだといったイメージが登場してくると言ってもよい。子どもたちが現実的な形で『自分の将来』を意識し始めるのが、この10歳前後なのである」。そこでは将来への希望は世間の尺度によって固定化され、不安や葛藤も生じてくる。いじめも、こうした構造に本質があると氏は指摘する。「100%近い子どもたちが高校へ行くこの時代、中学から高校にかけての時間は、子どもたちにとって学校の梯子を渡るという時間軸に制度化されてしまっている。この時代状況にこそ問題の根があるのではないだろうか」。

 この制度化された時間軸―学校―に捕らわれて、子どもたちはもがいていると氏は言う。学校という時間軸からはみ出してしまう子ども、なんとか学校という梯子をより高く登ろうと必死になる子ども−いずれも〈いま〉と〈明日〉という時間軸の間で悩み、揺れている、と。「今日の子どもたちの生活世界には、〈明日〉と〈いま〉の葛藤が、解きがたい葛藤としてまとわりついている。その問題の根は、むしろ状況の側にある。そしておそらくそれは私たちを包んでいるそれとほとんど変わりはしない」。


子ども集団と自我の形成
精神科医  滝川一廣

 「子ども集団の現代的特徴は、かつては大きな役割を果たしていた大将格の年長児を核に近隣の諸年齢の子どもたちがおのずと群れ集まった自然発生的な子ども集団が消えて、保育園、幼稚園、学校など大人が人工的・制度的に組織した子ども集団に全面的にとって代わったことだろう」と滝川氏は言う。言い換えれば、現代の子ども集団とは年齢ごとに輪切りにされ、大人の直接の管理・保護下に置かれた集団である。これは子育てが手厚くなったという面では評価に値するのだが、当事者の子どもたちにしてみれば、「早期から平準性の高い集団の中で大人に丹精されつつ育まれる傾向が強まり、これは現代の子ども集団に独特のデリケートさを与えている」面もあると氏はとらえている。現代の子ども同士の世界は「大人の社交世界のように微妙に気を遣い合う世界」になっている、と。

 一方で氏は、子ども集団が子ども集団である限り、大人の管理や視線の届かないところに子ども同士の世界を作るはずだということを強調する。いつの時代のどんな条件下でも、子どもは子ども同士の世界での「遊び」を見つけ、遊びを通して自我を形成し、自立性や創造性をつかみとっていくからだ。道具や手段は変化しても、その「心性」は変わらないと氏は言う。しかし、現代の子どもたちは、大人のまなざし下に置かれる度合いが強まったぶんだけ、より大人の手や目の届きにくい奥へ奥へと自分たちだけの世界を求め、遊び以外のところへ潜行していく―それが学校での「いじめ」である―と氏は言う。「大人の関与を深めることでいじめをなくそうとする方策が有効かどうか…。学校という大人の丹精が行き届いた均質的で単調な時空内で子どもが編み出す密やかな戯れ、隠微な祝祭が今のいじめであろう」。

 こうした現代の社会構造が生み出した子どもの問題を、氏は大人社会へ問い返そうとしている。「現在の子ども集団が丹念に大人の手が入った集団になってきたのは歴史的ななりゆきであり、そのプラス面も決して少なくない。ただ、何ごとにつけこの世にすべてよしはなく、一方でその負の部分にも直面する。何かを得れば何かを耐えなければならない。こうした人間社会の厄介な現実に対してなお愛と信を失わずに生きてゆけること―そうした自我を育むことが子育てかもしれない。われわれ大人自身の、この自分たちの現実世界への愛と信の如何が深く問われるところだろうか」。


準拠枠としての学校文化 ―消費社会との共謀
関西大学社会学部教授  岩見和彦

 もともと学校は、「結合=つながり価値」と「分離=序列的価値」という二つの規範がせめぎ合う場であると岩見氏は言う。子どもたちはこの同質化(統合)と差異化(分離)という二つの規範を軸にして自分の生活する座標を戦略的に決めざるを得ないと。一方で、消費社会の「欲望」とメディア社会がバーチャルに作り出した新しい「世間」によって、学校システムの求心力は弱まり、子どもたちの生活世界は遠心化している。「多数派は身近な他者よりも商品とメディアが作り出す『世間』に誘惑され、クラスとか学校といった枠組みの色合いを脱色したような形で、あるいはそれを超えて他者とつながり、同質的な『生徒』からの脱出を試みる。そうした世間の人であることが、子どもたちの友達基準になっているようなのである」「そういう『心理的脱獄』を実体化し自由人イメージを擬似体験させてくれるのが、高度消費=メディア社会なのである」。

 この両者−学校文化と消費文化−は、対立ではなくむしろ「共謀関係」にあると氏は言う。消費文化は一時的に大学受験というハードルを隠蔽してはくれるが、子どもたちはやはり偏差値信仰、学歴主義に縛られている。「そうだとすれば、現代の学校文化が消費文化に侵蝕され、機能不全をきたしていると見るだけでは単純すぎる。そうした見かけの弱々しさとは裏腹に、その背後に浮かび上がってくるのは、学校文化と消費文化との共謀という構図だからである」。

 そして、消費者として「早熟」した子どもたちの欲望のゴールは「自分」となる。自分都合のモノ・コト・ヒトに取り囲まれた「居場所」を探し、子どもたちは市場とメディア世界へと流れ出している。しかし、自分志向が強ければ強いほど孤独感もつのる。その意味では、子どもは本当は他者との深いつながりを求めてもいる。「でも、まわりは勉強や遊びだけに分節して『摩擦回避』する友達ばかりだし、自分もそういう振る舞いしかしていない。そういうジレンマに多くの子どもたちは気づいている」。こうした問題は、異質なものを排除し、同調的なつながりを基調としてきた日本社会の特質のせいであると氏は指摘する。「既製服の友達共同体ではなく、自分と他者に向き合い真に個性的=人間的なものを探し合っていくという、本来の意味での『共生』の仕方を、子どもも、そして教師も親も深い課題として真剣に引き受けていくほかあるまい」。


アイドルからステキな〈仲間〉へ
 ―メディア文化と子どもたち
大阪市立大学文学部専任講師  石田佐恵子

 TV番組やCM、雑誌などのメディアが与えるイメージとして、「個性的に突出した『スター』が看板となるような番組やCMはあまり見られなくなり、とにかくみんなで集まってワイワイ・ガヤガヤやっているような、そんな画面が目につく。そこで振りまかれているのは、ステキな〈仲間〉たちのイメージであり、大勢で何かすることの楽しい雰囲気だ」と石田氏は言う。確かに、70年代以降のTVの「学園もの」ブームやお笑いタレント・グループなど、メディアは常に〈仲間〉イメージを提供してきてはいる。が、それらの〈仲間〉イメージはすでに消費し尽くされ、現在は、〈遊び〉や街といった空間に求められていると氏は指摘する。それは「お互いの本名や年齢すら知らないような、単なる遊び集団として街で出会う仲間」であり、「あだ名で呼び合い、共有しているのは音楽の好み程度、なにげない話題で盛り上がり、時間が来れば別れ」、「ワイワイ楽しく過ごしても、そこでの自分は〈真の〉自分ではない」と思ってしまうような関係性である。

 そうしたイメージは、「銀幕スター」の登場するメディア世界とわれわれの日常世界とが厳然と区別されていた時代から、TVの台頭による「アイドルの時代」、さらに現代のステキな〈仲間〉イメージの時代へと変遷をたどっている。しかしながら、いつの時代にも人びとは自らのアイデンティティ獲得のためにメディアに登場する存在をまなざしてきた、と氏は言う。「崇拝の対象との距離感は変化しても、その吸引力・魅力の源泉の本質は自己の定点・座標点を見出したいという欲求にほかならない。そのように考えれば、メディアの中のステキな〈仲間〉たちは、メディアの世界が限りなく日常世界に近づいていた時代の、アイデンティティ獲得のための新たな座標点なのである」。

 さらに、氏はステキな〈仲間〉イメージを作り出すメディア社会の陰の部分を示唆している。一つは、学校や地域社会におけるメディアを介さない「通常の」出会いから魅力が失われていくのではないかという懸念であり、もう一つは、ステキな〈仲間〉イメージに楽天的に没入できない子どもの存在や、〈仲間〉イメージとは逆の、メディアの作り上げる〈敵〉イメージである。「ステキな〈仲間〉たちのステキさは、その輝きが強ければ強いほどそれに比例した闇の部分を産み出すのではないだろうか。そのとき、ステキな〈仲間〉たちはその魅力の強さと同じくらい強く、憎悪の対象ともなり得るのである」。

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