題 名 | : 竹村真一(パネルディスカッションパネラー)さんより |
投稿者 | : シンポジウム事務局より |
日 付 | : 1997年 02月24日(月) 18:35:57 |
インターネット時代のコミュニケーションセンスとは,一種のジグソ ーパズルのようなものだと思う。 僕たち一人一人がその小さなピースだと考えてみよう。この無力な一 個の小さなピースで何が出来るか,誰にも分からない。でも,互いの凸 凹がぴったり合って自分とつながるような他のピースに出会うと,だん だん大きな絵(全体像)が現れてくる。自分という小さな存在が,こん な大きな何かを生みだしうる,その不可欠の一部に自分がなりうるのだ ということが見えてくる。 「自分」とは,そういう意味なのだ。「私」という個人を超えた未知 の全体のなかの「分」,自己をつつむより大きな”自然の中の分”とし ての「自分」。 そこでは,自分のピースの窪みは「欠如」でなく,相手と出会い,一緒 により大きな全体を構成してゆくための,ポジティヴな「資源」でもあ りうるのだ。 そもそもデジタル時代というのは,一人が何かユニークないいものを 作ればそれは無限にコピー可能なのだから,みんな同じことをする必要 がない。むしろ皆ちがう事をして,それを互いに交換/共有すれば,皆 が豊かになる。情報化社会とは,そういう社会だ。多様性や個性が資源 となる社会,互いの欠如や弱さ(凸凹)ゆえに常に誰もが「関係」(ネ ットワーク)に開かれざるを得ない社会。 一人ひとりは無力で欠けた所があるから,ネットワークが始まる。ネ ットワークするから,各々の違いや弱さが互いにとっての長所や財産に なる。 これまでとは違うものさしが必要になってくるのだ。