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−対 談−
子どもは「心と体」で遊ぶ
小林 登×麻生 武×斎藤 孝

1  遊びが分化してくるのは母親が子どもをあやすから
司会 子どもの遊びについて、いろいろお聞きしたいと思います。子どもにとっての遊びは栄養や睡眠と同じぐらい根源的な活動と考えていいのでしょうか。
小林 遊びの原点は真似≠セと考えられます。そのようなものは新生児にも見られるし、最近ではチンパンジーにも見られることがわかってきたそうです。つまり、基本的なプログラムは遺伝子ですでに決まっているように思えるんです。ただし、新生児がやる真似は、心理学的には本当の真似ではなく、共鳴と呼ばれる、大人が教えなくてもやってしまう反射的なものであるわけです。そして、それが大脳の新皮質のコントロール下に入っていくと、もっと高度な真似、遊びなどへと発展していく。そういう神経細胞のシステムが遺伝的にあるという意味では、根源的だと思います。我々大人が持っている機能の基本的なものは遺伝子でプログラムされていて、育てられる環境のなかで新しい組み合わせがつくられていく。そのような営みの結果として遊びのプログラムがあると考えればいいのではないでしょうか。。
麻生 私も遊びというのは根源的なものだと思います。しかし、生まれたばかりの赤ん坊が遊ぶのかというのは、なかなか難しい問題だと思います。ジャン・ピアジェという発達心理学の大御所がいましたが、彼などはあらゆる赤ちゃんの探索活動を基本的に遊びとみなすんです。ですから、例えば、指を吸う場合、どう吸えばいいかという探索的なところ――彼はアシィミレーション(assimilation)、同化と言いましたが――も遊びであると考えていました。でも、そうするとすべての探索的な活動が遊びになり、遊びが偏在してしまう。赤ん坊が外界に好奇心を向ける活動がすべて遊びかというと、そうは思えないわけです。では、どんな時に赤ん坊が遊んでいると感じるかというと、大人が「いない、いない、ばあ」をしたり「べーっ」と舌を出したりすると、赤ん坊がそれに呼応して「きゃっきゃっ」と笑ったりするような時ですね。そういう楽しむ意識がなければ、遊びとは言えないと思うのです。赤ん坊は母子関係のなかで育ちますが、たんに母親に世話されるだけではなく、あやされるような関係でないと遊んでいるとは言えないような気がします。
小林 母親が子どもをあやすような行動は、霊長類の母親が何かを教えている学びの営みとも考えられませんか。現象としては遊びとして区別できても、脳の機能としては、その他の探索活動とほとんど変わりないものを使っているような気がするんです。
麻生 それはそうなのですが、「おもしろがる」という要素ははずせないと思います。子どもと遊んでいる母親は、子どもをきちんと育てるためにとか、賢くするために遊んでいるのではなくて、おもしろいから赤ん坊をからかっているに過ぎないわけですよね。例えば、フェイントをかけたりして、子どもの予想をずらしていく。それが子どもにとっては結果的に知的なんですね。相手を出し抜くことを教えていたり、知的に頭を使わせていたりするのです。そういう意味で、遊びが子どもに対して知的な刺激を与えるのは確かです。でも、やはり遊びは学びのための学びとは違っているのではないでしょうか。
小林 こう考えたらいいと思うんです。例えば、遊びにかかわる大脳の機能が五つ、それから学びにかかわる大脳の機能が八つあったとすると、かなりのものがオーバーラップしているのではないか。つまり、乳幼児期にはもともと一緒だったものが、成長する過程で分化したり、組み合わせが変わったりすることで、遊びと学びという活動に分かれて発展していった。関与していた大脳や身体の機能はもともと共通していたのだけれど、年齢とともに遊びと学びで違った働きをするようになっていったと。
麻生 小林先生が言われるように、遊びと学びを観察して機能的に区別しようと思っても大変難しいわけです。しかし、子どもがどれだけいきいきと活動に関与しているのか、すなわち意識や態度という点からは、両者は区別されると思います。生態学者のベイトソンは、遊びとは何かを次のように説明しています。遊びとは"This is play "といったメタメッセージのついた活動だというのです。例えば、子ザルと子ザルが追いかけっこをしている、その時に一方の子ザルが「噛むぞ」というような威嚇をするんだけれども、それには"This is play "というメタメッセージがある。だから本当のケンカにはならない。ベイトソンによれば、この"This is play "というのが遊びだというわけなんです。このベイトソンの考え方を発展させて、大人と子どもの関係にも当てはめることができます。哺乳類というのは、成体である親が幼体である子どもに対して一般に攻撃性や本気さを抑制した行動をとります。例えば、我々だって三歳の子とじゃんけんするときに、「じゃあ、次はおじさん、何を出そうかな。パーを出すよ。パーを出すけど、いいかな」と言いながら、向こうがグーを出すと「あ、勝っちゃった」などとおどけてみせる。そういう形で遊ぶわけです。三歳の子と本気でじゃんけんをする大人はいない。大人は子どもに対する時に本気ではない。この態度がまさにベイトソンの言う"This is play "ということだと思うんです。哺乳類は幼体である幼いものに接する時に、本気で怒らない。本気で何事もしない。そこには必ず緩和した楽しい雰囲気と「本気じゃないよ」というようなメッセージが入っている。そのようなプレイフルな態度が、やはり遊びの原点だろうと思うのです。
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