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3つの課題:思春期・家族・問題行動を巡る一考察
〜報告:清永賢二

【 はじめに 】
清永賢二――清永でございます。日本には、箸休めという言葉がございます。本日、私はこの箸休めの役割を果たしたいと思っております。ストローム先生からいろいろなお話がございましたので、私は少しだけ私なりの話をさせていただき、その後、みなさんのご意見を聞きながら話を進めていきたいと思います。

【 講演プロット 】
  1. 問題提起〜「思春期」の再定義の必要性
  2. 思春期における「親子関係」のあり方
  3. 親子関係の病理性はどこにあるのか


1. 問題提起〜「思春期」の再定義の必要性

 まず、「思春期をどう見るか」ということが問題になります。思春期は3つの軸で考えられます。1つは「変化の方向」、2つ目は「変化の早さ」、そして3つ目に「変化の大きさ」です。この3つの軸から浮かび上がるのは、思春期にある子どもたち一人一人の変化の多様性と複雑性、飛躍性であります。
 たとえば、思春期段階にある中学1年生と3年生で、短い時には僅か2年間の違いしかありませんが、彼らの心と体の間には、比較することもできないほどの質的差異が生じております。これだけの違いのある子どもたちを「思春期」という一言でくくって理解して良いのでしょうか。私はもう少し緻密な差異化の努力が必要だと思います。場合によっては、「思春期」という言葉を棚上げにして、別な言葉をこの時期の子どもたちに発見する努力をしても良いのではとさえ思う時があります。
 特に、最近の子どもを取り巻く環境のドラスティックな変化、その中には社会環境だけでなく個人に密着した衣食住環境の革命的な変化がもたらした子どもの心身の変化を眺めた時、こうした「思春期棚上げ論」に傾いて行くラディカルな気持ちを抑えることはできません。
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2. 思春期における「親子関係」のあり方

 ともかく思春期というものは丁寧に見る必要があります。たとえば、思春期だけを限定してとりだして検討するのは無理でして、思春期を挟んでその前後を含め、一貫して発達的に見ていくことが大切だろうと思われます。親もまた子どもと寄り添うようにして変化し発達する存在です。
 「子どもの変化とそれに対応した親の向かいあい」(表2)で示されているのは子どもの年齢に沿った親の態度の変化です。子どもと向きあう親の態度は、子どもの発達に従って当然変化していかねばなりません。私はこれまで多くの非行少年に接してきました。その経験から逆に、豊かな感性を身に付ける一方、社会のルールをきちんと学んで行く子どもとして育って行くための親と子どもの関係を常に考えてきました。そうした経験を踏まえて、親子の向きあい方、特に「親の在り方」を考えると、次の様に5つの段階にまとめることが出来るように思われます。
 第1段階は、11歳前の“前思春期”の子をもつ親の基本的姿勢です。親は子どもが社会的ルールを身につけることに強く関わると同時に、親としての愛情をしっかりと注ぐことが必要です。この段階では、親は全く「母親」「父親」であることが望まれます。
 続いての第2段階では、12〜13歳の“思春期初期”の姿勢です。この段階では、親の基本的姿勢として、子どもが社会的ルールを身につけることにより強い関心を向け、その一方で前思春期に見せたような、時として過剰とも見える愛情の表現は弱め、子ども自らの力による社会的自立への成長を促すことが必要となってきます。この段階では、親は子どもと浅い関係の友人とでもいう立場を取ることが望まれます。
 第3段階の14〜15歳の“思春期中期”では、子ども自らが社会的ルールを身につけていくのを、親はアドバイスするような形で支援し、「どんな時でも私たちはあなたを見捨てない」というサインを強く発信することが大切です。この段階では、親は子どもと深い関係の友人とでもいう立場を取ることが望まれます。
 第4段階の16〜18歳の“思春期後期”では、子どもを社会の入り口に立った存在として認め、子どもが自らの力で様々な選択枝を並べ、自らの行動を決定し、そして結果に対し責任を取ることを積極的に学ぶように支援することが親の大切な役割となります。この段階では、親は浅い関係の隣の社会人とでもいう立場を取ることが望まれます。
 そして最後の第5段階である、思春期を超えた“後思春期”では、子どもを固有な人格を持った一人の社会人として認知し、親子であると同時に、友人そして社会の一知人といった多層な関係を築きあげることが大切です。この段階では、親は子どもと深い関係の隣の社会人という立場を取ることが望まれます。
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3. 親子関係の病理性はどこにあるのか
 思春期段階にある親子関係について、私なりのパターンを述べて参りました。ここに述べましたパターンの他にも、様々な豊かな事実が発見され、理論化され、そして現実の問題解決のために役立てられているものと思います。ただ、この短い報告の最後として、繰り返しになるものと思いますが、次のような疑問を箇条書きで挙げておきたいと思います。

(1) 日本では、思春期という激動の時代を「思春期」という一言でまとめすぎているのではないか。
(2) 術語としての「思春期」の呪縛に囚われすぎるあまり、この年代の子どもの実態を見据え、分けつつまとめるという「思春期学」ともいえる思考体系を作ることの努力が十分になされていない結果ではないか。
(3) 思春期の親子関係といっても、その始まりと終わりでは質的に全く異なる関係があり、その違いに応じたきめ細かな実際的な対応策が求められているのではないか。
(4) そうしたきめ細かさの不足が、最近の思春期の子ども問題の背後にあって作用しているのではなかろうか。
(5) 現代日本の思春期の子どもを持つ親や周辺の大人は、子どもを「思春期」という幅広く抽象的な枠組みで捉えることだけを行い続けた結果、生身の子どもに接した時、大きな混乱が生じ、どのように対応してよいのか分からなくなっているのではないか。あるいは、あるステレオタイプな「思春期子ども像」を実際の子どもに(無意識的にでも)押しつけ続けているのではないか。
(6) これらの状況が、親が「子どもが分からない」、子どもは「親が分からない」という今日よく耳にする状況を作り出しているのではないか。そして、この親子の心の乖離の不安定さと葛藤などが、時として子どもの心の内に、いきなりの暴力的衝動を産み出す原因ともなっているといえるのではないか。

以上の(1)から(6)の疑問は、必ずしも、今日の思春期の子どもと親の状況を十分に示すものではないかも知れませんが、最近の多くの子ども問題の背景には、避けては通れない子どもと親の相互認知のずれ、その結果としての親子の関係性の病理の問題があるように思われてなりません。
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質疑応答につづく


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