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学校で生き方の指導は可能か

木原孝博×小浜逸郎×諏訪哲二



生徒指導とは何か
    −今日は教育学をご専門とされる研究者の木原先生、現場の教師である諏訪先生、評論家の小浜先生にご参加いただきました。「学校で生き方の指導は可能か」というタイトルなのですが、まず木原先生に生徒指導とは何かを教育学の立場からお話いただければと思います。
木原:  学校教育を考える場合、三つの層でとらえるといいんじゃないかと思います。
 まず、学校教育には、「管理」という一つの教育作用があると思うんですね。それからもう一つは「教授」、もう一つは「訓練」ですね。この三つの教育作用があるんじゃないかと思うんですね。
 「管理」というのは、条件整備であって、教育ではない。つまり、「教授」を行ったり、あるいは「訓練」を行ったりする場合の条件を整備するものであるというふうにとらえておきたいんですね。子どもというのは、ほっておくと悪いことをやる。粗野で、凶暴で、落ち着きのないものだ。だから、どうしても子どもを威嚇したり、しかりつけたりしないと、授業を行うことができるような状況にならないということですね。だから、まず管理をしていく必要があるだろうということです。
木原孝博氏
木原孝博氏
     「教授」というのは、今までの文化遺産といいますか、科学だとか芸術だとか、技術を子どもたちに教えていくということですね。これは、国家も必要とするだろうし、子どもが生きていく上でも必要だろう。
 「訓練」というのは、子どもの生き方の指導ですよね。これは人間同士の関係といいますか、学校あるいは学級の構成員同士の関係とにおいてであって、少なくとも上下関係ではないということですね。
 そして、生徒指導に関して今問題にしているのは、「訓練」のことじゃないかと思うんです。つまり、教科指導、「教授」の問題でもない、「管理」の問題でもない。生徒指導というのは、共同体の構成員である子どもたちの生き方の指導という形でとらえたらどうかということですね。もちろん、そういうことが行われるためには、先ほども言ったように、条件整備が必要ですし、今の子どもたちが十年前から随分変わってきて、そういう教授あるいは訓練を受けるような状況にないということであれば、それに応じて状況整備をしていく必要があるんじゃないかということですね。
 それで、生き方の指導としての生徒指導という場合、これはやっぱり子どものほうへ目を向けて、何よりも子どもを受け入れるという側面と、もう一つは、共同体の価値のほうへ目を向けて、その価値を子どもたちに教えていく、そういう二つの側面がどうしても必要だろうと思うんです。
 子どもは、受け入れてやりますと、大人のもっている価値を主体的に学習しようとする意欲が出てくる。受け入れていませんと、主体的に学ぼうとするような意欲が出てきませんから、どうしても共同体の価値を押しつけるような形になる。そうすると、反発して、いろいろな問題が出てくるんじゃないかと思うんですね。ですから、まず子どもを受け入れながら要求していく。そういうバランスが生徒指導の場合にはものすごく必要になってくるんですね。
 知的な能力を育成する「教授」の場合ですと、論理を追って、子どもたちに有無を言わさず学習させざるを得ないという問題があるんですけれども、価値を教育する場合には、その価値を持っている人との人間関係がものすごく重要になってくるんですね。


現場教師の「文学的対応」
小浜:  大変明快に整理された、よく分かるお話だったのですが、より具体的にお聞きしたいと思ったことが一点あります。それはつまり、「受け入れながら要求していくバランスが大事だ」というのは、まったくおっしゃるとおりだと思うんですけど、教師が現場で具体的に生徒と向き合っているとき、そのバランスとはどのようなものなのか、それを感覚的に把握できる場面として言っていただくと、話がよく通じていくんじゃないかということです。
 というのは、実際に現場で教科指導をしていく、それから生活指導をしていくといったときには、どれが「管理」であり、どれが「教授」であり、どれが「訓練」であるかというようなことが、教える主体である先生の側にどれだけ意識されているかというと、これはあまりはっきりしなくて、渾然一体になっていると思うんですよ。
小浜逸郎氏
小浜逸郎氏
諏訪:  「受け入れながら要求していく」というのは、教員はみんな実際にやっているんですよね。やっているけれども、それぞれの学校のシチュエーションで、それぞれの個性がそれぞれの個性に対してやっているから、一般化できないんですよ。一般化できないけど、無理に言葉にすると、私は最近、それを「文学的な対応」と言っているんですよ。つまり、教師と生徒というのは政治的な関係性だと私は思っているんだけど、実際に教師がやっているのは「文学的対応」なんです。
 例えば、杓子定規に、こうだからこうだよなんてことは、教師は誰もやっていないわけですよ。「これは、校則だからだめ」とか「おまえのその態度はだめだから、だめだ」とかいうふうなことは、誰もやっていない。
小浜:  「文学的な対応」という言葉は大変インパクトがあるんですけれども、先ほど木原さんからありました、知能の伝達と価値の伝達とはちょっと差があるというお話で言うと、この「文学的な対応」というのは、価値の伝達に対応する話だと思うんです。
 それで、価値の伝達の場合に、受け入れながら要求していくことのバランスが非常に大事であるということになると、それは、教師の人格によって左右されることになりますよね。諏訪さんは、今、日本の先生はみんなそういうふうにバランスをとりながらやっているんだと、ある程度一般化されておっしゃったけれども、事実上は……。
諏訪:  一人ひとり違うわけだよね。
小浜:  例えば、どうしようもない教師というのも一割、二割は必ずいる。そういうことの違いを現在の学校の組織はどうやってコントロールしていくのかということが具体的な問題としてあると思うんですね。
 現場性みたいなものを何も分からないで外から無責任なことを言っている人に対しては、諏訪さんの言い返しは、非常に有効だと思うんです。そんな、マニュアルどおり、校則で縛ってなんかいないよという言い方は、有効であるし、言っていく必要があるだろうと思います。しかしながら、それはあくまでも、教師一般がやっているんだよという言説のレベルですよね。実際は、もっと細かいんじゃないんでしょうか。
諏訪:  いや、細かいというより、私は「管理から始まっていますよ」と言ってるんです。現実には「文学的な対応」によって、要求と受容のバランスをとりながらやっているわけだけれども、いずれにしてもプラスとかマイナスとかの問題じゃなくて、やっていることは管理ですよと言っているわけですね。


無意識に行う「文化性」の伝達
小浜:  それは、先ほどの木原さんがなされた分析とは違った観点ですか。
諏訪:  生徒指導の話で言えば、先ほどの分類では、訓練に当たる部分が生徒指導だとおっしゃられた。そういう枠組みなんでしょうけれども、私自身の現場的な感覚から言うと、そこがよく分からないところなんですよ。学校には、共同体的な規範を、意図的にではなくてある意味では無意識に教えているようなところがある。
木原:  そうですね。
諏訪:  だから、共同体のもつ文化性みたいなものは、思わず知らず、日常の学校の動きのなかでわれわれは教えてしまっているわけで、教師は意識するしないにかかわらず教育してしまっていると私なんかは言うんです。
 一方、生徒に価値観を教えるとなると、正対というか、ちゃんと向き合わなきゃいけないし、ちゃんと向き合うためにはものすごく難しいことがある。
 正対して向き合う教育学がほかの国のどこにあるのかと。どうもないみたいなんですよね、そういう発想が。ところが、日本だけ、生徒指導の理論で、木原先生がおっしゃられたように、「価値観を教える」というのが自然に出てきていて、教師もそれを受け入れているんですよね。それが本源的に何かおかしいような気がする。
諏訪哲二氏
諏訪哲二氏
     私に言わせれば、教師がやっているのは、社会共同体が子どもたちに強いているレベルのことであって、個と個の価値の伝授のレベルじゃないわけです。それをごっちゃにすると困るわけね。
 つまり、文化性の伝達というのは、どんな教師でもやっている。どんな教師であろうと、間違いなく八割、九割ぐらい、同じようにやっていますよ。それを私は、とりあえず管理だと言っているわけです。
木原:  その「文化性」というのが、いまいちよく分からないんですけどね。
諏訪:  例えば「学校に来なさい」とか、「学校では座っていなさい」とか、「授業を受けなさい」とか、「立ち歩かないようにしなさい」とか、そういうことですよ。
小浜:  日本の大人社会の共同性を維持している一般的な秩序、広い意味での秩序というふうに考えていいんじゃないんですか。
諏訪:  それと、例えば木原さんなんかが言われる生徒指導というのは、同じなんですか。違うでしょ?
木原:  それは、生徒指導ではなくて管理ですね。
諏訪:  すると、その先には別に人間教育があるわけですよね。
木原:  生徒指導の場合に受容と要求ということがあるけれども、広い意味では、その要求の一面として管理を入れてもよろしい。その場合には、要求というのは、管理と、社会的自立への要求との二種類があります。その場合の生徒指導というのは、管理を内に含めているわけですね。
 そういうふうに生徒指導という概念を二義的に使っているわけですけど、僕はやっぱり、管理は管理として、本来の生徒指導からは外へ出すべきだと思うんです。
諏訪:  そうだとすると、そこで言っている「生徒指導」には、私はちょっとクレームをつけたい。つまり、教員が個人として人間的価値の伝授をすることを全面肯定するような理論は保留させてもらわないと。それは、非常に危険ことになると思うんですね。


集団自治能力と自己管理能力
木原:  生徒指導の一番大きな目的は、社会的に自立させるということですよ。
諏訪:  だけど、何で学校でそういうことをやる根拠があるのかという問題になりますもの。つまり、人間の価値に関わることでしょ? 人間の価値に関わることを伝達する場合、マニュアルはできないし、それは、日常生活の時間のなかで、教師一人一人が個別の生徒と向き合い対応していく関係を通じて伝授されていくということになりますよね。
木原:  そうですね。
小浜:  すると、そういう全人間的な価値の伝達ということをすべて学校が背負わなければならない、個々の教師が背負わなければならないということになると思うんですよ。
諏訪:  いや、というより、国民が学校にそういうものまで委託しているはずがないんだよ、根源的に。
木原:  では、何を委託しているわけですか。
諏訪:  だから、普通の社会人になることは委託していると思うんですよ。だけど、人間的な価値を教師が教えるということまでは、委託していないと思いますよ、常識的に考えて。それは教師が勝手にやっているんであって。
木原:  じゃあ、先生のおっしゃる価値というのは、どういうことを意味しているんですか。
 それからもう一つ、今、社会的自立というふうに価値の問題を言ったんですけど、集団を集団として運営していく能力、つまり集団自治能力といいますか、そういう力はやっぱり学校で教えていく必要があるんじゃないか、学校以外のどこで教えることができるんだろうかということなんですね。もう一つは、自己管理能力と言ってもいいけれども、自分自身がきっちり規律をもった行動ができるような自己管理能力。
諏訪:  基本的には賛成ですが、今、木原先生がおっしゃった集団を集団として運営していく力というのは、日本の学校はかなり身につけさせていますよね。
 行事とか掃除とかを通じての集団的な行動が、日本の労働力のインフラストラクチャーみたいなものを形成したことは間違いないし、そういう点はほかの国とかなり違うんじゃないかと思いますね。
木原:  それが生徒指導ですよ。生徒指導のメインはそれです。
諏訪:  それは、価値観というのとはちょっと違う。価値観ということになると、個に還元された内面的な問題になるので、私はそこを分離しているんですよ。
 また、自己管理能力とかそういうものも、学校でやるものかどうかは知らないんですけど、日本の学校はやってきたと言っていいと思うんですね。これはたぶん、ほかの国の学校なんかと、まったく違うところでしょうね。
木原:  そうそう。アメリカなんか、全然、そんなことはしてませんから。
諏訪:  吸収したのか押しつけられたのか、あるいは、自然にそうなっちゃったのか。とにかく、われわれがもっている学校文化の型ですね。


第三次産業社会の集団づくり
小浜:  宗教的バックボーンなり、文化的背景なりが欧米と違うために、違う形で学校教育をやってきたのですが、集団自治能力とか自己管理能力という言い方のもっている抽象的なレベルを、その必要性があるのだという言い方で、そのまま学校が続けてやっていけるのかどうか。
 つまり、外側の社会が大分変わってきて、同じように「集団性」といっても、昔考えていた、労働者が工場に集まって労務をするのを管理していくというイメージ、発展途上型、近代産業社会型の集団性と、現在の、第三次産業が中心になった社会での集団性とでは、おのずから意味が違うのではないかということが、一つあるんですね。
木原:  そうですね。
小浜:  しかしながら、学校社会では、相変わらず、発展途上型の近代社会に適応するものとしてつくられた集団性の概念をいまだに保存、維持しながら、それが必要なんだというふうにやっているのではないかというのが僕の疑問点の一つなんですね。
木原:  「集団自治能力」は第二次産業的な社会の能力で、第三次産業の社会とは随分ずれているんじゃないかと。
小浜:  いや、第三次産業中心の社会に適合した集団自治能力とか自己管理能力とかが、僕はあり得るはずだと思うんです。それを具体的に言葉に出していくことが必要なことだと言っているわけです。
諏訪:  小浜さんは、それをあり得るはずだと考えるんですね。
小浜:  ええ。あり得るはずだと思います。それは希望ですから。だって、それを言わなかったらば、あとはレッセ・フェール、「どうぞ、勝手に」ってなっちゃうわけですよ。
木原:  だから、私が言った集団自治能力というのも、どうせ集団に入らざるを得ないわけですから、つまり、第三次産業社会で生きていける、その集団をうまく切り盛りできるような能力をどこかでつけなければならない。それは学校以外にないんじゃないかということなんですよ。
諏訪:  そのレベルで言うと、私なんかの感じでは、集団自治能力というよりは、集団として折り合っていく力ぐらいのこととしか思っていないんですね。
木原:  例えばプロ教師の会の河上亮一さんなんかの本を読んでみると、組み体操なんかをやっているじゃないですか。そしたら、ものすごいリーダーが育っていますよね。ああいうリーダーが出てくるというのは、本には書いてないけど、河上さんが相当指導しておられるからじゃないかと思いますよ。
諏訪:  いや、そんなことはない(笑)。
木原:  だって、そうでないと。じゃあ、あれは自然発生的に出てくるんですか。全然、集団経験もない連中が……。
諏訪:  いや、あれは体育の教師がやったんですよ。体育の教師に集団をつくる力があったんですね。
木原:  それだったら、体育の教師がどういうふうに育てたかというのを一般化しないと。
諏訪:  それが一般化できないんですよ。
小浜:  もちろん、指導の仕方とか、体育会系の怖い教師の威厳だとか、それからいろいろ地域だとか学力水準の問題とか……。
諏訪:  うん、そうそう。あと、リーダーに対する気持ちの通じ合いとか、そういうのが大きいんですよね。
木原:  だから、そういうあたりをはっきりさせないと、今の、それこそ集団の折り合いをつける能力あたりも育たんのじゃないかということですね。それを、一般化できないという形で、ぱっと捨ててしまうのはいかにももったいない。
小浜:  それがいい実践だと思う人はもちろんいるんですよ。僕はそれを否定しようとは思いませんが、それがまた相対化されちゃってて、そういうことをいいと思わない人もたくさん増えちゃってるんですよ、この社会は。
 それが第三次産業社会の特徴です。つまり、第三次産業社会の難しさは何かというと、要するに、人間関係をどう折り合いをつけてうまくやっていくかというときの人間関係というのが、一括大集団ではないということなんですよ。自分の身体と直接関わる日常性のレベルでの個対個みたいな関係をどうやっていくかが重要なポイントになってきていて、子どもが傷ついたり、いじめになったりしているわけですよ。


個と個の関係をどう深めるか
木原:  それじゃ、第三次産業社会のなかでの集団の折り合いをつける能力というのは、どういうふうになりますかねえ。もう必要なくなるということですか。
小浜:  そうではなくて、小人数のなかで、フェース・ツー・フェースの関係をいかにスムーズにやっていくかということが、僕はこれからの、人間関係教育として大事なんだという気がするんです。そこがポイントなんだという感じがするんですね。
諏訪:  だけど、個と個が向き合うと争いになりますよ、必ず。
小浜:  争いになるから、なるべくその争いを、すごい暴風雨みたいにしないで、なるべく熱帯性低気圧みたいに散らす。
諏訪:  そういう力を個はどうやって身につけるんですか。その争いをすることによってですか。
小浜:  ですから、僕は、本当に人間が個対個で、面突き合わせるというのでなく、何か媒介物が必要だと思うんです。一般論として言いますと、三角形の底辺の右側と左側に個がいて、それが斜めを向いていて、三角形の頂点のところに何か媒介物をうまく提供してやるようにする。
諏訪:  具体的には、それはどういう力なんですか、それが分からない。
小浜:  それは子どもによってみんな違うわけでしょ? つまり、その子の関心とか、能力の限界とか、適性とかがありますよね。そういう適性をなるべく早く周囲の大人が見いだすことができたほうがいい。そのためにはその子に適した作業なり、物なり、学習でもいい。少なくともそういう道具を提示する責任が大人にはある。
諏訪:  ちょっと待ってください。「周囲の大人が」と言われたでしょ? 周囲の大人に子どもが見えるんですか。あるいは、教師に子どもが見えるんですかと言ってもいいんだけど、そこで指導を前提にされちゃうと困るな。
小浜:  ですから、システムが変われば今まで見えてこなかったものが見えてくる可能性があり得るということです。
諏訪:  いや、われわれの頭、身体性そのものは、旧システムですよね。そうすると、システムが変わると、新しい時代、新しい子どもの様相は見えないのが普通じゃないんですか。
小浜:  ただ、旧システムの必要な部分というのはあるわけですよ。僕は全部、旧システムをなくせとは言っていないわけですよね。旧システムの頭でやってきた人たちがガードすべき領域、伝達すべき領域というのはあるんですよ。
 しかし、それだけではだめだから、新しいおもちゃを別の場所に用意することによって、そのおもちゃを媒介にして個と個が結びつき合うことがあり得ると言っているわけですよ。それは学校の旧システムだけでは無理だから、学校を縮小しなさいと言っているんですよ。
諏訪:  実際上、学校はどんどん縮んでいますよ。だって、みんな学校に来なくなってきているんだから。教育困難校なんか、遅刻、早退して、来ないわけだ。どんどん、縮んでいますよ。
小浜:  それはネガティブな意味で縮んでいるんであって、僕は積極的に縮めろと言っているわけですよ。


学校外で養う集団性
木原:  先ほども言いましたように、集団のなかで折り合いをつける能力というか、自治能力は、学級で今のような集団活動をさせる以外に身につける方法はないと思うんですね。
諏訪:  私もそう思いますよ。小浜さんは反対でしょうけどね。
小浜:  じゃあ、具体的に申し上げますけれども、僕が考えたことというのは、義務教育は八年ぐらいにして、午前中の授業だけ。それから週の日数も、今、五日制が実施になっていますけど、四日にしちゃうということです。そこで公共性というか集団能力を養えばいい。
木原:  それはもう随分、大々的な制度の変革ですね。そうなれば、また話は別ですよ。
小浜:  そうですね。ただ、その場合は、全員が学校へ行くわけですよ。だけど、学校にずっといるということの負担を減らそうという話なんですよ。ですから、午後はそれぞれの子どもが自分の居場所を探す。それは親も一応、その子どもの適性をよく見て、その子に合った居場所を探す。そういうアイデアです。
諏訪:  親が見てというのが、よく分からないんだけど、親が見てそんなに簡単に子どもの適性が分かるんだったら、今のようなこういう事態になっていないと思うんだけどね。
木原:  その場合、子どもの居場所はどうなりますかねえ。
小浜:  それはちゃんとやらなきゃいかんし、たくさんつくらないとだめですね。それはいいかげんに、ただ余白をあけておくという意味ではなく、きちんと運営主体を確立させて、ここではこういうことを責任をもってやりますというものを、コストもかけてつくらなきゃいけない。それには、企業も協力すべきだし、地域も協力するということですよ。
諏訪:  集団性になじまないというのは、小浜さんの改革案が実施されたとしても、同じ比率というか、もっと多く出てきますよね。それは解決策にならないんですよ。必ずなじまないやつがいるから。
小浜:  でも、最初からそんなペシミズムで言うことはないじゃないですか。
諏訪:  いや、必ず出てきますよ。それが本質的なものですよ。
小浜:  そりゃ、そんな理想社会なんかできないですよ。
諏訪:  いや、理想社会がどうのという問題じゃなくて。解決策とはならないでしょう、恐らく。
小浜:  でも、少しはよくなると思うな。
諏訪:  いや、それがよく分からない。その午後の時間は親が適性を見てといっても、親が見ても教師が見ても、一個の人間を見るというのは、非常に困難なことじゃないんですか。私はそう思っているんですよね。
小浜:  僕は、小学校ぐらいですと、むしろ学校に拘束したほうがいいという感じをもってます。中学校ぐらいになると、少しずつ授業時間を少なくして、午後は開放して、親と子で考えさせる。模索期間みたいなものをつくって、いろんな別の多様な機関に通わせたりする。ぼうっとしたい子はぼうっとしているし、不良も出るでしょう、もちろん。
 そこで年齢階層の異なる、例えば大人と接触する時間がもてるようにする。教師と同学年の友達とだけでいるのではなくて、いろんな大人と接するカルチャーセンターみたいなところに午後通うとか。あるいは、学校の施設をそのまま利用したっていいんですよ、コストがかかるようでしたら。だって、プールとか図書館なんて全然利用されていないでしょ? そこに別の運営主体が入って責任をもってやればいい。
木原:  ただ、その場合、今の学校から分離した生徒指導というか共同体の問題をそこでどういうふうに指導するかですね。だから、学校でやったのと同じようなことがやっぱり問題になってくるんですよ。どういうふうにして、子どもが集団処理能力というか自治能力を身につけるか。自分たちが要求を出し合って、それをまとめ上げて、運営していくというふうな能力をどこで身につけるか。
諏訪:  いずれにしても、私に言わせると、同じなんですね。共同体って、一般的な言い方をしているわけでしょ? だけど、学校の外に出ようが内に入ろうが、変わらないと思うんだよね。
小浜:  いや、僕はそうは思いません。なぜかというと、一人の子どもが同じ学校の同一クラスに朝から夕方までずうっといるという事態が少なくともなくなるんですよ。
諏訪:  いや、それは大した問題じゃないと思いますよ。
小浜:  いや、少しは違ってくると思います。だって、人間関係が変わるわけですから。違う人間関係をとり結ぶわけでしょ? 多様な人間関係を一人の子どもが結ぶわけですよ。
木原:  そして教師が評価しないという問題がある。
諏訪:  だけど、その結ぶ力がどうやって身につくのかという問題があるでしょ? その多様な人間関係を結ぶ力というのは、やっぱり訓練で出てくるんですよ、当然。
小浜:  訓練は別の機関であってもあるわけですよ。別の意味の訓練が。そこにはそこなりのルールがあるじゃないですか。
諏訪:  うん。だけど、人間であることの個体の基礎的な諸条件、諸能力をどこでどうやって身につけるのですかという問題が疑問として残るね。そういうものは、伸びやかに、すこやかに育つものではないと思っている。
小浜:  もちろん、学校もその役割を背負うんですよ。
諏訪:  いや、違う違う。学校が背負わなくなったということは、親も背負えないということでしょ? 世の中自体が背負えなくなったんでしょ?
小浜:  それは違いますよ。
諏訪:  親がそうなったというのは、別に意図的になったんじゃないでしょ? そういう時代状況の中でああなっただけの話でさ。
小浜:  ですから、近代学校制度というものの歴史が、親が学校に依存する体質をつくってしまったんだと僕は考えるわけです。
諏訪:  でも、違うんです。そんなことと関係なく、親が親として教えるレベルというのがあるはずで、それをやらなくなったことは間違いない。いや、「やらなくなった」というのはちょっと語弊があるな、それを従来的な形ではやらなくなったということですね。
小浜:  学校システムにみんな預けてきたために、親が無責任になっちゃったんですよ。
諏訪:  無責任というか、今風にしつけをしている。今の欲望中心的なしつけをしている。
 だから、そういうところは変わらないわけだから、居場所をほかへつくったとしても子どもは変わらないと思うんだよね。
小浜:  でも、今のままでは教師の負担が大きすぎるという問題もある。なるべく多くの人間にとって居心地のいいようなシステムにすべきだと思うんです。
諏訪:  今だってなるべく多くの人にとっては居心地がいいですよ。
木原:  「居心地がいい」というのは、居心地のいい集団をつくるということですよ。居心地自体が問題ではなくて、子どもたちが自らつくる能力を養うということです。

     −お話の途中ではあるのですが、残念ながら時間がなくなってしまいました。子どもたちの生き方の指導として、集団自治能力および自己管理能力を養うことが大切であるという点では一致していたのですが、それをどうやって養うかについては立場が分かれていたような気がします。今後機会がありましたら、さらにその点について議論を深めていただければと思います。本日はどうもありがとうございました。

(きはら・たかひろ 教育学)
(こはま・いつお 評論家)
(すわ・てつじ 高等学校教諭)

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