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オックスフォード便り−ディスレクシア研究室留学記−

小山麻紀
オックスフォード大学生理学部博士課程

I - i. ディスレクシア(Dyslexia)との出会い
ii. IQは普通。でも読み書きができない。なぜ?
iii. 日本語でのディスレクシア
iv. ディスレクシア治療法
II - i. 国際ディスレクシアシンポジウム
ii. ディスレクシアへの多様なアプローチ
iii. 私のPh.D.プロジェクト
III - i. BDA (The British Dyslexia Association) 国際会議に出席
ii. 読み書きが困難=ディスレクシア とはいえない


I - i. ディスレクシア(Dyslexia)との出会い

 医学的には「失読症」、一般的には「難読症」と言われているディスレクシア。その一般的な定義は、知的能力や基本的な知覚能力に問題がないにもかかわらず読み書きに困難を示す学習障害です。欧米での発症率は人口の5-17%になり*1、その原因は脳の機能障害にあると考えられていますが、まだ完全に解明されてはいません。

 私がディスレクシアを研究しようと思ったきっかけは、2003年夏に行った卒業論文のための実験でした。漢字学習がワーキングメモリー発達に与える効果の研究を通して、子ども達(6-12才)の持つ多様性そして可能性に触れ、読めないということが彼らに与える精神的・社会的インパクトをしみじみ考えさせられました。単純なようですが、日本人である私がイギリス人に混ざって英語で読んだり書いたりしている苦労とは比べ物にならないものを感じたのです。
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I - ii. IQは普通。でも読み書きができない。なぜ?

 読むことを始めたばかりの子どもが印刷された文字・単語を読むためには、まず目から入る視覚情報を、左脳の中でその文字・単語を構成する音に結び付け分析する作業が必要になります(音韻的処理/Phonological processing)。しかし、読むことに慣れている高学年児童や大人は、この作業に頼らずに単語のつづり全体から単語を理解するプロセスを進めることができます(正字法的処理)。この自動化されたプロセスが効率よく読むことを可能にすると考えられています。

 ディスレクシアの子どもは、この音韻的処理能力や正字法的処理能力に問題がある、とアルファベットを使用する言語圏の研究で報告されています。つまり脳の「読む」機能のどこかに欠損があるため、IQが普通または高くても、印刷された単語・文字をうまく情報処理することができないのです。

 ディスレクシアが脳の機能障害であるという認識が浅い社会では、ディスクシアの症状を示す子どもたちは「頭がわるい」というレッテルをはられてしまいます。それは、子どもの自尊心・やる気を奪ってしまう結果につながりがちです。脳科学の分野からディスレクシア児童に支援を与えられるような研究をしたいと願っています。
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I - iii. 日本語でのディスレクシア

 最近の脳イメージング技術の進歩は、脳の読み書きメカニズム、そしてディスレクシアの脳機能障害を神経生理学的に理解するうえで多大に貢献しています。ディスレクシア患者に共通する脳異常の局所も少しずつ解明されてきています。しかしながら、言語システムの違いからくるディスレクシアの症状の違いを無視することはできません。*2

 例えば英語のようなアルファベット言語と、日本語のように表音文字である「かな」と表意文字である「漢字」が混ざり合う言語では、読み書きの脳機能にも違いがでます。また、その違いは読み書き困難の症状にも反映されます。こうした日本語の特殊性、漢字のもつ視覚的に複雑な文字構造を考えると、欧米で唱えられている音韻的処理能力の欠陥だけでは日本語でのディスレクシアを説明することはできません。実際の症状として、例えば次のようなものがあげられます。

 *視覚的に漢字の細部を正しく区別できない。例えば「折」と「析」。
 *漢字の読み書きに非常に時間がかかる。
 *漢字を読むことはできても書くことができない。

 これ以外にも様々な症状が報告されています。日本語のディスレクシアは、音韻的だけでなく、視覚的そして正字法的処理能力の観点から理解する必要があると考えます。

 また興味深いことに、音韻的処理能力が低い場合は、日本語での読み書き困難を克服できても、中学校で習い始める英語にディスレクシアの症状が顕著にでることがあります。英語を学ぶことの重要さが強調される現代の日本社会においては、アルファベット圏でのディスレクシア研究が問題解決の指針となることでしょう。
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I - iv. ディスレクシア治療法

 ディスレクシアの原因を探る研究が進む現在、その治療法への取り組みも本格的に始まっています。注目を集めているのは 米国のタラル教授とガブリエリ教授の「Fast ForWord」という聴覚的能力を訓練するコンピュータープログラムです。商業的に走りすぎているという批判もありますが、実際に訓練後にはディスレクシア児童の読み能力が向上したという結果がでています。*3 しかし、前述しましたように、日本語でのディスレクシアの治療法は聴覚的能力訓練だけでは100%効果的とはいえないと推測されます。
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II - i. 国際ディスレクシアシンポジウム

 2004年4月17日から20日にかけて、国際シンポジウム「日本語、中国語および英語におけるディスレクシア」(主催:理研脳科学総合研究センター、神戸インスティチュート、オックスフォード大学)が神戸にて開催されます。言語的に違う国々(英語、フィンランド語、中国語、日本語)の研究交流を通じて、日本におけるディスレクシア研究のさらなる促進、そしてディスレクシアという学習障害(LD)への理解・認識の普及に貢献することを目的としています。

 18日はオープンデーと称し、英・米・日のディスレクシア研究者・支援スペシャリストが各国のディスレクシア事情(発症率、対応など)を発表する予定です。そのほかに、学習障害センターで診断治療を行っている医師の先生やLDに苦しむ児童を支援するLD学会のメンバーからの発表もあります。研究者だけでなく、LD・ディスレクシア支援に関わる多くの人々にもぜひ参加いただきたいと思い、準備に取り組んでいます。
*シンポジウムの詳細はこちら(http://www.kobeinst.com/1dl1001j.htm)をご覧ください。
*シンポジウムの議長の一人としてCRN小林登所長が参加されます。

 オックスフォードでの博士課程は2003年10月に始まりましたが、新しい環境に戸惑う暇もなく、このシンポジウムの準備に追われ、これまで過ぎてきたように思います。ここにはディスレクシアに関係する研究に従事する日本人研究者の情報は十分になく、シンポジウムでのスピーカーの選定が当初難航していました。私が手始めにしたことは、日本の研究者によるディスレクシア・読み書きの脳メカニズムに関する文献(英語、日本語)を要約・翻訳して、スタイン教授に伝えることです。このような作業を通して、少しずつスピーカーが決まっていきました。2003年の夏に一時帰国してボランティアをしたディスレクシア支援NPO・EDGE(http://www.npo-edge.jp/)を通して、日本でLD児童支援・指導に直接携わっている組織の存在を知りましたが、この経験も大変役に立ちました。
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II - ii. ディスレクシアへの多様なアプローチ

 シンポジウムの準備だけでなく、自分の研究のほうも何とか構想が固まってきました。
 英国にあるオックスフォード大学のスタイン教授のもとで日本語のディスレクシアを研究したいとなぜ思ったのか?それは、音韻的だけでなく視覚的情報処理能力と読み書き能力の関連性をさぐる、という彼のディスレクシア研究に対する考え方が、日本語での読み書きの脳メカニズムそしてディスレクシアの解明に指針を与えてくれると考えたからです。

 興味深いことに、彼が関わっているディスレクシア無料クリニックは、視覚的情報処理能力が弱いと思われる児童に色眼鏡(黄色または青色)を一定期間着用させることで、30%の児童の読み能力が向上したと報告しています。なぜ、色眼鏡にそんな効力があるのかは100%解明されてはいません。仮説的レベルになりますが、色眼鏡は、ディスレクシア児童の網膜の視覚細胞内における異常(abnormal ratios of Long-wavelength-sensitive cones to Middle-wavelength-sensitive cones)を緩和するのに役立つのではないかと考えられています。
*この内容はBBCでも取り上げられました。
 詳細はこちら(http://www.dyslexic.org.uk/va2.htm)をご覧ください。

 また、スタイン研究室(生理学部)では、ディスレクシアを心理学的観点からだけでなく、神経生理学的観点(i.e. psychophysical measures)からも探求しています。このpsychophysical measures は基本的な知覚情報処理能力(視覚・聴覚)が読み書き能力とどう関わっているかを伝えてくれます。典型的なテストのひとつを簡単にご紹介しましょう。(Coherent Visual Motion / Coherent Random dot kinematograms)

 被験者にはディスプレイ上にたくさんの点から構成されるパネル2枚が提示されます。1枚のパネルの点の何割かは一定の方向に動き、もう1枚のパネルの点はバラバラの方向に動きます。被験者は一定の方向に動くほうのパネルを選びます(一定方向に動く点の割合がキーポイント)。この「視覚的動き」に敏感でないと、読むことに困難を示す傾向があるという結果が報告されています。*4 *5

 この視覚的動きへの敏感さと読み書き能力の関連性については、相反する研究結果も出ています。しかし大切なことは、こうした言語的でない基本的知覚テストは、読み書きを始める前の児童にも使用可能であり、将来現れるかもしれない読み書き困難を早いうちから予測できるかもしれないということです。そして早いうちからの対策、トレーニングの施行は、児童の読み書き困難克服への道につながります。
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II - iii. 私のPh.D.プロジェクト

 上記のテストとアルファベットを使用する言語での読み能力との関連性を示すデータはたくさんありますが、表意文字である漢字を使用する言語に関係するデータはあまり見当たりません。Ph.D.研究では、このテストが日本語での読み書き能力をどう予測するかを探りたいと考えています。

 まだ仮ではありますが、論文タイトルは以下のようになる予定です。

 "The Development of Literacy Skills in Japanese: Relationships between phonological, orthographical, automatization, and visual processing skills and reading/spelling performances"

 この研究は、スタイン教授の指導のもと、Bishop教授やBryant教授ら心理学部の先生からも意見を頂き、小山麻紀のPh.D.プロジェクトとして進めています。ディスレクシアを理解するうえで、まずは日本語での読み書き能力を的確に予測する情報・知覚処理能力を明確にすることが必要だと考えています(=Behavioural study)

 日本語でのディスレクシア診断においては、標準化された検査の作成の必要性が唱えられています。読み書き能力を的確に予測するテストが明確になり、信憑性のあるディスレクシア診断の標準検査として確立・認識されることは、ディスレクシア治療への第一歩だと考えます。長期的研究展望としては、日本語のディスレクシアとしてあらわれる可能性のある脳機能異常を理解すること(=neuroimaging study)、そしてディスレクシア児童の情報・知覚処理能力を向上させるトレーニングプログラムの開発・促進に貢献できたらと思っています。
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III - i. BDA (The British Dyslexia Association) 国際会議に出席

 2004年3月27日〜30日までワーウィック大学(The University of Warwick, UK)で行われた英国ディスレクシア協会(The British Dyslexia Association。略してBAD(http://www.bda-dyslexia.org.uk/main/home/index.asp))国際会議に参加してきました。この会議は3年に一度行われます。

 BADは、読み書き困難に苦しむ人々が彼らの持つ可能性を生かせるような世界を目指す、イギリス最大のディスレクア関係の団体です。主に以下の3つの部分で活動をしています。

 1. ディスレクシアに理解を示し働きかけるよう学校に奨励する
 2. 犯罪に走るディスレクシア青少年の数を減らす
 3. ディスレクシアの人々が、仕事において彼らの可能性を達成できるようにする

 さて、今回の国際会議では、研究者だけでなく実践的にディスレクシア児童・大人を支援する側からも参加があった点が印象的でした。研究と実践の融合が、読み書き困難に苦しむ人々へ、より効果的な治療を提供できること実感しました。
*会議の詳細はこちら(http://www.bdainternationalconference.org/)から。
 プログラムの覧にアクセスすると、各スピーカーの要約が掲載されています。

 ディスレクシア原因についての様々な学説、そしてそれに伴う治療法に関する発表がありました。大切なことは、どんなタイプの読み書き困難を示すかによって、原因そして治療法が違ってくるということだと考えていますが、残念ながら、今回の会議ではアルファベットを使用する言語圏からの研究発表がほとんどでした。3年後の会議では、日本語・中国語のディスレクシアに関する研究が進み、言語の違いからくるディスレクシア症状の違いが明らかにされることと思います。
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III - ii. 読み書きが困難=ディスレクシア とはいえない

 日本語での発達性言語障害の本質は、まだまだ明確に解明されていません。

 SLI(Specific language Impairment)という、特異性言語障害といわれる発達性言語障害があります。ディスレクシアと同じくSLIの原因も明確に把握されてはいませんが、主な症状として話し言葉、そして読み(読解力含む)に欠陥を示します。ディスレクシアとは違ったかたちで症状は表れるが、その障害を引き起こす根本的原因は同じではないかという研究者もいます*6

 しかしまずは、ディスレクシアとSLIという発達性言語障害が、児童の学業だけでなく社会生活にも暗い影を落とす現実を(その障害名を明確に識別することが難しくても)私たちが理解することが大切です。この言語障害を説明する説の一つは、ディスレクシア患者にも共通する音韻的プロセス問題がSLIを特徴づけると唱えています*7

 例えば、無意味綴りといわれる、本当の単語ではない音の一連を聞いた後同じように繰り返す音韻的ワーキングメモリーテスト(例:みけまさてろい)では、ディスレクシア患者のテスト結果は一般に比べると劣る傾向があります。それ以外にも、SLIの特徴的な欠陥は、シンタックス(統合法:句・節・文に内在する規則・文法)そしてセマンティックス(語や句・文の表す意味、その構造や体系)にもみられ、結果として読解力の低下につながることが多々あると推測されます。例えば、英語では、複数にする時に単語の最後に"s"をつける、動詞を過去形にする時に単語の最後に"ed"(規則的動詞)をつける等の語形変化を把握することに問題があるとされています。

 しかしながら、英国の研究者の報告によると、ディスレクシアとSLIは両方とも音韻的プロセスに問題を示すが、基本的には違う発達性言語障害ではないかと示唆しています。*8 ディスレクシア児童の中には、他の言語スキルに頼ることにより、読みの困難を何とか克服できる場合もあるようですが、書字には問題が残ることが多いようです。一方、SLI児童 (動作性IQ100以上)の書字能力は通常レベルでも、年齢とともに読みには著しく困難を覚える傾向にあります。彼らのシンタックス・セマンティクス能力の低さは、読解力の発達を長期的に深く妨げるようです。

 日本語で読み書き困難を示す児童を、ディスレクシアかSLIに区別することは、それぞれの本質がまだ明確にわかっていないという事実、そして標準化された読み書きテストや検査テストがないことを考慮すると、容易なことではないと推測されます。しかしながら、ここで重要なことは、読み書き困難を示す子どもは、ディスレクシアだけでなく他の発達性言語障害をもつ子どもにもいるという事実です。

 言語能力の発達と読み書き能力の発達は相互的に影響しあうと考えられていますので、その発達過程と原因機序の違いについての理解を深めることにより、それぞれの障害に最も効果的な検査法と治療法を提供できます。さらなる研究がそれぞれの障害に苦しむ児童に適切な指導をできるよう、私自身携わっていきたいと思います。




*1 Shaywitz SE (1998) Current concepts: Dyslexia. N Engl J Med 338: 307-312
*2 Paulesu et al (2001) Dyslexia-Cultural Diversity and Biological Unity,Science 291:2165-2167
*3 Temple E et al (2003) Neural deficits in children with dyslexia ameliorated by behavioral remediation: evidence from functional MRI. Proc Natl Acad Sci U S A. 100:2860-2865
*4 "Visual motion sensitivity in dyslexia", Talcott , Stein et al (2000) Neuropsychologia 38: 935-943
*5 "On the Relationship between Dynamic Visual and Auditory Processing and Literacy Skills" Talcott, Stein et al (2002), Dyslexia 8: 204-225
*6 例えば、P. Tallal。
*7 Prof. S.Gathercole。
*8 Snowling, M. Bishop, D.V.M., and Stothard, S. E. (2000) Is preschool Language impairment a Risk Factor for dyslexia in Adolescence? (J. Child Psychol. Psychiat. Vo. 41, no. 5 pp 587-600)


小山麻紀(こやままき) 大学卒業後、証券会社勤務を経て2000年に渡英。2003年ダーラム大学心理学部(ワーキングメモリー専攻)を卒業後、同年10月からオックスフォード大学生理学部博士課程に在籍中。


「オックスフォード便り−ディスレクシア研究室留学記−」は2004年2月20日、3月19日、4月16日と、3回にわたりCRN・TOPICSに掲載された内容を編集・転載したものです。



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