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KYO2



●現役教師の意見

――「教師はこうあるべき」という無意識の規定があるように思う。教師は「人を育てる」「教育」という職種についている人である。それゆえその規定には,教師に対する現状批判と,期待感が入り交ざっているのではないか。また,教師一人ひとりに背負わされる,「人間としての教師」と「教師としての人間」という,二重の枠組みも,その「規定」の一因であると思われる。よって,「例えば」として挙がっていた「教師の犯罪」を当然だと思わないが,当然視されることを意識して,日常の活動をおくることが,教師の職業的宿命なのであろう。

――教師に限らず,犯罪が明かされるのは当然。教師が強調されるのは,やはり「教師」の職業上,当然だと思う。

――当然,模範的であるべき。ただし,教師も人間。健全な娯楽,リラクゼーションは人としての厚みにも重要です。

――私自身は教師である前に一人の人間なので,特別に「教師だから・・・」というのはない。そういう風に役割や立場などで自分や他人を縛ることは好きではない。確かに教師が犯罪を犯すことは誉められたことではない,というよりやってはいけないことだが,逆に教師や医者などを勝手に神聖視する風潮は受け入れられない。

――私生活で模範的である必要はないと思います。社会人として家庭人としてのモラルの範囲内で生活しているだけです。


大学生とは違い,「教師は私生活でも模範的であるべき」という意見と,「教師だからという理由で模範的でなければならないことはない」という意見とに分かれました。無論,後者の考え方の場合でも,1人の人間として社会的常識やモラルは守らなければならないのは論をまちません。ただし,「教師」という社会的立場は「私生活でも模範的でなければならない」理由にはならないようです。また,社会的常識やモラルを「個人として」守るのか,「教師として」守るのかは問題ではなく,むしろ,その「教師」という社会的肩書きへの<視線>のあり方に疑問もありました。教師も「社会の中の1人の人間」であることを忘れてはならないという考えなのでしょう。

●教師意見まとめ

 〜結局は「教師」であることを意識せざるをえない〜

「教師は私生活でも模範的であるべき」という考え方には賛否両論ありました。しかし,以下のような意見もありました。

――教師であろうとなかろうと社会人としてのモラルは同じだし,世間の目に対しても問題を起こさない限り,教師とそれ以外の方との差はほとんどないのではないでしょうか。ただし,在籍校の学区内での行動については,昼夜問わず気を付けるようにしています。例えば,学区内の店はうろつかない,特に本屋での立ち読みはしないようにしています。

――確かに教育公務員としての全体の奉仕者という立場は,世間からの批判にさらされやすい。よって,その職につく際には,このことを強く意識して覚悟を決めるか,世間のそういった風潮にあくまでも個人としての見解を押し通すか,自分の立場を考えて学校内外の活動に注意しなくてはならないだろう。

これらの意見は「結局は日常生活でも<教師>であることを意識せざるをえない」というものです。「私生活でも模範的であるべき」かどうかはともかく,「1人の人間」である以前に「教師」という肩書きが,その個人に重くのしかかっていると言えるのではないでしょうか。それは,「大学生の意見」の項でもまとめたように,教師の地位的な「社会的威信・信用の高さ」があるがゆえの「重み」なのでしょうか。それを裏付けるかのように,「自分の立場を考えて学校内外の活動に注意しなくてはならないだろう」という意見もありました。「教師として<模範的> であること」には,「社会人としての常識」だけでなく,「教師として」の意識も要求される場合があるのではないかとも考えられます。
いずれにせよ,「教師として」の意識には一般社会人のモラルや常識以上のものが期待されていることが分かります。本来ならば「社会人としての常識」がそのまま職業生活でも生かされればよいはずです。それならば,「社会人としての常識」と「教師としての常識」とは違うものなのでしょうか。


大学生の意見』  『教員養成の立場から』  『教師は私生活でも「模範的」であるべきなのか


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