「大学生の教師観調査」では,「私生活でも模範的でなければならない」とする考え方には賛否両論で,ほぼ半々に分かれました。一方では「専門的知識よりも,優れた人間性が必要である」との考え方が大勢を占めていました。極論ですが,「学校教師」という社会的立場の人が犯罪を犯すと「学校教師による犯罪」と,ことさら「学校教師」という立場が強調されることがあります。しかし誤解を恐れずに言えば,教師だって人間です。間違ったことをする可能性はあります。また一方では職業柄,「教育に携わる者」たる意識と規範を備えていることを期待されるのも必然かと思われます。それを「教師という職業についている人だから」という理由で,「教師の過ち」として強調されなければいけないものなのでしょうか。「職業=教師」の人は,私生活でも「模範的」でなければならないのでしょうか。 |
――教師は私生活でも『模範的』でなければならないと思いますか。例えば,「教師の犯罪」として「教師」が強調されることは当然だと思いますか。 |
※「大学生の教師観」調査結果より関連データ |
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現役の先生方にもご協力をいただき,同内容の質問を投げかけ,ご意見をいただきました。大学生の場合には,教職志望かどうかを問わず,その「教師」という社会的肩書きを持つ人々への視線は,厳しいものがあるようでした。一方現職の先生方はどのように考えているのでしょうか。自らは,日常生活でも「模範的態度」をとることを心がけているのでしょうか。
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公教育への懐疑が強まるなかで,「教育」を職業とすることが教員の特権とは信じきれなくなってきて,新しい職業意識を抱く教員たちが出現している。教員個人の職業意識において,「公」の教育という前提そのものが揺らぎ始めている――このように指摘*している古賀正義先生(宮城教育大学)に,ここまでの大学生と現役教師の意見を読んでいただいた上で,お話をうかがいました。 *:古賀正義「職業としての教育」『教育演習双書7 新・教育と社会』学文社,1997年. |
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我々はともすると「先生がそんなことやっていいの?」と「学校の先生である」ことを念頭においてその人の一挙手一投足に注意を向けることがあります。それは,その人の「社会的肩書き」と「一個人としての性格」を同一視して考えているということです。しかもその視点を教師の職業生活だけではなく,私生活にも適用している傾向が一般にはあると考えられます。それが教師に「私生活でも"模範的"であること」を期待することなのです。 しかしそれは,教職についている人を「ごくありふれた日常生活」から遠ざけてしまうことにはならないでしょうか。古賀先生も指摘するように,「総合的な学習の時間」の試みなどにも見られるように,教育の世界でも従来の「境界線」を超えての「異世界(分野)との交流」が制度的にも実現しつつあります。日常生活も含めた様々な世界を知っていることこそが,今後の教職に必要な資質であるとするならば,教師が私生活でも「模範的」であることには,特に大きな意味がなくなると考えられます。 このように考えてくると,教師はそれほど神聖視されるべき存在でもなければ,その反対に批判の対象にもならないのではないでしょうか。つまり,教師とは特別な存在ではなく,むしろ一般社会人の代わりに,単に子どもの教育の一部分を専門的に担当する存在なのではないでしょうか。無論,一個人として守るべきモラルはあります。また,職業生活場面では科目の教育を担当するという意味で専門的知識が必要ですが,それは教職上必要な知識・技能です。仮にそれこそが,教師の職業上の存在意義だとするならば,私生活面でのアイデンティティとはどのようなものなのでしょうか。私生活でも教師としての職業上の存在意義を考える必要がなければ,一個人としてのアイデンティティを「教師」という肩書き以外の部分に求めざるをえません。まずは一個人として市民生活を過ごすことが必要で,その延長上に職業生活を想定していくことが肝要かと考えます。 |