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自発性ではなく自律性を
京都大学文学部教授  加藤尚武

 日本の社会あるいは教育においては、子どもの〈社会化目標論〉と<自発性尊重論>の二つが支配的であるが、加藤氏はここで、第三の考え方、すなわち〈自律性形成論=オートノミー目標主義〉が必要であると言う。オートノミーとは、「一人ひとりがこの判断枠で処理していけば、社会と自分との妥協が成り立つという、自主判断による協調の目安」であり、<他者危害の原則>とも言い換えられる。これはもとより自由主義社会の基本であるが、日本の倫理教育や道徳教育にはもとよりこの概念はなく、だからこそ先の二つが混乱する形で対立してきたことを氏は指摘する。

 オートノミーの考え方を定着させるためには、まず「大人になるということ」の意味や、そのために身につけるべきルールに対する認識が必要である。しかし、日本ではこの規範はきわめてあいまいであり、自主的な判断とわがままの境界はどこにあるのか、学校教育においてどこまで「心の教育」が可能なのかという議論自体が成り立っていないばかりか、ともすれば「アンチオートノミー教育」が行われていると氏は言う。学校教育でできることは、まず他者危害を侵してはいけないという最低限の倫理を教えることと、人柄の良さや豊かな情操といった社会人の常識としての心の教育であり、それ以上は学校教育の限界を超えると氏はとらえている。「日本の社会はそういう問題についてあまりにも答えがなさすぎると思うんです。系統だってそういうことを議論する筋道をもっとみんな考えなきゃいけない。だから学校で考えるまえに社会全体が、このレベルまでは教育目標にしてほしいとか、合意形成がないといけないと思います」。

 日本では、社会的な意思決定は義理や人情に頼ることが多い。しかし複雑化した社会の意思決定とは、単一原理ではなく複数の原理の間のバランスをとったり、現実のトラブルに際して妥協点を探っていくものである。「日本社会は、だからまだ自由主義社会に見合うだけの文化をもってないと思います。やはりまずやるべきことは、オートノミーといったような自由主義社会を維持するための最低限度のルールなりメタ原理を、社会的合意としてはっきりさせておくことなんじゃないでしょうか。オートノミーというと難しい感じがするかもしれないけれども、『他人に迷惑をかけない限り、人から命令されることもなく、自分の責任で自分の好きなことができて、そのかわりに、他人には、たとえわが子であっても自分と同じようであれとは要求できない』ということですね」。


児童中心主義の底流をさぐる
 ―空虚にして魅惑する思想―
放送大学教養学部教授  宮澤康人

 児童中心主義の考え方は、教育学においてすでに理論的・実践的にも克服された思想であるとされているにもかかわらず、その根底にある心情は、いまだに多くの人の心をとらえて離さない。「子どものための学校」「生徒が主人公である教室」といた表現が、自明のことのように繰り返されるのはなぜか−宮澤氏は、この疑問に対し、児童中心主義はむしろ「近代の大人たちが直面した絶望の産物」であると想定する。

 児童中心主義の登場は、「教育する対象」であった子どもが「学ぶ主体」になるという、「コペルニクス的転換」であったと氏はいう。しかもこの転換は、「子ども・教師・知識」の三者の関係性の転換でもあったのだ。教育方法の伝統的アプローチでは、知識は教師の側にあり、子どもはそれを享受する。その後に現れたプロセス・アプローチでは、教師は知識と生徒を橋渡しをする役目を担う。そして、1970年代にアメリカで開発された「オープン・アプローチ」とは、環境問題を解決するための方法論であり、知識は環境のあらゆるところに存在し、子どもは自身の興味・関心に応じて自由に学習する。教師は、援助者であると同時に、子どもと同等の学習者であり、つまりこれはまさに児童中心主義の学習理論なのである。この理論が現代に再び登場してきた背景を、氏は「既製の知識では対処できない類の危機に際して、大人は新しい発想を産み出すのにかえって不適確である。そこで、柔軟な子どもの助けを借りて頭の固くなった大人の自己変革を促し、未知の世界に立ち向かう力をつけようとする窮余の一策ではないだろうか」と見る。

 この発想と似通っているのが、「神は子どもの中に宿る」「救済者としての子ども」というロマン主義の「子ども信仰」の精神構造があると氏は言う。「たしかに、そのイメージから大人は教えられるところがある。しかし、文字どおり、『子ども』が大人の『教師』をつとめることも、現実の子どもが大人の実際の『規範』になることもありえない。子どもを心の支えにするのは大人の勝手だろうが、期待の熱いまなざしを向けられた子どものほうは、当惑するしかない。とりわけ日本のように、汎神論的心情も、体験至上主義の発想も強い文化においては、近・現代が生みだした難局に直面した場合に、人々は、西洋以上に容易に、児童中心主義的な思想に支配されやすい。大人が、確実な知識を手にできない窮状、『正統的な信仰』をもちえない荒廃がつづくかぎり、児童中心主義は、形をかえつつもくりかえし再生しつづけるに違いない」。


学校の空間性と神話性
電気通信大学人文社会学系列助教授  森 重雄

 「学校神話」という言葉がある。殺風景な空間に過ぎないのにもかかわらず、「学校は厳然たる空間として存在しなければならないし、子どもたちもそこに通わなければならない」という我々のイメージのことである。森氏は、「建築物としての学校」の登場の歴史から、この殺風景な空間が、いかにして神話的な空間として位置づけられるようになったのかを解いていく。

 明治初頭に導入された、机と椅子と黒板という現代と同じレイアウトの教室は、当時の人びとにとっては何よりもただ不可解な空間であり、子どもがそこに行かなければならないような神話性は、まったく存在していなかった。この不可解な空間に神話性を読み込んでいったのは、明治政府の側であった。「明治政府 が寺子屋を廃して学校を執拗に追求した背景には、学校プラントの世界建築性があった。学校を作れば明治政府が支配する統一国家としての日本が文化政策的に形成されると同時に、西洋的な列強にもなれる、というわけである。だから学校空間は、遅れて近代化・産業化を開始した後発国・日本の政府にとっては、ぜひとも導入されなければならない一種神話的な空間なのであった」と氏は言う。

 ではなぜ、人びとはやがて子どもを学校にやるようになり、学校空間は、子どもがいる空間として広く神話化していったのであろうか。ここで氏は、物質的な学校空間の背後にある「子どもの社会化空間」の変遷に着目する。学校プラントが開発される以前は、子どもと大人の社会的な距離はほとんどなく、子どもはおのずと大人になっていった。あるいは身分制社会の中で、あらかじめ決定された社会化目標に向かって、迷うことなく大人になった。ところが、開発以後の社会では、大人と子どもの社会的距離は拡大し、身分的なコンパートメント状況は解体した。そこで生み出された子どもの社会化空間が今日の学校なのである。

 発達の社会化空間をもつ開発社会では、子どもは親にとってミステリアスな存在となる。つまり、自分の子どもが誰であるのか、誰になるのかについて、親は保証できない。氏は、学校を「親がわが子が誰であるのかを他の子どもとの差異との関係で確認し、さらには親自身のアイデンティティを回復するための供儀的な空間」であると言う。そして、人びとは「自由」になればなるほど神話化された学校空間に拘束されてゆくというパラドックスを内包していると指摘する。「日本でも、学校の機能のいくつかは、塾をはじめとするさまざまな機関へと外部化されているむきがある。それゆえ社会化機能や選抜・配分機能といったより具体的なレベルでの機能に学校神話を求めるならば、現在、学校神話はゆらいでいると言うことはできよう。しかし物質的学校空間の『エートル』という意味での学校の神話性は、はたしてゆらいでいるといえるのであろうか?」


教育改革の潮流とベクトルを読む
国立学校財務センター教授  市川昭午

 臨教審以来、現在の教育改革におけるキーワードは、戦後の画一教育の批判としての「個性主義」である。市川氏はこれを「一見、もっとものことなようだが、基本的に誤った考え方である」と指摘する。学校教育とは本質的には画一的であり、特に公教育では多方面にわたって法令の規制を受けざるを得ず、そこで個性主義が実現可能であるとは言い難い。もし、本当に教育原理を個性主義へと転換するのであれば、国民教育制度を解体し、学校教育を廃止ないしは公立学校を私立化するなどの「個人教育化」を進める方が筋は通っている。しかし、そうなった場合、教師は職を失い、子どもは行き場所を失い、親は廉価な教育機関を失ってしまう。世間の人びとも、行き場もなく街を徘徊する子どもの出現を望まないだろう。つまり、今の学校に代わるシステムが見出せず、また現在の学校が解体されることを歓迎しないからこそ、今ある学校制度の範囲内で少しでも個性主義を実現させようとするのだと氏は言う。

 さらに、改革の主体である関係当局が、財政的に不可能でありながらも「個性主義」をスローガンに掲げるのは、「学校教育の急速な大衆化・普遍化への対応」という「別の理由」があるからだと氏は言う。1960年代以降、提案はされたものの実現できなかった学校の種別化、教育課程の類型化、能力別学級の編成などの多様化・多層化を、さらに深刻な事態を抱える現在の学校教育において実施するためには、誰にも支持されるスローガンが必要であった。つまり、「個性重視の名のもとに、実質的な教育の多様化・多層化をすすめることこそが、個性主義が教育の中核にすえられた中心的な理由なのである」。

 このような潮流にのった改革は、そもそも矛盾をはらんでおり、きわめて不徹底なもので終わるであろうと氏は言う。個性が至上となった際、一定の基礎学力や基本的な生活集団、社会性を身につけさせることは困難になるし、現状がそのまま肯定されれば、自らの努力目標も持ちにくくなる。学校では自由に過ごしてきたが、社会に出てから最低限の学力すら持ち得ていないことを後悔することもあるだろう。そうなると、国家社会のインフラである学校教育そのものの存在が危うくなり、ひいては社会の維持ができなくなってしまうことを氏は危惧する。「国の画一的な個性主義の勧めに対して関係者が一応支持の姿勢をとっているが、それが熱烈歓迎にまでは至らずに消極的な受容にとどまっているのは、そうした事態になりはしないかという一抹の不安を感じているからであろう」。


社会システムから見た学校改革
東京工業大学大学院社会理工学研究科教授  矢野眞和

 学校と社会システムの関係は、個人の生活レベルから考えれば、「学歴」と「人生」の問題であると矢野氏は言う。個人の人生は、家庭・学校・職場というように生活の拠点を移動させていく。教育問題として取り沙汰されているものの一つが、ここでいう「学校」と「職場」の関係である。そこでは「学歴主義」「偏差値」が問題視され、その克服が教育改革の柱となっている。一方では、学生の採用に際して「学歴不問」を掲げる企業も現れるようになった。しかしながら、氏はこうした時流に疑問を投げかける。「学歴不問を手放しに喜んではいられない。学歴が人材の資格として魅力あるものになっていないという証拠だからである。学歴と人生が無関係であるのは奇妙だし、学歴だけで人生が決まるのも 奇妙である」。

 学歴社会の実態は、市場経済の合理性がもたらした結果であり、学歴社会も受験も合理的に編成されている。氏が問題としているのは、この合理的に編成された家庭・学校・職場の関係を、必要以上に大きく見せ、強く固定化させている社会的装置である。それは、「年齢主義」に支配された「直列・直流型の人生システム」であると氏は言う。「家庭・学校・職場という生活の拠点を直列に結びつけて、それをひたすら年齢順に、規則正しく、真っ直ぐに流れていく」直列・直線型システムが、学歴の利点を見えなくし、欠点を拡大・強化しているのだと。

 「直列・直流型」に代わるシステムは、学校と職場とを年齢に拘束されることなく自由に行き来できる「並列・交流型」である。教育のコストと便益を考えた際に、今のところ「並列・交流型」では経済的にペイできず、このシステムへの転換に際しては、労働市場が流動化し、社会秩序と安定がゆらぐ恐れもある。しかし、氏はそれを超えてでも新しい時代の秩序を作ることが必要であると述べる。「中学を卒業するくらいまでは、年齢主義でよいと私は考える。しかし、せめて15歳から30歳くらいまでの期間だけでも、年齢にとらわれない教育・雇用システムにすることこそが、今の学校改革を考える基本だと思う」「18歳・22歳で就職した場所を出発点として、そこでどのように生き残るかを競争するよりも、人生の到達点を探し求める旅のほうが魅力的ではないだろうか。学校は、その旅を支えるインフラストラクチャーにならなければならない」。

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