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子ども同士は遊んでいるの?

斎藤次郎×仙田 満×大平 健 (司会)藤田英典


はじめに
藤田: この座談会では、子どもたちはどういうふうに遊んでいるのか、子ども同士の関係、そこに表れる現代の子どものありようはどうなっているのか、生活と心のありよう、その環境との絡み合いはどうなっているかといったことを考えることができればと思っております。
 最近、私が研究代表者になって行った「小中学生の生活と意識について」という調査の報告書を出しました。全国八都県で行ったアンケート調査です。サンプル数は七千ぐらいの、かなり大規模なものだったんですが、友達関係が、一方ではグループ化していて、しかもそのグループがひところに比べると小さくなっている、そして小さいグループであればあるほど、中の友達同士の関係にある種の葛藤のようなものが潜在している、そういう契機がはらまれているようだということを、調査データに基づいて指摘しました。
 また、子どもたちの行動面には、都市化の影響でしょうか、「繁華街カルチャー」と呼んだのですが、繁華街的なビヘービアが小中学生の間にも見られるようだということも指摘しました。
 それからもう一方では、話題とか趣味とかモノとかが媒介となる友人関係がかなりの広がりをもっているということも指摘しました。そういうことで、友人関係のあり方を考え直してみる必要があるのではないかということを示唆しました。
 さらに、われわれの調査では扱えなかったのですが、最近のマスコミを見ておりましても、あるいはちまたで私どもの目に触れるところでも、プリクラでありますとかポケベルでありますとか、そういったものを媒介にした、今までとはちょっと異質に見える友人関係というか、ネットワークの広がりのようなものも、もう一方ではあるようです。
 そういうことを背景に置きながら、斎藤先生にはとくに子どもの現場から、仙田先生には子どもたちの遊び環境から、大平先生にはとくに心の問題から、自由に論じていただければと思っております。


小学校への留学体験
斎藤: 実は、僕は一昨年の五月から昨年の三月まで、青森県の、人口が一万人ぐらいの町の小学校に四年生として留学したんですよね。もちろん、ひと月に三、四日ずつ行くっていう、変則的な通学しかできないんですけど、ともかく朝から晩まで、完璧に四年生として過ごした。授業を全部受けて、お昼休みにはドッジボールをやって、掃除をやってという暮らしをしたわけです。
 とてもいいクラスでした。まったくの無作為抽出というわけでもないんですが、こっちで選べる立場じゃなくて、たまたま縁があってそこに行っただけです。それでたまたま特別すばらしいクラスにぶつかったというのも出来過ぎです。そのクラスと同じような雰囲気というのは、きっと本来はどこのクラスにもあるんだろう、また現実にもいっぱいあるんだろうなという気がしてます。
 もちろん、毎日毎日快晴のわけではなくて、雨の日もあるし、嵐の日もあるんですけど、まあ、おしなべて一年間を振り返りますと、いい感じで友達づき合いもうまくいっていた。
 しかし、小さいいじめは絶えずありまして、それが一日二日のことで終わるか、もうちょっと長引くかみたいなことが、まわりにいる子どもたちの力や関係によって決まっていて、そこでうまいこと学習できると、いじめた子や、いじめられた子や、見てた子や、慰めた子やらの全体の知恵が一つ深まっていくというか、みんなの経験になっていくわけです。
 確かに、いろんな難しい問題はあるし、いい感じの友達関係がもてないで苦しんでいる子どもがいるということは、僕も知らないではないんです。でも、何かちょっとした条件がよくなるとか、大人の配慮が行き届くとか、子どもたちが喜ぶようなことが続けざまに起こるとか、ちょっとした刺激が加わることで、割といい感じの、穏やかな人間関係を結んでいく可能性が、子どもにはまだまだ確実にあるという気がしました。


遊びの空間量の変化
仙田: 私の専門は建築や都市空間ですから、その辺のところからちょっとお話ししてみたいと思うんだけれども、私は、一九七五年前後に、沖縄から北海道まで約四十小学校区単位での子どもの遊び環境の調査をやりました。そして、それから二十年後の一九九五年にも同じような調査をやりました。
 それらの調査では、子どもたちがどういうところで遊んでいるか、そしてまた遊び空間、遊び場としている場所が量的に増えているか、減っているかということを調べたんです。一九五五年から七五年の二十年間というのは、もう圧倒的に日本全国どこもここも、遊び空間量が減ってきたんですね。それも十分の一とか二十分の一とか、そういう急激な減少率だったんです。
 ただ、七五年から九五年の減少率は、東京の子どもたちの場合、大体二分の一ぐらいじゃないでしょうか。ですから、減少率そのものは小さくなっているんです。それはやっぱり、七五年の段階、今から二十年ぐらい前に、もうかなりぎりぎりのところまで遊び場が小さくなっているということがあるんだと思うんですよね。
 ただ、七五年のときに調査したものと九五年のものを合わせて、この二十年間の変化を沖縄から北海道までまとめてみたんですが、この二十年間では、意外と遊び環境が減少していないというか、遊びの空間、テリトリーが小さくなっていないんですね。
 そんなに数はありませんが、増えている地域もあるんです。それはどういうところかというと、これが結構不思議で、いわゆる地方都市の、しかも大都市に近接したところで、自然の豊かな地域ではなくて、人工的な公園整備がされたところなんです。県立公園ができたとか。
 だから、手を入れた自然の中、言うなれば、ある種の都市開発がされたところの子どもたちは、結構、二十年前に比べると空間量を増やしている。そういう感じがありますね。
 また、四年ぐらい前に山形県で、郡部と山形市内の両方の調査をやったんですが、そのときに非常に驚いたのは、山形の郡部の、かなり自然の豊かな田園地域の子どもたちの二十年間の変化が非常に大きいということなんです。あまり都市化されていないから、空間的な田園風景はそれほど変わっていないんです。ところが、自然遊びがほとんどできないという状況で、テレビゲームにひたっていたりする。僕は、少子化の影響は都市よりも田舎の方が大きいんじゃないかと思っているのだけれども、友達関係も、都市の子どもより希薄なような感じがしました。
 まわりは、自然の豊かなところだけれども、そんなところでは遊んだことがないという地域の子と、まだまだ結構外で遊んでいるという地域の子と、田舎もすごく二分化しているという感じです。


都市のなかの「隠れ家」
大平: ある種の都市開発がされたところでは遊び場の空間量が増えているというのは、大変おもしろいですね。そのことに関連して思い出したことがあるので、それについて話します。
 精神科医のところに来るのは、小学生のときから不登校と言われているような子なんですが、結構、同級生がくっついてくるんです。それでついでについてきた子も一緒に診療室に入れて、話を聞いていると、やっぱり昔と同じだなと思うのは、不登校の子も、付き添いの子も、「隠れ家」という言葉が好きなんですね。これはもう、何十年も前の僕の時代とほとんど同じで、結局、不登校の子と、一緒についてくる子との違いは、一概には言えないんですけれども、不登校の子は隠れ家を見つけるのが下手だということなんです。

大平 健氏
斎藤: おもしろいなあ。
大平: いろいろ聞いていると、今の子どもたちは、昔もそうですけれども、これだけ管理社会とか何とかと言われていても、東京の子でもいろんなところにすき間を見つけていると思うんですよ。
 僕のところは中央区で、とにかくビルの群れと、バブル崩壊の結果として生まれた駐車場しかないようなところなんですが、昔の建物と建物の間のすき間に潜り込んでいるんですね。そこには、ふだん学校にいるときの仲間と違う仲間がいて、弟を連れてきたり、妹を連れてきたりしてて、小規模ながらわんぱく集団に近いようなことをやっている。何をやっているかというと、たわいもなくて、ただ世間話をしたり、空想をしたり、それから時代のせいかもしれませんけれども、「地球が滅びたら、この仲間だけはみんなで逃げようね」(笑)みたいな話をして、お互いに慰めているわけです。
 ところが不登校の子に「君の隠れ家はどこ?」って言うと、自分のうちの自分の部屋しかないんですね。「でも、ほかの子は、こういうとこに潜り込んでるよ」と言うと、「汚い」と言う。確かに、あのビルの谷間というのは、ごみとほこりの吹きだまりで、とても汚いわけですね。親は禁止するし、先生も禁止するわけです。
 それから、さっき、繁華街のことで藤田先生のお話を聞いてふっと思ったのは、これは私のまったく勝手な感想なんですが、繁華街というのは、都市における巨大な隠れ家だと思うんです。大きいんですけど、あれはすき間ですよね。あそこに入り込むと、不思議と誰にも見られていないような感じがするんじゃないかと思うんです。
斎藤: 思い当たることがいっぱいありますね。本当にそう思います。例えば、コンビニエンスストアなんていうのは、子どもたちにとって、隠れ家というかすき間ですよね。
斎藤次郎氏
大平: ああ、そうですね。
斎藤: 僕は、立ったり座ったりして一日いたことがあるんですけど、サバンナの池に水を飲みにくる動物みたいに、時間差があって、小学生は昼間のまだ早い時間に来るし、年齢が上がるにつれて遅くなってくる。ちゃんと棲み分けてるって感じ(笑)。
 滞店というのかしら、店の中に滞在している時間は本当に短いんですよね。もう三分でも用が済むし、長くても十分とか十二、三分で、それは待ち合わせだったりするんですよね。だけど、入ると、ただじっと立ってることはなくて、買う、買わないは別に一応ひと回り回っている。あれって、やっぱりすき間でしょうね。
 大人が子どもに、塾に行けだの、おけいこごとに行けだの何だのって、いろいろ放課後の時間まで意味ある領域を設定しちゃってかわいそうという理屈には、半分以上賛成なんだけど、そういうふうに大人がいろんなものを設定すればするほど、植木算じゃないけど、すき間は増えるよね(笑)。塾に行くんだったら、行きと帰りにすき間ができるわけですよ。そこに友達との遊びが生まれる余地がある。
 その場合に、「汚くなる」と親に言われて入れない、きわどいすき間と、コンビニエンスストアみたいに、行く口実されあればみんなが大手を振ってでもないけれども、偉そうな顔をして入れるすき間とがあるような気がしますね。
仙田: 少子化社会と言われて、東京なんかは全国平均を大きく割って、一・一をさらに割っているでしょ。でも、絶対、児童人口密度はまだまだ高いんじゃないかと僕は思うんだよね。だから、おっしゃるように、例えば塾の帰りに西武百貨店を舞台に隠れん坊をした思い出があるとか(笑)、そういうことを今の大学生でも言うわけです。そういう意味では、東京の子どもの方が、すき間にしても、そういうチャンスがあって、むしろ、田舎の子どもたちの方が若干問題だという逆転現象があるかもしれません。
仙田 満氏


遊びは自分を失うこと
斎藤: 僕、この頃すごく思うんですけど、遊び道具もなくて、全力疾走するエネルギーもない、遊ぶ時間もない、でも何もないとつまんないから、こちょこちょと集まって遊ぶというような遊びが、今、一番廃れてますよ。本当は一番、やりやすいはずなんですけどね。
 スポーツなんてのは、ゲームの中でも一番ぴかぴかで、光が当たっていて、うまくすればお金もうけになるというふうに子どもは思っているわけだから、「サッカーをやるんだ」と言うと、さも何かをやるような感じで、みんなも「あ、サッカーをやるんだ」と思うんだけど、五、六人で、ぐじゅぐじゅっと何かやろうという遊びは、名前もないし、概念がないからだめなんですね。
 だから、子どもたちは、予定表に書けるような、概念で捕まえられるものには習熟するけれど、そうでないとうまくやれなくなってしまったというのが、大きいんじゃないんでしょうか。
 もともと大人はそういうふうにしがちで、その方が効率的だけど、子どもは、それこそさっきのすき間での遊びではないですが、大した道具も使わずに、空想したり、ちょっとふざけっこをしたりということでも、なんとなくみんなが「ああ、おもしろいかった。おまえと一緒でよかった」という気分になれる。そういう名づけようもないものが、今は一番はやりにくいんじゃない?
大平: 基本的には、みんなに「すき間は嫌いだ」という一種のイデオロギーがあって(笑)、それが子どもたちの世界にも広まっていると思うんですよ。
 強い自意識が子どもたちの世界にも出てきているんですね。自分がその場をコントロールできているのか、できていないのかということが、ある種の気持ちよさだったり、自尊心なんかに関わってきていて、遊ぶときにもそれがある。
 ファミコンの世界なんか、完全にそうですよね。自分がスイッチオンして、スイッチオフする。決まったシステムを自分が完全に支配するといってもいいんですが、そういう種類の自意識というのがとても強くなったと思うんですね。
 ぼうっとしているうちに、だれか年上のやつにああしろ、こうしろと言われて、気がついたら三時間遊んでたみたいなのは、今はちっちゃな子でもだんだん嫌になっていると思うんですよ。どんなちっちゃな子でも、自意識のコントロールのもとに道具を使って遊ぶ。一定の時間遊んで、「うん、満足」と。
 こういう整った形の、あくまでも自己表現だったり自己主張の場でないと、遊びも楽しくないようになってきていると思うんです。遊ばれたり、人の自己表現の道具になったりするのはみんな嫌になっているというのが、大きいと思うんですよね。
斎藤: でも、遊ぶのって、自分を失うことだよね(笑)。
大平: 本来、そうですね。
斎藤: 子どもの遊びというのは、どっか名づけようもないものをもってますけど、そこの部分が今の子どもにはちょっとね。
 ただ、それを大人がまた、名づけようもないものという、新しい商品にして子どもに出しちゃうと、とんでもないことになるんです。そうではなくて伝えていけるものがないとね。


隠れ家の生まれる雰囲気
仙田: 僕らの子どもの頃は、三人しかいなければ三人の、何かおもしろい遊びを考える、発明するっていうのかな、そういうのがすごくあったと思うんですよね。少し人数が集まると、そういう子は、今日はこういう遊びをしようという感じで、名前のない遊びをとにかく考えだして、それをおもしろくして、広めてしまう。そういう才能をもったやつが何人かいて、その遊びがおもしろくなると、一か月とか二か月ぐらい、そればっかりやったりしてた。
藤田: そういうリーダーシップを発揮するとか、リーダーシップとまでは言わないまでも、何か引っ張っていくような子どもが、青森の小学校にはいましたか。
藤田英典氏
斎藤: ああ、いました。
藤田: やっぱりね。
斎藤: 例えば、うちの旅館のテレビが、ビデオが見られるやつだったんですよ。それを子どもが目ざとく見つけるわけね。で、「ビデオを借りにいこう」って。実は、旅館の部屋の下にビデオ屋さんがあるわけですよ(笑)。泊まっている人だと百円割り引きで借りられるから、行こうって。
 そしたら、あるとき、『スラムダンク』を借りてきたわけ。それを見てたら、よその学校へ行って試合をした後で、前の中学のときの女の子が来てて、主人公が彼女に公園で会うというシーンがあるわけ。それ、ちょっとしたラブシーンなんですよ。二人が向き合って、女の子が目をつぶって、アップになって場面が変わっちゃう。それがみんなすごく気に入っちゃった。
 それで、「さっきのとこ、また見よう」っていうわけ。「さっきのとこ」というので、分かった子もいるし、全然分からない子もいて、「どこ、どこ?」って巻き戻して、「あ、ここ、ここ」って、見る。目をつぶって、アップになると、みんなが「わははは」って、もう笑い転げるわけ。それでビデオは進行しちゃうから、次の子が「貸して、貸して」って、リモコンでまた巻き戻す(笑)。そこにいた子が全員やったの。それで、必ずそのシーンが来るとみんなで「わははは」って笑う。「あ、こういうビデオの遊び方ってのもあるな」と思ったんですよ。
 「わあ、すごいね。いつもこんなことして見てるの」って言ったら、「ばかだね、次郎ちゃん。こんなことをやったら、お母さんに怒られるよ」だって。だから、それはまさに隠れ家だからできた遊びスタイルなわけね。
藤田: なるほどねえ。そうすると、基本的には、時間があって隠れ家的な状況があると、子どもというのはそういうものをつくり出す力を依然としてもっているということですね。


子どもの逸脱の許容度
大平: 突然極端な話をするんですけど、今、子どもの犯罪に対する社会の許容度が下がっていますでしょ? 子どもだから許そうということがだんだん、なくなってきていますよね。イギリスなんかでも十二歳の子の殺人に対しても死刑にしろなんて話していて、子どもだから許そうということがなくなっていっていますからね。
藤田: そうですね。
大平: でも、以前、おかしかったのは、九州の佐賀かどこかだったと思うんですけど、中学校で上級生が下級生から金を巻き上げているということが報じられて、東京からたくさん、テレビニュースや何かのチームが行って、みんなに取材したわけです。その辺で野良仕事をしている人に「こういう噂がありますけど、どうですか」って聞いたら、「そんなこと昔からやっとるばい」って(笑)。それで、「それは問題じゃないんですか」って言うと、「低学年のときに取られても、上級生になって取り返せるからよか」って(笑)。それは文化なんだと思うんです。
 だから、「中一のときに取られても中三のときに取り返して卒業する。これはみんな昔からやってるんだ。中学生というのはそういうもんだ。男の子はそういうことをしているんだよ。別にぐれていったわけじゃなくて、お巡りさんになったのもいるじゃないか」みたいに完結する話と、「中学生が下級生から金を巻き上げている。そういう犯罪に満ち満ちた地域だ。問題のある学校だ」というとらえ方との落差は大きいと思いましたね。
 東京のメディア風のお行儀のよさというのが、全国へある種の秩序として伝わっていくと、今の斎藤先生のビデオの話だって、小学生だから無邪気ですむけれども、これが高校生ぐらいになってくると、よくないビデオを見るに決まっているわけですから、それだけですむかどうか分からないという話になってくるわけでしょ?
斎藤: ええ。
大平: 遊びというのはちょっとひっくり返ると非行の問題になる。そのときに、完全に無菌状態にして、非行がないようにしようというふうにしていると、同時に遊びの芽も摘まれるんじゃないかという気がしますね。
藤田: メディアのインパクトが非常に大きいというだけでなく、カルチャーそのものが変わったということがあるんでしょうね。
仙田: 安全だとか、そういう問題に対するとらえ方、事故に対するとらえ方も変わってきてますよね。子どもに何か事故があると、その設置者を許さないとか、すべてをそこに転嫁していくとか、そういうふうに、事故だとか犯罪に対する許容度は急激に小さくなっているんじゃないでしょうか。アメリカなんかの、幼稚園の事故に対する裁判の多さだとかを見ると、その傾向はおいおい日本にも来ると思いますね。
斎藤: メディアの質の問題もそうだけども、それを解いていく解き口が、メディアに寄り添うというやり方ではなくて、その人のもっている生活実感とか、子どもの問題でいえば子ども観に添うべきなんです。つまり、自分の子どもやまわりの子どもとの間で抱えているストラグルとかそういうものを通してメディアから流されてくる情報を見るべきで、そうすれば、「そりゃ、違うだろう」という読み方もできるのだけれども、大人の側がそういうふうに今の自分たちの生活をなかなか見られない。
 例えば、いじめの問題にスポットライトが当たってて、ともかくいじめをなくそうという言い方がメディアで一番流通性が高いとなると、いじめとは何なんだろうかということを全部抜いて、いじめをなくすというところから問題を始めるわけですよ。
 そりゃ僕も、いじめがあっていいと思うわけではないけど、いじめをなくそうというところを出発点にしたいじめ論は、子どもとは行き会えない。子どもの社会では、いじめというのは日常なんだから、その日常的に起きるいじめをどうやってクリアしていこうかという話でしょ、本来は。


子どもの正義と大人の正義
大平: 精神科医の言い方で、よく「正義は間違っている」という言い方をするんですよ。
斎藤: はっはっは。
大平: つまり、だれも反対できない議論をしたら、もう人間関係は完全に壊れるんですね。いじめをなくすというのは、今、正義ですよね。今の先生の話を聞いて思ったんですけど、子どもは遊んだり、非行したり、すき間に入り込んだりするわけで、子どもには子どもの正義があって、それは大人の正義とは全然違うものなんですよね。ところが、大人の正義というのは大人ですら反対できないんだけれども、今、それが子どもを巻き込んでいると思うんですね。
 いじめもそうだと思うんです。私も歯がゆく思うことがありますけど、こういう時代に「少々のいじめは結構です」なんて、やっぱり活字にはできないってとこがありますでしょ? そうすると、死んだ子はどうしてくれるんだということになってくるわけですよね。だから、「死なない程度のいじめを…」と言うと、「どこで線を引くんだ」と言われてくるし、これ、絶対勝てないんですね。
藤田: まったくそのとおりですね。
大平: 大人の目から見てずるいことが子どもにとってはずるくなくて、大人の目から見てその逆があってということで、きちんと成り立っている、一つの完結した形ができているわけですから、それはやっぱり、大事にしてやるというところから始めないと、どんどん、どんどん、大人の正義感で子どもの世界そのものをつぶしてしまうんじゃないんでしょうかね。
斎藤: 僕、今の話を聞いてて、まったくそうだという例を思い出したんですよ。
 雪の降ってる日に子どもたちが遊びにきたけど、また例によって遊びがないわけですよ。ぐじゃぐじゃやってて、ちょっと険悪になったんですよ。ともかく、ボールなり、ソリなり何なりを誰かが取ってこなきゃいけないわけ。
 「おまえ、行ってこい」っていうふうになって、強い子が弱い子に言うわけです。「おまえが一番近いんだから、おまえが取ってくるのは当たり前だ」と頭ごなしに言うと、弱い子は抵抗するわけですよ。無理もないわけね。
 僕は気が気じゃないわけです。でも、そのうちにみんなでその子のうちに行って、ソリやら何やら持って上機嫌で帰ってきた。そして、「これから雪を積んでスロープをつくって、そこでソリに乗って一人ずつ滑るんだ」とか言って、そういうのをつくろうってことになったんです。
 でも、やっぱり、威張ってた子が支配していくのね。仕切っていくわけ。弱い子は、雪運び役になったりするわけ(笑)。威張ってる子は「早く、早く」って、雪をぱっとあけて、「ほら、また行ってこい」って。「やっぱり、楽なことをやってるな、あいつ」っていうんで、僕は感じ悪いわけ。
 ところが、どんどん、どんどん、そうやっていくうちに、だれかがたまった雪を固めていくという仕事をしなきゃならなくなったら、そのボスはもう本当に必死になってスコップでたたいて、自分でバタンと倒れたりして、一生懸命固めるようになるんです。一時間ぐらいかかって、結構いいスロープができたんです。そして「試運転だぞ」と言っているから、もう当然、そのボスが一番乗りをするんだろうと思っていたら、道具を取りにいったうちの子に「おまえから乗れよ」って、乗せてるんですよ。
 だから、ある部分を見たら、絶対それは大人の正義と子どもの正義の違いで、「あの子、何やってんの」とかなるんだけれども、全部を見て、しかもその遊びが始まる前のぐじゃぐじゃから始まってずうっとそこまで行ったのを見てると、本当にトータルに全体がいろんなものを出して、関わりのなかでつき合っているんですね。
藤田: なるほどね。
斎藤: それこそ大人の目つきや枠組みから判断したら、ボス的な子の強引なやり方は、受け入れ難いと思っちゃうわけだし、そんなことをやるんだったら、整然と筋の通ったことをやってるほうがいい子というふうに見ちゃう。
 だって、初めは何をやっているのか分かりませんもの。駐車場を駆け回って、ともかく雪を運んでいるだけですから。それが形をなしていくには、それなりに時間がかかる。その間はもう本当にアナーキーですよね。そこを待ってなきゃ、本当のところは分からなかったなあと、あとで思いました。
大平: ゆっくり時間をかけるということが大事なんですね。
斎藤: 大切だと思います。
仙田: 環境という点から言うと、基本的には、ザルみたいに穴がたくさんあいているというか、きっちりしているといけないんだろうなという感じですよね。空間にしても時間にしても、ポーラス(多孔的)な環境、いっぱい穴があいてないといけない。規則とかそういうものがない、ポーラスな環境を認める社会がどう実現できるかというところじゃないかな。
 ところが、現実には法律にしても何にしても、穴がないように、がんがん、がんがんやっていて、われわれはそれを高度な社会と言っているんですよ。
藤田: 現代社会では、子どもによかれと思ってやっている制度や環境づくりの仕方にも問題があるということですね。子どもの正義を認めるとか、ゆっくり時間をかけて待つというようなことが、重要なキーワードかもしれませんね。

(さいとう・じろう 教育評論)
(せんだ・みつる 環境建築)
(おおひら・けん 精神医学)
(ふじた・ひでのり 教育社会学)

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