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小林登文庫


育つ育てるふれあいの子育て
第2章「胎児期からの子育て-生まれた赤ちゃんはすでに1歳-4」

母親をとりまく心豊かな生活環境こそ大切-優しい勇気づけ

 妊娠中の母親にとっては、健康な生活の環境、人間的な心豊かな生活こそが胎教そのもの、つまり、「胎児期からの子育て」にとって、もっとも基本であり、もっとも大切なことです。胎教というものは、こうすれば天才になるなどというおとぎ話ではないのです。母親ばかりでなく、胎児にとっても、心と体の両面にとって健康な生活環境にすることです。とくに、母親の心の安定こそが、胎児のひずみのない発育の絶対的な条件なのです。
 しかし、そういう環境を母親ひとりでつくりあげるわけにはいきません。母親のもっとも身近な人間である夫をはじめ、家族の協力なしにはえられないのです。家族だけではありません。その地域の助産婦さんや保健婦さん、あるいは診てもらっているお医者さんやそこの看護婦さんの協力も必要なことはいうまでもありません。出来ればむこう3軒両隣の人たちも、協力していただきたいと思うのです。
 最近は職業をもつ女性がふえています。そうなると、働いている職場の人の協力も欠かせません。とりわけ、職場はストレスの「巣」のようなものですから、そのストレスが、妊娠した母親をイライラさせたり、あるいは身体的・精神的な疲労に追いこんだりすることは、避けてもらいたいものです。
 職場によっては、妊娠したのだから、十分な産休を与えて当然のところを、むりやり、退職に追いこむという仕打ちを加えて、母親を極度な不安におとしいれるところもあるようですが、なんとかしていただきたいと思うのです。
 こう考えてくると、胎児期からの育児も、誕生後の育児と同様に、社会的な側面を色濃くもっているものなのです。おなかの赤ちゃんと母親をとりまく環境がどうであるかは、これから生まれてくる赤ちゃんにとって大きな意味をもっているのです。
 私の友人でもあるアメリカのD・ラファエル女史(マーガレット・ミード先生のお弟子さんの医療文化人類学者)は、自然界をみても、人間の歴史をみても、子孫を残す重要な時期、すなわち女性(雌)が妊娠・分娩・育児をするときは、必ず女性どうしの助けあいが行なわれているといっています。
 その「助け人」のことを、ラファエル女史はドゥーラとよびました。こまごまと雑用を手伝ったり、優しく勇気づけるコンパニオンのような女性です。もともとはギリシャ語で「奴隷」という意味です。ギリシャでは男性の場合、まさに奴隷ですが、女性の場合は妊娠、分娩、育児を助ける人で、大変尊敬されているのです。
 動物の世界では、たとえばイルカは陣痛がはじまると、仲間の雌のイルカたちが母親イルカをとり囲んで泳ぎ赤ちゃんが生まれるのを助けます。さらに生まれてきた赤ちゃんに息をすわせるために、赤ちゃんをつきあげて海面に押し上げることもやるのです。ゾウも陣痛がはじまると、ほかの雌のゾウたちが母親ゾウをとり囲みます。外敵に襲われないように、分娩中の母親ゾウを守るのです。
 そうあってこそ、母親は安心して子どもを生むことができます。生むのは母親ですが、安心して生みなさい、私たちが守っていてあげますよ、というように周囲が心身ともに母親を支え優しく勇気づけてあげるのです。すなわち、エモーショナル・サポートで、動物にも人間にも、生命のバトンタッチのために行動のシステムとしてあるのです。
 先進国にもかつては、妊娠・分娩・育児をする女性をエモーショナル・サポートするドゥーラがいましたし、現在でも、アフリカや中近東といった伝統文化の社会にはいます。そのほとんどが女性なのです。わが国でも陣痛がはじまれば、むこう3軒両隣のだれかが、お産婆さんをよび、おかみさんたちがかけつけて、お湯をわかしたり、そばについていて介助したりしていたのです。多くの場合、夫といえども男はその場から追いだされるのがふつうでした。もちろん、夫も直接参加する場合もなくはなかったようですが、母親は夫がそばにいなくても、経験豊かな女性たちに囲まれて、安心して赤ちゃんを生んだものでした。

エモーショナル・サポー卜は安産に大きな効果がある

 出産にあたって、エモーショナル・サポートをするドゥーラをつけた場合とつけない場合とではどんなに違うかを調べたデータがあります。
 アメリカで発表された研究ですが、医学部の女子学生をドゥーラ役にして、陣痛がはじまったら妊産婦の腰のあたりをなでながら、「大丈夫、大丈夫、そのうちすぐ痛くなくなりますから。まもなくかわいい赤ちゃんが生まれますよ」と優しく勇気づけて、エモーショナル・サポートしたケースでは、分娩時間が大幅に短くてすみ、ドゥーラをつけなかったケースでは、その倍近くもかかっているのです。
 それは、エモーショナル・サポートによって、まず子宮を収縮させるホルモンの分泌がよくなるからであると考えられています。お産が長びくと、お医者さんは、オキシトシンの注射することがあります。したがって、エモーショナル・サポートによってオキシトシンの使用量が激減することも知られているのです。
 また、つぎのようなデータもあります。ドゥーラがいないお産では、帝王切開がどのくらい必要になったか、胎便で羊水はどのくらい汚れたか(難産になると、胎児はおなかのなかで苦しまぎれに胎便をだします)、また仮死状態で生まれたのはどのくらいかということを調べたのですが、ドゥーラのいたケースのほうが、そのような事態が発生する頻度が明らかに少なかったのです(上表参照)。さらに大量出血のような、妊娠合併症の頻度も減るということが報告されています。また、最近の研究によると産褥熱ばかりでなく、生まれた赤ちゃんの感染合併症も少ないこともわかりました。
 なぜ、このように、エモーショナル・サポートの効果が大きいか、考えてみましょう。
 お産はたしかに自然現象ですが、とくにはじめてのお産では母親が強い不安をもつのもまた当然です。不安やおそれが高まると、アドレナリン(エビネフリン)が大量に分泌されます。それは血管を収縮させる働きがありますから、子宮に流れこむ血液の量をおさえ、子宮の収縮力をおさえるのです。その上、前にもうしましたように、オキシトシンの分泌量の低下もあるのです。だから、分娩時間が長びくわけですし、長びきすぎて胎児が仮死状態になることもあると説明できるのです。なぜ産褥熱や新生児感染症の合併症が少なくなるかは、母親や新生児の免疫力(感染抵抗力)がエモーショナル・サポートで高まり、それが胎盤を通ってわが児に移るからであると考えられています。
 エモーショナル・サポートは、簡単に言えば妊産婦のそばに人がついていて、「大丈夫だ、がんばれ」と、優しく励まし慰め勇気づけるだけのことなのですが、そういう心づかいが薬と同じくらいに重要な役割をはたしているわけです。現在、出産に立ちあって、夫がドゥーラ役として手を握ったり、「大丈夫だよ」と声をかけたりするようにすすめる産科の先生もふえてきました。それは妻、つまり赤ちゃんの母親にとって非常に心強いエモーショナル・サポートになっているのです。
 出産時のエモーショナル・サポートの効果は、前述したように、データを示して証明することができます。妊娠中の全期間を通じての、母親に対するエモーショナル・サポートの効用については、母親にとってたいへんによいことは明らかです。おなかのなかの赤ちゃんについては類推するしかありませんが、必ずやその発育によい影響をおよぼしているはずだと断言しても、少しもおかしくないのではないでしょうか。いわゆる、胎教とは母親だけでできるものではなく、そのまわりの人の協力が必要なのです。
 お産の時のエモーショナル・サポートの重要性は、私自身が身をもって体験しています。1960年代はじめ、ロンドンの小児病院に留学しているとき、わが子が生まれました。当時、私自身は腎臓病の研究をしていて、育児とか、ましてや分娩などに関心を持っていませんでした。お産というのは自然のいとなみで、問題を起こすのは例外的なことと思っていました。専門外であっても、なかなか生まれないので心配になってき始めた頃、20時間以上かかってわが子は、やっと生まれました。しかし、なかなか産声を上げませんでした。今考えると、異国でお産する妻の心を充分に理解して、エモーショナル・サポートをすべきだったと反省しているのです。今も、息子が生まれた朝、私のハムスッテド・ヒースの朝もやの木立にさしていた、朝日の光を折にふれ思い出し、申し訳ないことをしたという気持ちで一杯になります。


このシリーズは「育つ育てるふれあいの子育て」(小林登著・風濤社 2000年発行)の原稿を加筆、修正したものです。



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掲載:2002/03/29